6杯目「伊藤早紀の話2」

 遠い時間を暗闇の中に飲み込まれた感覚から一気に目を覚ました瞬間に、見えた景色は白色の蛍光灯だった。

 見慣れない天井の明るさは、昔ながらの塗り壁の天井でどこか懐かしさがあり、ここが幽世ではないことを覚えた。

「お母さん!!」

 耳元で大きな声が出された。その声が私の大事な娘の声だと認識するのに少し時間が必要だった。

「……美希」

 声がする方へ顔を向けると、そこには泣きじゃくる娘の姿があった。

 そうして自分の体が生きていることを実感し、次の瞬間に大事な娘も無事だったことを知った。安心してわずかなため息が漏れた。

「目が覚めましたか」

 娘がいる奥からふすまが開いた。そこには知らない男の人が立っていた。

「……あなたは」

 私が体を起こそうとすると男がそれを制止した。

「あまり無理しないでください。私はこの料亭を営んでいる浅野と言います。お二人が公園のベンチで倒れていたのでうちの店に連れて来たんです」

「そう……ですか」

 体も頭も動かない。私はあまりに状況がつかめずにいた。

 口を開いたのは、娘だった。

「あの……さっきからすごくいい匂いがするんですけど……」

 娘のお腹からはぐぅという可愛らしい音が聞こえる。

「そうそう、きっと二人ともお腹を空かせてるだろうと思って料理してたところなんです。もう少しだけお待ちくださいね」

 そう言って立ち去ろうとする男に、とっさに私は声をかけた。

「待ってください。私たちお金持ってないんです。料理はいただけません」

「お代なんて受け取れませんよ。今は営業時間外なもんで余りものしか出せないんです。できるまでもう少しだけお待ちくださいね」

 そう言って男は部屋を出ていった。

 

 いまだに自分が置かれている状況が理解できていなかった。

 古い和室の部屋には私たちの布団が置かれてある他には箪笥が一つあるのみであった。

 箪笥の上に置かれた古い時計は間もなく3時を指そうとしているが、これが午前なのか午後なのかも理解できずにいた。

「……」

 私と娘は一言も話さなかった。

 なぜあの浅野と名乗る男は私たちを助けてくれているのか。そもそも信頼できる人間なのか。

 その時間は永遠のようにも感じたが、実のところ待たされたのはほんの10分程度だった。


「どうぞ、召し上がってください」

 目の前に並べられていたのは、見たこともないおいしそうな料理の数々だった。

 前菜の小皿からは食欲をかきたてる香りが感じ取られ、綺麗なツヤのある刺身や野菜盛は決してあり合わせのものではなく一級品を使っているのではとすぐにわかった。

 まだ浅野のことを信用しきれていない私はどうも口をつけるのを躊躇しているが、となりで娘がおいしいおいしいと涙ながらに食べているのを見て、私も我慢できなくなった。

 その料理はどれもとてもおいしかった。

涙があふれてきた。

 それは不思議と、悔しさだった。私は娘に自分の頑張りでこんな素敵な料理を食べさせてあげたかった。それなのに私はつい数時間前まで娘と一緒に死さえも覚悟した状況にいた。

浅野は私たちの様子をただ真顔で見ていた。

一通り食べ終わった後、口を開いたのは浅野だった。

「おいしく食べてくれてよかったです。ありがとうございます」

 その感謝の言葉に、私たちは呆気にさえ取られてしまった。

「とんでもないです。本来ならお代もしっかりお渡しさせていただかなくてはいけないので、感謝してもしきれないくらいです」

「いえいえ、そんなの結構です」

 私からも感謝の言葉を述べたはずなのに、浅野は固く暗い表情を変えなかった。

「なんで、私たちを助けてくれたんですか?」

 娘が浅野に聞くと、彼は固い口から少しずつ身の上の話を始めた。

「実は、私はこの店をもう畳もうと思っているんです」

「なんでですか! こんなに素敵な料理を出すのに! 私、これまでの人生の中で今日食べた料理が一番おいしかったです! 本当です!」

 娘がさらにたたみかける。

「最近、親父が亡くなってこの店を継いだんですが、私一人では店を回せなくて……材料はどんどん値上がりしていき、常連だったお客さんも親父が死んでからめったに顔を見せなくなって。それに、一番はまだ自分の料理に自信がないんです……」

「……そんな」

 饒舌に話していた娘の顔も曇り始めた。

「いつお店を閉めるのかはもう決まっているんですか?」

「ええ。冬になると食材費が上がるので、それまでには閉めるつもりです」

「常連さんたちはなんとおっしゃってるんですか?」

「……仕方ないと言ってくれているんですが……」

 硬かった浅野の顔は尚も硬さを増していく。

「あの、浅野さん。浅野さんが良ければなんですけど」


 私は自分の言葉が自分の口から出ていることが信じられなかった。

 今日は、私の人生の中でも最も無茶な日だったのかもしれない。


「私たちを、ここで働かせてください」

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