第3話 嘘つき

「宿を気に入って頂きありがとうございます」


 宿の女将が僕を部屋に案内しながらそう言った。部屋は和室で、既に布団が敷かれていた。長時間車を運転していたので、この気遣いはありがたい。


 部屋のテーブルに腰を据え、僕はお茶の準備をしている女将さんに話しかけた。


「女将さん。聞いてもいいですか?」

「えぇ、なんでしょう?」


 初老の女将さんは、やさしい顔で僕の質問を待っている。


「あの温心はーと湖の向かいに建っている、白い大きな建物はホテルか何かですか?」

「あぁ~。あれは、更正施設なんですよ」


 そう言って、はっと気付いたように説明を加える。


「更正といっても、凶悪なものじゃなくて…何て言いうのかしら? 心を病んでいる人たちの社会復帰の訓練場所のようなんですよ。この辺りは自然も豊ですし」


 だから安心してくださいね。と女将さんは言い、挨拶を交わした後、部屋を去っていった。



 スマホを見ると、綺羅きらからメッセージがいくつか入っていた。そのメッセージの中に「ごめん」という言葉は見当たらない。


 そうだよな。いつも僕が悪いんだ。


 そういうところが綺羅きらの嫌なところだ。でも僕はずるい。有紗ありさのことを考えながらも綺羅きらに当たり障りのないメッセージを送る。


 この感情は罪悪感だ。綺羅きらに対して? それとも有紗ありさに対して? 



◇ ◇ ◇


 勢いで戻って来てしまったが、有紗ありさが毎日あの湖に来るとは限らない。


 それでも僕は有紗ありさに会えることを期待して、朝日が上がるか上がらないかの時刻に湖に向かった。


有紗ありさ…」


 白い影の様な姿が湖の前でたたずんでいるのが見える。そう彼女だ。昨日の僕と同じように、じっと湖面を見ていた。


 有紗ありさの白いワンピースの裾も波打つ水辺に濡れている。

 優しい太陽の光が有紗ありさを優しく包み、すごく絵になる景色だった。


有紗ありさ?」


 彼女の本当の名前じゃないかもしれない。それでも僕は彼女の名前を呼ぶ。


 でも彼女は僕の声が聞こえないのか、一歩また一歩と湖に足を進める。


 僕は慌てて彼女の後を追いかける。夏だというのに湖の水は冷たい。それでも僕はバシャバシャと勢いよく水を跳ねのけ、有紗ありさの腕をつかんだ。


來斗らいと?」

「よかった…」


 水面は僕の腰のあたりまで来ていた。有紗ありさはどうするつもりだったのだろう? 


 僕は有紗ありさを引き寄せ濡れた手で彼女の頬に手を添える。彼女の頬は湖の水と同じくらい冷たかった。


「会いに来たよ」

「なぜ?」

「なぜって約束したから」


 もっと気の聞いた言葉はなかったんだろうか? 僕は自分のセンスを呪った。でも、もう一度会いたかったのは事実だから。


 有紗ありさの左足首に着いている黒いセンサー、そして左手首には病院でつけられる識別リストバンドがはめられていた。澄んでいる水は全てを僕に見せつける。


「約束…?」

「うん。約束」


 有紗ありさの目に涙が浮かんでいる。僕を見つめる彼女があまりにも儚く水面に溶けてしまいそうで、僕は彼女の腰に手を回しきつく抱き寄せていた。


 僕は果たせなかった長い間の約束を今、やっと果たせたような気がしていた。よくわからない感情が、止められない何かが僕を狂わせていく。


 有紗ありさが僕の腕の中で震えている。声を殺して泣いているのがわかった。


 僕はそっと有紗ありさの額にキスをする。それに応えるかのように有紗ありさの手が僕の背中をギュッと抱きしめた。


 だから僕は、有紗ありさの涙を唇でゆっくりとなぞる。そして震える有紗ありさの唇にキスをした。軽く、とても優しく。


 有紗ありさは逃げることもなく、僕を受け入れた。だから今度はもう少し深いキスをする。有紗ありさの唇はとても柔らかく、時々漏れ聞こえる声は僕を刺激するには十分だった。


 水が跳ねる音、有紗ありさの声だけが僕を支配していく。


 僕たちはこの地球上に二人きりであるかのように、二人でいることが当たり前のようにお互いを求め、深い口づけを交わした。




「大丈夫、僕はどこにも行かない。」


 なんとも無責任な言葉が僕の口から吐き出される。


 どこにも行かない? それは嘘だ。僕は嘘つきだ。




 もうすぐ日が登り、観光客が現れる時間だ。少し落ち着いた有紗ありさをそっと僕の体から抱き起こす。

 有紗ありさの目は涙で濡れていて伏せた目もと、長い睫毛がキラキラしていた。


「もう、戻らなきゃ」

「えっ?」

「会いに来てくれてありがとう。そして…」


 有紗ありさが僕から離れていく。泣き笑いの様な顔で一歩、また一歩僕から離れていく。


「そして、さよなら」

「なっ、何で?」


 有紗ありさはゆっくりと僕のスマートウォッチを指差す。


「あ…」


 スマートウォッチを見ると、「綺羅きら」の文字が浮かび上がっていた。僕の胸のポケットでスマホが振動している。


「私たちはいつもそう…、出逢わない方がよかったの」

有紗ありさ! 待って!」


 僕は情けない。彼女を追いかけることも、綺羅きらの電話にでることも出来ずにいた。



「また明日、ここで! 待ってるから!」


 今度は僕が待つ番だ。


 僕の声が有紗ありさに届いたのか分からない。彼女は一度も振り返らず、建物の方へ消えていった。


「守れない約束はしないで…」


 有紗ありさの声が聞こえた気がした。

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