20杯目「赤石春花の話12」
8月22日(月)15:00
『ごめん、気づくの遅くなっちゃった!』
週の仕事の終わりが近づきつつある時間帯。一週間のほとんどの時間が仕事に集中できずに、千佳のことばかりを考える日々だった。千佳に送った昨夜のメッセージに返信が届いたのは、昼下がり、まだ日は落ちる気配を見せない時間帯だった。
「ううん、今日も彼氏の家にいるの?」
『うん、今は自宅で仕事できるらしくて、一緒にいるよ! 今は少しだけ出社してるから、私暇なのよね……』
「そうなんだ。私も仕事だからそんなにちゃんと返信はできないよ」
『でも、はるちゃんそう言いながら返信してくれるのうれしいな』
彼氏に千佳を取られた悔しさと、その中でもメッセージを返してくれる嬉しさで自分の気持ちに整理がつかない。この気持ちは、この1週間で何度も経験してきた。
『それで、話って何だったの?』
「ごめん、今はちょっと話せないかな。今日の夜って時間ある?」
『うん、いいよ。今日の夜は彼氏も友達と飲みに出かけるらしくて帰ってくるのが遅いのよ』
「わかった。じゃあ20時くらいにまた電話するね」
私はスマホを置き、仕事に戻った。
8月22日(月)20:00
夏の蒸し暑さは間もなく彼岸を迎えるにあたり、少しずつ和らいでいた。この時間にもなると少し風が涼しさを伴って通り過ぎる。
この日、徒歩で通勤していた私は胸の鼓動を抑えながら千佳に発信していた。
『あ、はるちゃん、やっほー』
「もしもし、千佳ちゃん。今大丈夫?」
『全然大丈夫よ!』
少し風が吹き、私の薄手のカーディガンが揺れる。横を何台もの車が通りすぎる中、私は千佳と話しているということにとても幸福感を持っていた。
「もう夏も終わりだね。あ、そうだ、彼氏できたんだね。おめでとう」
『えへへ、ありがとう』
「次の彼氏は長続きしそう?」
他愛もない会話だったと思う。彼女の周りを和ませる優しい雰囲気は誰にとっても魅力的だろうし、そこに惹かれる人は男女関係なく恵まれるだろう。
『うん。なんか今まで出会った来た人たちと違うんだよね』
「違うって?」
私は街中の信号に止められる。いつもなら疎ましく感じるその時間も、千佳と話せる時間が持てると考えると不思議と嫌ではなかった。
『今まではね、私のことを愛してくれて、私がその人のことを愛するだけのような状態だったの。恋愛ってそれが健全というか、まあ普通なんだろうけど、私が求めてたのってなんていうか……依存の関係だったと思うの。『その人のことしか必要ない、その人さえいればいい』って考えると、なんか自分自身の全てを理解してもらえるような気がしてて……』
千佳の声は優しかった。それは私を傷つけないように配慮しているのか、千佳の本心で話しているからなのかはわからない。
『でも今回は違う。私の姿の全てを彼に受け止めてもらえなくていいの。私には大切な友達がいる。彼氏に背負えないことでも、大切な友達に背負ってもらえる。だから、私はとっても気が楽よ。彼氏が完璧な人じゃなくていい。全部依存しなくていい。とってもとっても幸せ……』
消えるような優しい声は、安らかに過ぎていく。
大切な友達。今の私の立場が、千佳にとってどんな役割を持っているのかがはっきりと理解できた。
信号が青に変わり、私は歩き出す。
『ごめんね、私は強い人間じゃないから。だからやっぱり誰かに助けてもらわないと生きていけない。それは、彼氏だけじゃなくて、はるちゃんにも助けてほしいって思ってる。わがままでごめんね。大好きだよ』
私は必死で言葉を探した。
何を伝えればいいのかわからない。自分の気持ちがわからない。
ありがとう。私こそごめんね。大好きだよ。そっちに行かないで。ずっと一緒に居たい。
何度も何度も頭の中を言葉が紡がれては溶けていく。
「わ、私は……」
私が伝えようとしていたこと。それは、私は一人じゃないってこと。
「私は……」
私は千佳のそばに居たい。居られるなら、一番傍がいい。
「私は……千佳だけじゃなくて、みんなと一緒がいい」
私が口から漏らしたのは、世界一かっこ悪くて、誰かを傷つけたりしない、答えのない答えだった。
「わた、私は……千佳と出会って、本気で千佳のことを好きになった。千佳のことを救いたいと思ったし、千佳を幸せにできるのは私しかいないと思った。でも、私は千佳に救われた。救いたいと思ってたのに、何度も救われてきた。だから、ずっと千佳と一緒に居たい。それは私だけじゃなくって、美鈴も一緒。だから……その……」
自分が考えていることがわからない。もう頭で考えるのではなくて、自分が感じていることを必死で言葉で伝えようとしている。
『……』
千佳は何も話さない。千佳は私が話したいことをすべて待ってくれている。私のことをすべて受け入れてくれる。
「私は……もう千佳のことを諦める。私は、私自身で自分を幸せにするから……」
喉が渇く。息が詰まり、呼吸が苦しい。私が持っていた感情が、緊張だと気づくのに、少し時間がかかった。
『言いたいのは、それで全部?』
「う、うん……」
千佳から帰ってきたのは、思いがけない言葉だった。それは、いつもの強い高圧的な口調だった。
『ねえ、私は、なんで今の彼氏と付き合ってるのか、わかる?』
「え、彼氏がずっと欲しかったからじゃないの……」
千佳の声は少しずつ震える。
『私は、あなたへの依存を解消させるために、彼氏と付き合ってるのよ』
「それってどういう……」
次の信号もまた赤信号が灯る。私は千佳の澄んだ強い言葉に囚われていた。
『気づいてなかったの? 私、心の底からあなたのことが好きだった。でも、あなたには彼氏がいるでしょう。相手がいる人には手なんか出せないから、必死で止めようとして、他の人で埋めようとして、苦しくても私は私自身で幸せになろうとしてるのよ』
私の目の前を車が通過する。私は、千佳からの高圧的な声に足が震え、倒れこまないように少し後ろに後ずさりする。
『諦めるって何なの。私のこと好きだったんじゃないの。そんなにすぐに諦められるものなの。私はあなたを諦めるために何度も泣いてきたのよ』
「……」
私は声が出せなくなっていた。
『次はそらのところに行くの? そんな人の何が良いの。あの人の素性知ってるの?』
「……素性??」
呼吸が止まる。それはさっきまでの緊張ではなく、新しい緊張。千佳に嫌われたくないという本能から、めまいと頭痛が止まらない。
一つの通知が鳴る。千佳から一枚の写真が送られてきていた。それは、とあるツイッターのアカウントのプロフィール欄だった。
「これって……!」
『……多分、そらの別垢よ。あの人は女性の同性愛者と出会って関係を持つことを趣味にしてる。あなた、多分そらに狙われてるわよ』
私の頭痛は吐き気に変わった。
その場でしゃがみ込む。画面を見ることができない。
「……」
『……本当にそれでいいの? はるちゃん』
私は、その場からしばらく動けなかった。
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