人魚とお姫様

梅咲ゆう

第1話 昔、むかし

 昔、むかしのことです。

 穏やかな海のそばに、ちいさな王国があり、そこには大層うつくしいお姫様が住んでいたのでした。


 そして、海のなかに住む人魚の娘は、そんなお姫様をひと目でいいから見てみたいと、ある日、地上を目指したのです。



 祝砲の音に合わせて、夜空に上がる色とりどりの花火。

 人魚が覗き見た、人間たちのきらびやかな船上の宴は、お姫様の誕生日を祝うもののようでした。


(なんて、きれいなの)


 彼女がどこにいるのかは、すぐに分かりました。

 人魚の姉たちから繰り返し聞かされた、お伽噺とぎばなしに出てくるお姫様、そのものだったのですから。


(あのひとが、おひめさま……!)


 人魚の娘とはまるで色彩の異なる、透き通るような白い肌と、真昼の光を思わせる金色の髪。

 なのに、瞳の色は彼女とよく似た、深い海のひかりをたたえていました。


 ひらり、ふわり。

 まるで花びらに生命が宿ったかのように、純白のドレスがあでやかに揺れます。お姫様が船の上でダンスを踊っている姿に、人魚の娘は時間の経つのを忘れて、見入ってしまっていたのでした。



 ――どのくらい、そうしていたのでしょう。


 人魚がぼうっとしているうちに、みるみる天気が急変して、嵐が来ました。

 空を黒雲が覆ったと思う間もなく、激しい雨つぶてが海面に叩きつけられて、大蛇のように恐ろしげな波が船を揺らします。


(あ!)


 直後、バランスを崩した姫が、手すりから海へ投げ出されたのが見えて、人魚の娘は慌てました。


(そうだ、ひとは、おぼれてしまうのだったわ!)


 地上のことに詳しい姉のひとりが、いつだったか教えてくれたのでした。

 水のなかで呼吸ができないなんて、不自由でたまらないと思ったものの、すぐにお姫様の元へ向かって、沈むからだを抱き上げます。


「……ぷはっ」


 どうにか水の上に顔を出すと、お姫様は息をしていませんでした。

 濡れた肌に貼りついた、金色の髪のひと房を払いのけると、青ざめた顔が露わになって、人魚の焦りが大きくなります。


(どうすれば……そうだ! あねさまがおしえてくれたわ!)


 たしか、口づけをして息を吹き込めば、止まっていた呼吸が蘇るはず――!


(はやくしなきゃ!)


 どきどきしながら顔を近づけると、どうしてだか胸のどきどきが大きくなりました。

 大切なものをそっと触れ合わせるような、ためらいがちな動きで、ふたりの唇が重なります。


 やがて――――。


 軽く咳き込んで水を吐き出したお姫様は、あえぐように何度か深呼吸をしてから、ゆっくりとまぶたを押し上げていき、そこで人魚と目が合いそうになりました。


「!!」


 ――いけない! 自分の姿を見られてしまう!


(だめ! きらわれたくない!)


 だって、人魚の姿は、気味悪がられると聞いたもの。

 遠くから見るだけしか、自分には許されていないことを思い出した娘は、急いで海に飛び込んで逃げたのでした。

 



 お姫様と別れて、海の底へ帰っても、人魚の娘のどきどきは収まりませんでした。


 こんな気持ちになったのは、初めてでした。

 珊瑚さんごの森を探険して、七色に光る貝殻かいがらを見つけたとしても、こんなに胸がどきどきしたりはしないでしょう。


(あいたい)


 ほんの一瞬、触れ合っただけのお姫様のことが、ずっと頭から離れないのです。

 なぎのように穏やかだった人魚の胸のうちは、今やいっときも安らいではくれませんでした。


 どきどきする気持ちに、焦りや不安が混じり出して、もう自分でもどうしようもなくなっていたのです。

 それは、長い時間をゆらゆらと、あぶくのように漂っていた今までのことを、上手く思い出せないほどでした。


(もういちど、あいたい)


 ――たったひとつ、方法がありました。

 海の魔女にお願いして、魚の尾を捨て、人間の足を手に入れればいいのです。


 しかし、そうするために対価として、人魚は綺麗な声を失わなければならないのでした。


(――でも)


 どうってことないのだ、と人魚は思いました。

 水の中で人間が生きられないのなら、こちらが地上へ向かうしかないのです。


(もういちど、あえるのなら)


 会って、触れられるなら。

 あの人の声に耳を澄まし、あの瑠璃るりの瞳を見つめ返せるのなら、自分は何を差し出したっていい。


(どうして? なんてきかれても、わからないけど)

 

 痛い思いをして、声や鱗も失って、幸せな海での暮らしを捨てて。

 そうまでして手に入れたいものなのか、と魔女に問われても、人魚の娘は止まれませんでした。



『……そうなのかい』


 目の前の娘とは違う、別の誰かを重ね見るように。

 魔女の老婆はため息をひとつ吐いてから、人魚に薬を渡してくれました。


『お前さんも、嵐に、巻きこまれたんだね』




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