7杯目「伊藤早紀の話3」

「私たちを、ここで働かせてください」

 とっさに出た言葉は自分でも信じられなかったが、それでも勢いを止めることはできなかった。

「え、何を……」

「差し出がましい話なのは承知の上です。私たちはこんな身なりで行き場もない人ですが、浅野さんのお手伝いならできます。こんなに素敵な料理ができるのにお店を畳んでしまうなんてもったいないです」

 浅野は困惑していたが、娘もその勢いに乗ってくれた。

「私からもお願いします! 私たちにできることがあったら何でも言ってください!」

「そう……ですか…」

 浅野は口を閉じてしまった。けれど、私たちの言葉を聞いて、一瞬の間、うれしそうな瞳をしたのを見逃さなかった。

「わかりました。一晩考えさせてください。今日はとりあえず、ここに泊まっていってください」

 気が付いたら、私たちはその部屋で眠ってしまっていた。

慣れない布団と興奮で浅い眠りになってしまったため、次の日の目覚めは早かった。それでも、浅野は私たちより早くに起きていて、私たちを見るなり笑顔で言ってくれた。

「今日から、よろしくお願いします」

 その顔を見て、やっと昨日からの興奮が落ち着いた気がした。

「こちらこそ、不束者ですが、よろしくお願いします」

 その日は、昼からの仕込みの時間まで、三人でお互いの人生について語り合った。彼は少し小心者だが、屈託のない笑顔が素敵な心優しい青年だった。


 彼がまだ25歳だということには驚いた。

 たった一人で切り盛りしていたこの店には、先代の彼のお父様の遺品が多く残されていた。どれも思い出の品らしく、大切に保管されていた。

 これからの生活のことも話し合った。私と娘は寝床を貸していただくのと引き換えに、夜の可能な時間は店を手伝うことにした。しかし、当然娘は学業を優先させることにして、私も無理をしない範囲で昼間はパートに出かけることにした。その日のうちに私はパートの求人を探し、娘は浅野に連れられて簡単な仕込みの仕方を教わるのだった。


 その日からというもの、娘は笑顔でいることが増えていった。学校から帰ってくるとすぐに彼のもとで仕事を始める。忙しい時間を終えたら、部屋に戻って宿題に取り掛かる。そんな生活を苦に感じるどころか、本人から進んでやっている姿にはほほえましく思った。

「美希ちゃん、今日も元気だね!」

「おじちゃんも、あんまり飲みすぎないでね!」

 娘は瞬く間に常連のおじさんたちにも顔を覚えてもらえるようになった。まだ中学生なのでバイトという扱いにはできず、家業の手伝いという名目だったにも関わらず、毎日のようにお客さんの前に出ていた。

 娘のおかげで店の雰囲気が明るくなったと浅野は言っていた。彼はあまり年上の常連の方とのやり取りが好きではないらしい。これまでの常連のお客さんが寄り付かなくなっていた要因の一つが、彼の性格でもあったことも感じ取れた。


 私はというものの、以前勤めていたところとは違うところでパートを始めた。

 仕事自体は難しいものではなかったが、万全のため仕事量はセーブしていた。その分、店の手伝いができたことはよかった。


とは言ったものの、心の奥底では焦りばかりが募っていた。

 それは私と娘が店の手伝いをするようになって1か月が経った頃だった。だんだんと外ではコートを羽織り始める人が増えてきたころで、残暑から肌寒さを感じ始めた季節だった。

「浅野さん、この1か月の売り上げはいかがですか」

「早紀さん……以前よりはかなり改善されているんですが、まだ赤字は解消されないままです」

 それは、もう少しで私たちだけでなく浅野までも路頭に迷ってしまうことを指していた。多少改善されているとはいえ、私たちを住まわせている関係上、その分の出費もあり、私たちのせいで店が傾くのを助けてしまっているようにも感じられていた。

 やがて私たちの間にはこういった話ばかりが上がるようになった。なんとかしてこの状況を脱したいと思う中、私にも何か手伝いができないか模索していたが、どうも手も足も出ない状況が続いた。

 娘にはできるだけそのことを伝えないようにしていた。浅野にも悪いとは思いながらも、店の手伝いをする娘の姿はとても楽しそうで、この時間に終わりが来ると伝えられなかった。


「早紀さん、大事なお話があるんです」

 ある日、私は浅野に話しかけられた。

 私はそう言われるのを覚悟していた。内容はおおよそ見当がついていた。

「美希が帰ってくる前に済ませましょうか」

 私は浅野に連れられて厨房の中に入った。


「来月末で、店を閉めようと思います」

 彼の意志は、固かった。

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