8杯目「伊藤早紀の話4」

 苦悩している彼の姿はよく見てきた。

 なんとかこのお店を少しでも長く続けようとしていた。私たちの働いている姿を見て、店を背負っている気持ちが強くなっていたのも感じた。

「来月末で店を閉めようと思います」

 その言葉の重さはここ最近ずっと一緒に居た私たちが良く分かっているはずで、彼の意志をないがしろにすることもできない。

「ねえ、それ本当に言ってるの?」

 厨房の後ろから声が聞こえた。そこには学校から帰ってきたばかりの娘の姿があった。

「美希、帰ってきてたのね」

「浅野さん、それ本当?」

 私の言葉も無視して、娘は浅野をじっと見つめる。浅野も娘の方をじっと見つめてうなづく。

「ああ、今まで手伝いをしてくれてありがとう。本当に感謝してもしきれないよ」

「本当にこのまま終わっていいの?」

「……」

 最近は表情が豊かになった娘だが、こんなに険しい顔をするのは珍しかった。

「まだ、終わりにしたくないでしょ」

「仕方ないんだよ。もうどうにも立て直せないところまで来てしまったからね」

「そんなことないでしょ。だって」

 娘の口調が強くなる。娘はいつもどんな仕事を任せても完璧にこなしてきた。その姿はお客さんだけでなく、私たちから見ても頼もしかった。

「……どういうことなんだい」

「浅野さん、あのね……」

 険しい顔をした娘は下を向いた。滲む悔しさから手が震えている。

 意を決したように娘は強い口調で言った。

「浅野さん、この店をどういう風にしたいのか全然わかんない。料理をしてる時も難しい顔をしてるし、いつもため息ついてばっかり。まるでこのお店をしたくないみたい。本当にしたいことは何だったの」

「……」

 浅野は黙りこくってしまう。彼は強く言いつめられると言葉が出亡くなる癖がある。

「お父さんのこと、本当に尊敬してたんでしょ。一人でこの店を繁盛させていつも活気で満ちていたって常連のおじちゃんが言ってたよ。お父さんのことを尊敬していて、お父さんのようになりたかったから、お店を継いだけど、本当にやりたかったのはこれじゃないみたい。最近ずっとそう感じてた」

「俺のやりたかったことは……」

「ねえ、浅野さん。浅野さんは好きな料理はありますか?」

 ヒートアップする娘と、うつむいてしまった浅野に割って私が声をかけた。

「あの時のお礼もかねて、今日の夕飯は私に準備させてください」


 浅野はまだ若かった。当初彼と初めて会ったときはその行動力と料理の腕前から、相当なベテランのように感じていたが、実際は私よりも一回りも若い。

 責任感の強い男で実直な性格の浅野は、不満や不安を口にしない。口にはしないものの、日々の生活の一部が、彼が背負うものの大きさを物語っていた。

 浅野の好きな食べ物は、オムライスだった。

 基本的に和食しか出さなかった彼の父親が、昼のちょっとしたときに彼に作ってくれた思い出の味らしい。

 それは私にとっても思い出深い料理だった。

 娘がまだ幼かった時、パートで忙しく過ごしていた私が娘のために用意できた最大限の御馳走がオムライスだった。寂しい思いばかりをさせてしまっていた娘への唯一の贅沢だったのだ。

 使う調理器具も当時とは違って扱いやすい。躍動感を感じる本物の料理とは、こうやって作られるのだと、手が教えてくれるようだ。

「できましたよ」

 それは彼の思い出の味には遠く及ばないかもしれない。けれど……

「料理には、その作った人それぞれの思いが込められていると思うんです」

 私は浅野の顔を見てつぶやいた。

 これは、娘への思いが詰まった料理。今は、未来に悩む青年への激励の思いが詰まった料理。

 娘と浅野は一口、また一口とオムライスを口に運ぶ。

「浅野さんは、この店で出されている料理の思いを、知っていますか?」

 浅野の手が止まって、私の顔をじっと見て言った。

「料理の思いですか……、それは料理が好きだった父が、精一杯お客さんに喜んでもらおうとして作ったものだと思っています」

「では、今あなたがお客さんに作っている料理の思いは何ですか」

「俺の料理は……」

 彼は、父親からこの店を受け継いだ後、新料理の開発はしていないという。それはお父様が残した料理を変えたくなかったからだと。

「……私にも、浅野さんのお父様が考えた料理の思いは知ることはわかりません。会ったこともありませんし、お父様の料理を直接食べたことがあるわけでもありませんから。でも、きっとそれはそれはとても強い気持ちが込められていたんだと思います。誰かを幸せにしたい気持ちが存分に込められていたんでしょう」

