第8話 お義兄さん、いっちゃった方が楽になるよ
「いやあ、あんなことになるとは……」
次の日の朝。
俺はソファに寝そべりスウェット姿でだらりと過ごしていた。
本来なら出社の用意をしている時間なのだか、今日からその必要がなくなった。
いや、実は昨日の時点でそうなっていた。
昨日、
『申し訳ございません、一ノ
と、顔なじみの受付の女性に悲痛な面持ちでそう対応された。
なんでも俺は解雇されているので、部外者が入ることは許されないらしい。
手続きもすでに済んでおり、これから書類関係を俺へ送付する予定だという。
まだ手元があるとのことだったので俺はそれを受け取った。
手に持った書類をみながらぼんやりと考える。
たとえ俺が訴えたところで揉み消されるのだろう。根回しも当然しているはず、あの人はそういう人だ。
こういうときだけ動き出しが早いのには舌を巻くしかなかった。
ならどうしてあのとき……と思考が沈みそうになるのを抑える。
ひとまず、事実として俺は職を失った。
『本当にクビになるとはな』
呟いて顔をあげると気づけば俺の両脇に警備が立っていた。
もし俺が暴れだしたときにでもすぐに取り押さえるためだろう。
心情としては暴れたくもなった。
しかし、そうしてしまえばあの人にとっていいことしか与えない。
暴れたり、ましてや警備員を跳ね除けるなんてただの犯罪行為でしかない。
捕まるのがオチだ。
この調子ではいつ不法侵入と言われてしまうかもわからないので、俺はこの場をあとにした。
去り際に、申し訳ございません、という受付の声が耳に残った。
それからは慌ただしかった。
家に帰ってから俺は部署内のメンバーに連絡と取り、ある程度の引き継ぎを終えた。
ある程度というのは社内のパソコンを持ち帰ってはならないという規定があり、手元にパソコンがなく、自前のパソコンで覚えている限り対応したため完璧にはできなかったためだ。
もとより完璧な引き継ぎなんてものはないが、社用パソコンがあればもっとスムーズだっただろう。
このご時世でリモートワークも許されないルールには何度も声をあげたが、仕事とは顔を合わせてをするものだ、という前時代の意見により却下された。
連絡をしたときの同僚や後輩の反応は、俺の思ってるよりも穏やかなものだった。
会社への
『センパイがとても頑張ってたのは私が一番知っています。正直やっていけるか分かりませんが、もう少しであのシステムも完成します。そうすれば大幅に改善されるでしょう。だから私たちに任せてセンパイはゆっくりしてください』
連絡をした後輩からすぐに電話が掛かってきて励まされてしまったのは我ながら情けないと思った。
式に出席してくれていたからある程度の事情を察したのだろう。
ありがとう、と感謝の言葉を伝え、『落ち着いたらごはんにでも行こう』と誘った。
『え、センパイと二人っきりでですか?』
そんな返答があったので俺は『心配するな、同僚も一緒だ』と付け加えた。
危ない、勘違いをされてセクハラ上司になるところだった。
『……わかりました』
そう返事があったあとすぐに電話を切られた。
これから忙しくなるのだから一分一秒を惜しむのも無理はない。
解雇にはなったが解雇予告手当は出るようだ、微々たるものだが手切金のようなものだろう。
まあ溜まっていた有給は買い取っては貰えてなかったが。
失業手当も手続きをすれば出るだろうし、もとよりお金にはそこまで困っていない。贅沢をする気もないしな。
しかし、急にできたこの時間をどうしようかと頭を悩ます。
ゆっくりしてくださいと言われたが、ゆっくりするというのは作業スピードを遅くして生活をすることではない、ということは分かっている。
まえに「ひとりでひっそりと平穏に暮らすというのもいいな」と漠然と考えていたが、いざ、こうなるとなにから手をつけていいか分からない。
