第3話 福羽美静
ここで、津和野藩の悲劇を生み出した一方の人物として、福羽美静を上げなければならない。福翁こと福羽美静は、天保二年生まれで、明治元年当時三六才であった。藩校養老館への入学は十九歳と遅かったが、才覚を現し、藩主の命を受け、嘉永六年京都に上り国学者大国隆正に入門した。
福翁は、安政四年に帰藩し養老館で教授を務めた後、文久三年、御所に召され孝明天皇に仕えることとなった。京都の公武合体派による急進的尊王攘夷派追放に際しては、七卿と共に西下し帰藩、その功が藩主に認められ藩政刷新に尽力した。慶応二年(一八六六年)の第二次長州征伐時には、藩の方針を長州藩寄りにまとめた。明治元年(一八六八年)、藩主茲監が明治維新政府神祇官の要職につくに及び、徴士神祇事務局権判事となり、主に神祇制度確立に尽力した。
厳罰強硬派である木戸侯は、福翁の策は温厚軟弱であって、その成果が案じられるが、それほどに申すなら、むげに退けるわけにもいかないとして、首魁たる者を罰し残る者を追放とする寛典論を認めた。
暫くして、木戸候は、六月になって長崎におもむき、切支丹の主なる者百十四名につき流刑地を定めた。其の内訳は、萩六十六名、福山二十名であり、津和野には特に信仰堅固なる者二十八名が選ばれて送致されることとなった。
津和野藩にかかる浦上四番崩れは、新政府の対応が大きく変化した明治四年(一八七一年)五月を境にして二期に分けることができる。第一期は、明治元年(一八六八年)五月、浦上吉利支丹の中心的人物である仙右衛門以下二八名が、津和野への流罪が決定し出発したときから、明治三年(一八七十年)一月に第一次流罪の者の家族一二五名が津和野に到着したときまでであり、第二期は、明治四年(一八七一年)五月に列強の抗議を受けて外務省の一行が、津和野の切支丹を巡察し、その結果、未改心者の取扱が大きく変わったとき以降である。
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