18杯目「赤石春花の話10」

8月19日(金)12:00

「ねえ、何か私に不満でもあるの?」

 仕事中にも関わらず、スマホに通知が来るのにも少し慣れてきたころ、その通知を送ってくるのは千佳だけではなかった。朝は遅い千佳とは違い、美鈴から「昨日はありがとう」と律儀にも連絡が届いていた。大人びた性格で気遣いもできる美鈴には、それなりの信頼もあり、今後も定期的に連絡したいと思っている。

 そんな美鈴も仕事に出かけ、連絡を寄こしてきたのは彼氏の祐樹だった。

 話を聞くに、帰省から帰ってきてから一切連絡がなくて不安だった、浮気でもしてるのか、という内容だった。私はあきれてものも言えずそのまま放置していたら、昼休憩に大量のメッセージが送られてきたので、慌てて電話している。

「そっちだって、俺に何か言いたいことがあるんじゃないのか」

「あんたも連絡全然寄こさなかったじゃない」

 給湯室に駆け込んだ私は少しだけ声を荒らげる。会社の中で痴話げんかなんか始めてしまったなんてことが同僚にバレたら大変なことになるのはさることながら、それでも感情的になってくる。

「俺だって水曜にはこっちに帰ってくるって言ってたよな」

「だから何なのよ、こっちだって忙しかったのよ!」

「忙しいは言い訳にならないだろう。それならこっちだって忙しかったよ」

 話は平行線をたどっていた。

「もういい。今仕事だから帰ったら連絡する」

 私は無理やり電話を切った。

 無性に腹が立つ。最近プライベートで電話をする相手と言えば千佳や美鈴のような女子が多かったこともあり、そもそも男性と電話することにも嫌悪感を抱き始めた。

 私は少しずつ感じ始めている。

 もう私たちの関係は長くないんだろうな。

「先輩話し終わりました?」

「あ、ごめん。お昼一緒に行くって話だっけ」

「全然気にしないでください。私は先輩いなくてもいいんですけど、きっと先輩はさっきの電話の愚痴でもしたいんでしょうから」

「……ほんっと生意気ね」

「先輩……ちなみに、私の名前って覚えてます?」

「え、急にどうしたの……」

「いいから、答えてください」

「伊藤……透子だっけ?」

 後輩は無表情のまま、頭に手をあて悲しむしぐさを見せる。

「伊藤じゃなくて井納です。透子じゃなくて奈々子です。先輩はもっと人に興味を持った方がいいと思いますよ。ちなみに、私は先輩の名前ちゃんと覚えてます。赤石春代でしょ」

「慰めてくれているのか、冗談言っているのかわからないけど、私の名前は春代じゃなくて春花よ。なんかすごい昔の人の名前だと思われてたのね……」

 私の生意気な後輩は、表情を変えず私の先を歩き始めた。私は彼氏がいなくても大丈夫。千佳も美鈴もいるし、こうやって会社の同僚や後輩がいる。私は一人じゃない。

 そう思えばそう思うほど、苦しく、自分の感情が制御できない自分に失望するのだった。


8月19日(金)21:00

「こういうことがあったのよ、なんか人の名前って覚えるの難しいよね?」

『多分それ、はるちゃんが少し特殊だと思うよ!』

 私はこの日も千佳ではなく美鈴と話していた。同じ社会人として話が合うということもあるし、千佳も今日は別の男の人と話す予定があると言っていたのでちょうど良かった。

「そらちゃんの会社も結構な人数いるの?」

『そうだねぇ、でもあんまり多くないよ。部署内で15人くらいかな』

「なるほどね、私覚えるまで1年くらいかかりそう……」

『ねえねえ、私のこと美鈴って呼ばないの?』

「え、いいの? いいならぜひ名前で呼びたい!」

 他愛もない会話を続けるが、そこには千佳の時のような妙な緊張感のある時間や、強い口調での会話はなく、気楽に話すことができていた。もしくは千佳との経験があるからこそ、美鈴に対しては変に緊張することがなく話せているのかもしれない。

「え、今更だけど、私敬語使わなくて大丈夫? 年上なんだよね……」

『ううん大丈夫よ! もう私たち姉妹みたいなものだからね!』

 千佳と同じように、優しさにあふれる美鈴は私に対して拒否の姿勢を取らない。私のことを受け入れてくれる姿にはありがたさと同時に、多幸感さえ持っていた。

 楽しい会話をしながら、ふとスマホの画面に目を向けると通知が3件たまっていた。通話機能を使っている時はその着信音が鳴らないようになっているので、不思議なことではなかったが、その通知の内容に私は焦りを感じた。

「あ、やばい。彼氏から着信が来てる……」

『あら、そうなの。仲悪いんだっけ?』

「そう……そう言えば今日連絡するって言ってたの忘れてた……」

『行ってきなよ。ちゃんと話した方がいいんじゃない?』

「うん……でもあんまり話したくないな……」

 祐樹からの着信に既読をつけないようにスマホを操作する。

『……私は、もう少しはるちゃんとお話してたいな』

「え、そう? じゃあお話しよ!」

 私はスマホの画面を通話画面に戻し、美鈴との会話を続ける。

「というかさ、私の彼氏やばいのよ! 聞いて!」

 私は美鈴に対して祐樹の愚痴を話し始めた。

 うんうん、大変だったねと話を聞いてくれる美鈴に対して、やはり私は千佳と同様に美鈴にも甘えてしまっていた。


 そして、私はもう一つ、人生を狂わせる重大な失敗をしていた。


 届いていた3件の着信のうち、祐樹からの着信は2件のみだった。

 残りの1件は、千佳からのものだった。

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