第2話 さだめの婚礼

 ――陸に上がって最初に感じたのは、まぶたを溶かすような陽射しの強さ。


 そこには、今まで自分を包んでくれていた、やわらかな水の感覚もなくて、人魚の娘はすぐに意識を失ってしまいました。


「おや、誰だろう」


 そこで、近くを通りかかった漁師が娘を見つけ、その姿にたいへん驚いた様子で駆け寄ってきました。

 二本の足を手に入れたとはいえ、人間とは思えぬほどのうつくしさが、娘にはあったのです。


 まだあどけなさを残した、ふっくらとした愛らしい顔立ち。

 まるで神さまがこしらえたような、すらりと伸びた細い手足は、触れるのもためらわれるほどでした。


 この辺りでは珍しい、黒い髪と肌の色。なかでも、深い海の色をたたえた瞳はひとびとを惹きつけ、すぐに国じゅうに娘の噂が広がっていったのでした。


 流れ着いたのは異国の少女か、いや人魚か妖精だろうかと、やがて噂を聞きつけた使いの者がやってきて、娘はお城へと連れていかれたのです。


『これほど見目がうつくしいのだ。さぞや、声も素晴らしいであろうに』


 娘が言葉を話せないということを知り、お城のひと達は驚いたようでした。

 しかし声が出ないのは、それだけ大変な目に遭ったのだろうとみんな思ったので、かえって同情を寄せられたのでした。


『そうだ、姫さまの気晴らしになるかもしれない。遊び相手として、召し抱えるのはどうだろうか』


 そんな風にして、お姫様と再会を果たせたのは、何かの巡り合わせでしょうか。


「貴女に、ここでの暮らしを楽しんで貰えると良いのだけれど。……どうぞ、よろしくね」


 自分のことを伝える言葉は持たなかったものの、人魚の娘のふとした表情の変化を、お姫様はうまく読み取ってくれました。


(おひめさま、だいすきよ!)


 くるくる変わる瞳の輝き、嬉しいときにほころぶ唇、哀しみに震える長い睫毛まつげ

 感情をからだ一杯で表現する人魚の姿を、お姫様は何か眩しいものを見つめるように、慈しんでくれたのでした。



「貴女はほんとうに、不思議な子ね」


 そよ風を受けて、お城の庭の百合ゆりたちが仲良くお辞儀をしている、そのそばで。

 髪を綺麗に編まれ、空色のドレスを着せてもらった人魚の娘とお茶を楽しみながら、お姫様が呟きました。


 得も言われぬ神秘的なうつくしさを、目の前の娘は持っているというのに、その振る舞いは幼い子どものように無邪気で、まっすぐに「好き」と気持ちをぶつけてくるのです。


 そうしていると、仲の良い姉妹みたいですわねぇと、お付きの侍女たちのさざめく声が、風に乗って聞こえてきます。


(ううん、あねさまとは、ちがうかんじ)


 お姫様が摘まんでくれた焼き菓子ビスコッティを、ゆっくりと口に含んで味わいながら、人魚の娘は姉たちのことを思い返します。


(ちがう、けど、だいすき)


 それに、人間のお城もやはり、海の深くにある人魚の宮殿とは違うのでした。

 燦々さんさんと照りつける太陽は、青じろい海の水を通して揺らめくのではなく、透明な空気をさらに透かすようにして、じりじりと人魚の肌をくのです。



『本当に、仲睦まじいご様子で……』

『この分だと、あちらの国へ嫁いでも、立派にお務めを果たされることでしょう』


 ――と、そこで。

 何気なく漏れ聞こえてきた侍女たちの言葉に、人魚の娘は愕然がくぜんとしたのです。


『淋しくなりますわね。姫さまがこの城で暮らされるのも、あとわずかですから……』




(どうして? どうして?)


 考えても答えにたどり着けないのに、それから人魚の娘はずっと考え続けていました。

 お城のひと達の話を聞けば聞くほど、お姫様の結婚には納得できなかったのです。


 ――結婚の約束は、お姫様の生まれる前から決められていたこと。

 ――相手は隣の国の王子様ですが、お姫様と彼は一度も会ったことがないこと。

 ――そして、嫁いでしまえばもう二度と、今まで暮らしていた国へは戻って来られないこと。


(なんで、そうするのか、わからない)


 結婚とは、ほんとうに愛し合った人間どうしが、神さまの前で誓いを立てる儀式のはずでした。


『病める時も、健やかなる時も。死がふたりを分かつまで――』


 深い海のそこ、人魚の姉さまたちだって、話していたではありませんか。


『お互いを愛し続けますかと、司祭さまが尋ねてくるから、“誓います”と応えて、キスをするのよ』


 それは、人魚の間につたわる恋の物語。

 魂を持たない人魚たちでも、人間に愛されることで魂を得られるというのです。


『そうすることで、あいての魂がつたわって、こちらも幸福で満たされてゆくの』


 そんな――、なのに。


(おひめさまはわたしよりも、あったことのないひとのほうが、だいじなの? おうじさまが、すき? ……あいして、いるの?)


 足があっても追いつけない、手の届かないところへ行ってしまう。

 顔も知らない王子様に、お姫様を取られてしまうような気がして、人魚は手足を振り回して暴れました。


(いやだ、わたしはいやだ! はなれたくなんかない!)


 千切れた真珠の首飾りが、涙のしずくのように散らばっていきます。

 どす黒い気持ちが雨雲のようにどんどん広がると、それが一気にせり上がってくる気がして、思わず人魚は喉を押さえました。


(とめられない! こんなに、ひどくて、きたないのに)


 醜い言葉を吐き出しそうになって、声が出せないことを思い出し、それに少しだけ安堵あんどした自分が、嫌になりました。



 ――嵐が来たようでした。

 どしゃ降りの雨とすさまじい風に身動きができない、辺りが何も見えなくなるほどの、それはひどい嵐でした。

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