3杯目「東雲結月の話2」

 次の日の朝は、家族の姿はなかった。父のベッドには、きれいに畳まれたパジャマがおかれていた。

 ハンガーにかけ置かれていた父のスーツはなくなっている。彼が持つ彼自身の社会的地位には到底釣り合わない私たち家族の実情に反している一つのしわもないスーツが、彼の社会的地位を示すために、今日もこき使われている。

 私は父に興味を持っていない。もう彼に興味を持つのをやめた。

 私は、4年前の、初めて父とあった日のことを思い出した。

 あの日も、今日と同じ、とても寒い冬の日だった。


「結月、こちらがあなたの新しいお父さんよ」

 母は、何度も男と出会っては別れ、再婚しては離婚していた。ヒステリックだった母に近づいた男は、母に愛想をつかして逃げていく。そのたびに私は母から「お前のせいで」と謂れのない暴力も受けてきた。

しかし、その日紹介された彼は少し雰囲気が異なっていた。いつも紹介される母の旦那は見た目が若くてホストみたいな人が多かったが、その人はとても真面目そうな風貌をしていて、母や私に対してとても優しく接してくれた。

後に父となるその男は、母と同じくらいの年齢で、私より2歳年上の女の子の連れ子がいた。母は父と結婚してからヒステリックを起こす回数が減った。

「お父…さん」

「なんだい?」

 私は、優しくて真面目な父が苦手だった。一流の企業に勤めているような父が、なぜ性格に難がある母と結婚したのか、理解できなかった。それを何度も聞こうと思っていたが、ずっと聞けずにいた。

「ううん、なんでもない」

 私は、やがて父と話すことすらしなくなっていった。


「結月、今日はお父さんとご飯を食べに行かないか?」

 父と母が結婚してから2年が経った冬のある日、私は父に食事に誘われた。

「うん、いいよ」

 まだそのころ高校生だった私は、バイトもしておらず、その日はたまたま早く家に帰ったのだった。姉は受験の時期だったこともあって塾に行っており、母もその日は新潟の実家に戻っている日だった。

 本当は断るつもりだったが、特に断る理由も見つからなかった。

 2年も家族として接していたのに、2人で食事をすることなって一度もなく、私は緊張したまま車に乗せられていたが、向かったのはなんてことない普通のファミレスだった。

「ここで、よかったか?」

 私は小さく頷いた。当時の私に拒否する勇気はなかったし、別に何か食べたいものがあったわけでもない。

 その後は、特に何事もなく、普通に料理を注文する。料理が届いて、半分くらい食べるまで、二人の間に一切の会話はなかった。

 最初に口を開いたのは、父だった。

「結月は、私と一緒にいるのはいやか?」

 私は答えに困った。確かに父のことは好きではないし、一緒にいたいかといわれると、決してそんなことない。けれど一緒にいるのが嫌だと明確に思うほど嫌っているわけでもない。

「ううん、そんなことないよ」

 その言葉の半分以上は建前だった。

「そうか、安心したよ」

 そのあとも、黙々と料理を食べ続けた。


「なあ、結月。何か欲しいものはあるか?」

 料理を食べ終わると、父はそう切り込んだ。

 欲しいもの……友達が持っていたブランドのバッグが欲しい。最近流行りのコスメが欲しい。欲しいものと言われれば数えきれないくらいあるが、父に話を切り出されたことに驚いていた。

「お父さんのお願いを聞いてくれたら、なんでも買ってあげるぞ」

「え? なんでも?」

「ああ、なんでも。いくらでもいいぞ」

 父は確かに、なんでも好きなものを買ってくれると言った。

「急にどうしたの?」

 私は不思議に思って父に問いかけた。

「……家族だからな。お父さんらしいことを、今までやってこなかったから」

 とても申し訳ない気持ちでいっぱいになった。これまで私の家族は、母しかおらず、その母も、小さい頃に壊れてしまった。私は家族の愛を真に受けたことがなく、同様に、父も家族に対してどう接したらいいのかわからずにいたのだ。

「その代わり、結月に来てほしいところがあるんだ」

 私と父を乗せた車は、夜の街に消えていった。


『お父さんは、君のお母さんと結婚する前から君のことを知っていたよ。とても可愛らしくて、元気あふれる子だった。何とかして君と一緒になれないかと考えていた。その時に君の家族のことも調べたよ。君のお母さんと結婚するのが君と近づける一番のチャンスだっていうこともその時に分かった。そこからはとんとん拍子に話が進んだ。やっと君に会える。こうやって話ができる。それがたまらなくうれしいよ』


 その日の夜、私は処女を捨てた。

 信頼できる家族が一人増え、そして、家族のあるべき姿が消えた。


 季節は暖かくなり、その年の春。

 姉は、大学受験に失敗した。

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