第3話 別れと再会の約束

 そうしているうちにも時計の砂は流れ落ちていき、輿入こしいれの日が近づいてきます。


 少し、散歩をしましょうかと、ある日の晩、お姫様は人魚の娘に声をかけました。

 月の明るい、いつもより空が近くに見える夜のことでした。


 崖の上に建つお城にある、特別な抜け道を通って行けば、限られた人しか立ち入ることのできない、秘密の浜辺に辿り着くのです。


 魚の尾とは勝手が違う人間の足は、歩くたびにじくじくと痛みましたが、潮のかおりを吸い込んで、我慢します。


(……うみ)


 久しぶりに見た、人魚の故郷。

 その懐かしい青を目にした今は、不自由な足を捨て去りたい気持ちで一杯でした。


(たぶん、いまなら、もどれる)


 海の水に足をひたし、仲間たちに助けを呼べば。

 きっとお姫様もここから一緒に、国や王子様も関係ない遠くの場所へ、逃げることが出来るかもしれない。


(――おひめさま!)


 手を繋いだまま、波打ち際まで歩いていったところで、ぱっと人魚は振り返りました。


(いこう! いっしょに、とおくへ!)


 遠くへ――懐かしい、深い海にある人魚の国へ。

 口をぱくぱくと動かしながら、言葉にできない想いを伝えるように。人魚は繋いだ手に、痛いほどの力をこめました。


 寄せては返す波が、このままふたりを連れ去ってくれることを、願うように。

 もう片方の手で海の彼方を指さして、血のにじむような足どりで、さらに一歩を踏み出します。


 ――しかし、


「……貴女の言いたいこと、したいことを、わたくしは分かっていると思うわ」


 そう言ったお姫様の足は、それ以上動いてはくれませんでした。


(だったら! ……ねぇ!)


 お姫様を促すように、人魚は両の足で砂浜の上をたん、たんと叩きます。

 無数のナイフに刺されたような痛みがはしっても、気にする暇もありませんでした。


(ほんとうに、それでいいの?! けっこんして、おひめさまは、しあわせになれるの?)


 駄々っ子のように暴れて、魚みたいに口を開いたり、閉じたりして。そんなことしか出来ない自分が、心底嫌になっても。


 お姫様は穏やかな目をしたまま、娘のことをじぃっと見守っていました。


「……ありがとう。貴女はわたくしの身を、案じてくれているのね」


 ややあって口を開いた姫は、そっと身をかがめて人魚の娘と目線を合わせました。

 ひらひらと白いドレスの裾がひるがえる様子は、魚の尾が揺れているみたいで、こんな時だというのに見とれてしまいます。



「でも、できないわ。王女としての役目を、放り出すことは、できない」



 ゆるくかぶりを振って、お姫様は続けます。

 さらさらと揺れる金色の髪が、月の光を浴びて淡いきらめきを放っていました。


(できない)


 ――その一言で、魔法がとけたみたいに、人魚の手から力が抜けました。


「おかしなこと、だと思う気持ちは分かる。ほんとうに“好き”という気持ちを知っていれば、なおさらのことでしょう」


 人魚の長い黒髪を手できながら、お姫様は娘を抱きしめ、優しくあやしてくれます。


 生まれる前から、お姫様の意思など関係なく、国どうしが決めていた結婚。

 愛ゆえに、ではなく国のために、知らないひとの元へ嫁ぐことを、彼女は了承していると言うのです。


「“お姫様”とはそんな、厄介な生き方を強いられるけれど……わたくしはそれを、そこまで嫌なことだとは思っていないのよ」


 ただ、そんな風に生まれついただけ。

 窮屈きゅうくつなしきたりや作法を学び、他国に嫁ぎ、世継ぎを産むことを当然のように求められる。


 何の自由も意思もない、ただのお飾りの人形だと誰かがわらおうとも、「そんなものでしょう」と言って、お姫様は微笑んだのでした。


「お城での生活も、甘いお菓子も、綺麗なドレスも。わたくしは姫として、当たり前のように受け取ってきたのですもの」


 胸を張ってそう告げるお姫様は、やっぱりお姫様なのだと、人魚の娘は思いました。


「……迷いや不安も、確かにあったけれど」


 澄んだ空気に瞬く星たちが、お城の天井画のようにふたりを見下ろすなか、いつかの出来事を、お姫様は語り始めます。


 自分の成人を祝う宴が船の上で開かれた時、嵐に巻き込まれてしまったこと。

 冷たい海に投げ出され、だんだん意識が遠くなっていくなかで、ここで死ぬのなら……と、気持ちが揺れ動いたことを。


「王女としての義務も、ここで終わるなら、楽になれるかもしれないと……でも、」


 ――それは。その、出来事は。

 何かの予感に、人魚の肩が小刻みに震えて、止まらなくなりました。


「わたくしは、死ななかった」

(――――ああ!)