「……」

 浅野は口を閉じる。しかし、しっかりと私を見つめたままだ。

「同じように、浅野さんにもお客さんたちに伝えたい気持ちがあったんじゃないですか」

「それは、もちろんです」

 彼ははっきりと、頷いた。

「じゃあ、それを形にしてみましょうよ。浅野さんだけの、大切な気持ちを込めた料理を、世にふるまってあげましょう」

 あの日、路頭に迷っていた私たちを助けてくれた彼の料理は、決してお店に出している料理ではなかった。飢えに苦しむ私たちを元気づけようと、されど弱った体に決して負荷をかけないように易しく味付けされた料理だった。

「俺の思いは……」

 浅野は、しっかりと私を見据える。じっと、じっと私を見たまま、涙がこぼれた。


「俺の思いは、困っている人を助けられる、誰もが笑顔になれる料理を作ることです」


 すると浅野は食べ残していたオムライスをガッとかきこみ、涙で腫れた目を輝かせて言った。

「早紀さん! 俺にオムライスの作り方を教えてください! 今日からメニューに取り入れます! 俺はこういう料理が作りたいんです!」

「いい目をしてますね、浅野さん。私の料理を一日でマスターできると思わないでくださいね」

 私は微笑んで彼と一緒に厨房に向かった。

 一連の会話を見ていた娘は、笑顔でオムライスを食べていた。

「こんな楽しいごはん、お父さんがいたとき以来かも」

 厨房からの背中越しで聞いた娘の言葉に、私は胸が高鳴った。


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 ここからが後日談。

 料理屋はその後、たった1か月の間で新作の料理をいくつも出すようになった。男ばかりだった常連も、いつしか女性客が増えるようになった。特に、普段はお金が足りずに贅沢ができない人でも、安い価格で美味しいオムライスが食べられる店があると噂話が絶えなかった。

 当時中学生だった伊藤美希さんは、中学を卒業後、進学はせずにこの料理屋で働き始めた。衝撃なのは、その子が中学を卒業してわずか3年後に、その店の主人と結婚してしまったことだ。今では夫婦で楽しそうに店を営んでいるとのこと。

 その母親の伊藤早紀さんは、娘さんが料理屋で働き始めたタイミングで店を出たらしい。娘のことは浅野に任せられると悟って身を引き、ひっそりと独り暮らしをしていたようだが、娘が結婚するとほどなくして、持病によって亡くなったそうだ。

「きっと、娘さんの晴れ姿を見て、ホッとしたんでしょうね」

「この喫茶店に来られたのは、娘の美希さんだったんですか?」

「いいえ、亡くなる直前の早紀さんよ。おばあちゃんというにはあまりにも若すぎる年齢だったけれど、もう間もなくの命だったことは本人も分かっていたようね」

「そうなんですね……」

 私はカフェモカを飲み終えた。

 誰かを思う気持ちはきっと料理にも写る。強い信念があればこそ、それは素材やレシピを超えたおいしさを出すこともある。

「遙さんは、このカフェモカはどんな思いで作ってるんですか?」

「……うふふ、それはもう少しだけ内緒にしておきますね」

 不敵な笑みを浮かべる人だ。

 今日も私は深い話を聞けておなかいっぱいだったので、遙さん自身の話はまた別で聞くことにした。

 暑い暑いと思っていた季節だが、もうすぐお盆の時期になるようだ。

 ひょっとしたら伊藤早紀さんも、向こうの世界からこっちの世界の誰かの思いを引き出すために、帰ってきているのかもしれない。

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