ようやく思いついたことがあれだったのだが……。
俺は昨日の夜のことを思い出し、キッチンをみながら、もう一度呟く。
「いやあ、あんなことになるとは……」
――ピンポーン。
この時間の来客は、もしかして。
ドアホンの映像を覗くと、そこには
『お義兄さん、おはよ』
「うん、お弁当」
間違った、お弁当はいつから挨拶になったんだ。
こほん、と咳払いをして言い直す。
「うん、おはよう」
『はい、お待ちかねのお弁当だよ』
お弁当を掲げながら寧々ちゃんはこころなしか笑っているようにみえた。
絶対に言い間違えたこと聞かれたよな。
「おじゃまします。あれ、お義兄さん今日はスーツじゃないの?」
「ああ、そうなんだ。ちょっといろいろあってな」
家に入ってくるなり平日なのにスーツを着ていない俺をみて、寧々ちゃんは目をぱちくりとしながらきいてきた。
やってしまったと思ったが少しぼかした。
「……なにがあったか聞いてもいい?」
「
「そんなこという人にはお弁当渡さない」
なに、お義母さんのお弁当が食べられないだと。
いまの俺にとってはある種の生命線となっているんだが、それを断ち切られるのは辛い。
しかし、これを機にお義母さんにお弁当を作ってもらうのをやめてもらうことができて、
そう頭を巡らせていると
「……うん、お弁当」
「え?」
さっきの言い間違いを思い出し、少し体温があがる。
「うん、お弁当ってお義兄さん言った」
「恥ずかしいからやめてくれ」
「思わず口から出ちゃうくらい、お弁当楽しみにしてたんでしょ?」
「そうだが……」
「いっちゃったほうが楽になるよ」
寧々ちゃんは含みのある笑顔を見せ、お弁当の包みのつまんで持ちながら左右にゆらゆらと振る。
なにやら取調べみたいだな、カツ丼食うかと聞かれて自供を促される犯人の気分だ。
しかし、その誘惑に俺は屈しない。
「お仕事クビになったんでしょ」
「どうしてそれを……」
言いかけて、はっ、と口を塞ぐが手遅れだった。
予想外のことに動揺してしまった。
「ごめんなさい。あの日お義兄さんがお義兄さんのお父さんと話しているところ聞いちゃったの」
そして合点がいく、控え室でのあの一件を聞かれていたのかと。
「いいや、
「そう、恥ずかしながらクビになった! まあ辛くないことはないがちょうど良かったのかもなって頭を切り替えてる。これからいろいろと自由になったからな!」
部署のメンバーが気になるが、俺は
「それで時間ができたから料理できるようになろうと昨日肉じゃがを作ろうとしたんだが難しいな。煮込みすぎて鍋の底を焦がししてしまった。だからいまつけ置き洗いしてキッチンに置いてる、でももう使いものにならないかもしれない。いやー、あんなことになるとは思わなかった。捨てるのは忍びなかったから置いてあるんだがこれがまた酷い出来なんだ」
そう、俺は昨日料理に挑戦したが失敗したのだ。
恥ずかしいから言いたくなかったのだがこの空気を柔らげるために一役買ってもらおう。
「お義兄さんの肉じゃが……」
食べたい、と寧々ちゃんはぽつりと呟く。
「え、食べたいのか?」
自虐で笑い話に持って行こうとしたのだが思わぬ流れになった。
「うん」
「美味しくないぞ?」
「それでもいい」
せっかく雰囲気を柔らげたのにここで断ってしまうのはよくないか。
「わかった、温めるからちょっと待っててくれ」
引っ込みがつかなくなった俺は冷蔵庫にある肉じゃがを取り出してレンジで温め、テーブルに並べた。
そのあいだに寧々ちゃんは律儀にもお弁当を広げてくれていた。
俺の目の前にはお弁当、寧々ちゃんの前には俺の作った肉じゃががある。
二人して手を合わせ声を揃えていう。
「「いただきます」」
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