 それから先は、言わずとも理解できました。


 船の残骸ざんがいが波間に漂うなかで、お姫様を抱きしめてくれた「誰か」の手。

 冷えきった肉体が沈んでいくのを引き留め、固く閉じられた唇が開かれていくと同時に、注ぎ込まれた命の吐息がありました。


「誰が助けてくれたのか、その時は分からなかった。声も聴こえなかった。……だけど、吐息に籠められた熱は、覚えているの」


 それは、何かを伝えたいのに声を出せない、目の前の少女が繰り返す呼吸と、よく似た熱を持っていたのだ、と。


「……助けて、もらったのだ。わたくしは、何ものかに生かされたのだ、と強く思ったわ」


 ――あの嵐を境に、変わったものが確かにありました。

『お前さんも、嵐に、巻きこまれたんだね』と、そんな海の魔女の声が、どこからか聞こえてくるかのようでした。


「だから、生きてみせようと思ったの。力の限り、生き抜いてみせる。

 ……それに貴女は、大切なものを失ってまで、わたくしに会いに来てくれたのでしょう」


 人間たちの間に伝わっている、人魚の哀しい恋のはなし。

 お伽噺とぎばなしの人魚は、声と引き替えに足を手に入れ、しかしその恋は実らず、愛するひとの命も奪えずに、最後は海の泡になりました。


「でも、わたくしは“今”、あなたに命をあげるわけにはいかないわ」


 物語のようにはいかないから、とお姫様は目を伏せたまま告げました。


「……わたくしに出来るのは、約束だけ」


 やくそく、と人魚の唇がもどかしげに震え、姫のことばをなぞります。

 その透明な輪郭は、お伽噺の、まだ見ぬ続きを待ち望むかのようでした。


「ねぇ。貴女、……もう少しだけ、待つ気はなくて?」


 真新しいページをめくるようにして、お姫様が未来を紡いでいきます。


「ひとの命は短いけれど、精一杯をわたしは生きて。それからあとは、わたしのすべてを、あなたにあげる」


 わたしのすべて。それは決して消えることのない、人間の――「魂」と、そこで人魚は音のない声を漏らしました。

 その意味を、お姫様も理解したのでしょう。音のないその声を引き取るように、言葉を続けます。


「魂は、分け与えても減ることはない。愛もそう。汲めども尽きぬ、湧き出る泉のようなもの。誰かを愛したぶん、他の誰かに注ぐ愛が減ったりするわけじゃないの」


 だから、誰が一番好きで、どれが一番大事か――なんて問いは、たいしたことじゃないのだと、お姫様は言うのでした。

 一国の王女としての答えならば、とっくの昔に決まっている。だけど、


「それは貴女の、ほんとうに知りたい答えじゃないでしょう?」

(だけど!)


 それでも――と人魚の娘は哀しそうな顔で、お伽噺を恋しがるのです。

 魂を持たない人魚が、不滅の魂を得られるほどの愛を誓うハッピーエンド。

 純白のドレスに身を包み、愛するひととヴェール越しに見つめ合う、綺麗なお姫様。幸せな物語は、いつだってそんな風に終わるから。


「あら。でも、わたくし達、」


 お姫様の囁きは、切れ切れの記憶を拾い集めて、大切な宝物を形づくっていくようでした。


 嵐の海のなか、呼吸を、命を、魂を分け与えたことを確かめるように。

 彼女のほっそりした指が、人魚の桜色の唇をなぞってから、そこに悪戯いたずらっぽく押し当てられます。


 やがてお姫様は、意味ありげに、人魚の娘の瞳をじぃっと覗き込みながら、こう囁いたのでした。



「――誓いの口づけなら、とっくに済ませたでしょう?」




 夜明けにはまだ遠いですが、別れの時が近づいていることを、ふたりは分かっていました。


 ――どちらからともなく顔を上げ、抱きしめた腕を離してから、一歩、二歩。

 豊かな人魚の黒髪が、潮風を孕んで大きく波打つあいだから、きらきらと光る魚の鱗のようなものが、見え隠れします。


「ひとが死んだあと、魂は天へ昇っていくそうだけど、もしかしたら海に沈んでいくのかも知れないわね」


 お姫様は、完璧な笑みを湛えたまま、人魚の娘を見送っていました。

 浜辺についたちいさな足跡が途切れて、その名残をすぐに波がさらっていくあいだも、ぴんと背筋を伸ばして立っています。


「そうしたら、貴女に見つけてもらえるかしら。また、会えるのかしら」


 ――いつしか、人魚の娘は気づいたのでした。

 背中から聴こえてくる、お姫さまの明るい声に滲んだ、塩からいしずくの滴りに。


「ねぇ、その時は……きっと。あなたの声を、聴かせてちょうだい、ね」



 思いを振り切るように人魚は走って、走って、そのまま一気に海の中へ飛び込んでいきます。


 振り返ったりは、しませんでした。

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