4-21 天ノ川遊星は、欲望の狭間で悟りを開く

 夏休みも半分が過ぎ、体験入学の準備期間がやって来た。


 今回のボランティア募集は二日間。遊星と陽花は揃って、二日連続の参加を予定している。


 真夏の作業とはいえ、陽花に会える。嬉しい。


 だが前回のボランティアとは違い、遊星はとある目標をかかげていた。それは――


(今度は陽花を、家にお誘いするっ! そして誰にも邪魔されず、イチャつきまくるっ……!)


 夏休み前の天ノ川会で、陽花には夕飯をご馳走すると約束している。


 であれば陽花が学校に来るいまがチャンス、しかも千斗星もインターハイでまだ家に帰ってきていない。


 千斗星の学校は準決勝まで進み、閉会式後に観光もして帰ると聞いている。猶予はざっくり、あと四日というところ。


『もし陽花を連れ込むんだったら、その間にスルこと済ませちゃってよ~?』


 ……千斗星の言葉を鵜呑うのみにしたわけではない。


 だが陽花とはキスまで済ませたわけだし……次へ進みたいという欲はある。


 もちろん今日までにも誘うチャンスはあった。だが「千斗星がいない間に誘うとかバレバレだよな」とか「ガッついてると思われたくない」などと言い訳を並べ、上手く誘えない日が続いていた。


 だが千斗星が帰ってくれば、いま以上に誘いにくくなる。そのため遊星は今日中に夕飯のお誘いをし、明日にでも陽花をお迎えしたい。そう意気込んでいた。


 そして朝。


 駅まで陽花を迎えに行き、頃合いを見てその話をしようと思ったのだが。


「お、おはょぅ、ございます……」

「う、うん。今日も、がんばろう……ね?」


 二人が顔を合わせたのは、ネットカフェでキスして以来のことだ。もちろんその後も何度か電話連絡は取っていたが、こうして顔を合わせると……どうにも恥ずかしい。


 隣を歩く陽花もわかりやすいくらい照れている。そして相手が照れていることに気付くと、こちらもますます気恥ずかしくなってしまう。


「……今日もお弁当、ありがとう。バッグ、持つよ?」


 弁当用の保冷バッグを預かろうと、陽花に向かって手を差し出す。


 すると顔を上げた二人の視線がぶつかり――互いの唇に視線を移してしまう。そして先日のことがフラッシュバックし、また恥ずかしさに顔を合わせづらくなってしまう。


(いやいや、なにやってるんだ僕は!? もう陽花と付き合って一ヶ月だぞっ!?)


 初めて手を繋いだ時と同じか、それ以上に緊張してしまっている。


 こんなことで照れていたら、家に呼ぶなんて夢のまた夢だ。


(平常心だ、平常心っ……!)


 遊星は自分にそう言い聞かせ、いつものように陽花の手をきゅっと握りしめる。


 すると陽花は心細くなるほど弱々しい力で握り返す。視線は下を向かせたまま、耳を真っ赤にしている。


(僕も大概だけど、陽花の方が重症っぽいなぁ)


 陽花はまったく顔を上げられず、出会い頭のあいさつから一言も声を発していない。さすがに心配になるレベルだ。


「……体調が悪いわけじゃ、ないんだよね?」

「は、はいっ。そういうわけではないんですがっ……」

「もし無理そうなら言ってね? 今日も暑くなるだろうし」

「は、はいっ!」


 不要な心配はさせまいと気丈な声を出し、ようやく顔を上げてくれる。


 だが遊星と視線が合うと恥ずかしさがぶり返すのか、あわあわと目を回して顔をうつむけてしまう。


 前途多難。


 この状態の陽花を動揺させるのはよろしくない、夕飯のお誘いは昼以降に持ち越すことにした。



***



 流れは前回の学校説明会と同じだ。


 体育館での班分けが終わり、体験入学の準備が開始された。今回は残念ながら陽花と同じ班にはなれず、美ノ梨と同じ班になった。


 前回同様、教室内での作業。今度は体験授業を受けてもらうための教室づくりと教材準備である。


「ゆーくん! ねっ、ちゅーしょー?」

「熱中症でもないですし、ご提案の方でしたらお断りします」

「なにその反応! つまんなー!」

「そんなことより美ノ梨さんも作業してください。学校説明会の時よりも男手が減ってるんですから」


 七月末の説明会準備に比べて、男子の参加率が激減した。なぜなら美ノ梨が上目づかいで誘った男子たちが、まったくの脈ナシであると気付いてしまったからだ。


 美ノ梨目的で参加した男子たちは、ロクに話もできずタダ働きをさせられる。そのため揃えた兵隊ボランティアは、日が経つにつれて減る一方だった。


「人を集めたことを褒められても、減ったことに文句言われる筋合いないしー?」

「それはそうですけど。そんな事ばかりしてると、いつか人に刺されますよ?」

「でも美ノ梨のピンチに駆けつけた、ゆーくんが……!?」

「ご香典こうでんを多めに包んであげます」

「わーん! けて出てやるーっ!」


(やっぱり美ノ梨さんのテンションは胃に来るなぁ……)


 終始テンションの高い美ノ梨をたしなめつつ、作業を進めて昼休憩。休憩中は陽花と合流し、このタイミングで明日のお誘いをしようとしたのだが……


「あれー!? ゆーくん、どこ行くのー?」

「えっと、陽花と一緒に昼食を取る約束を……」

「じゃあ美ノ梨も一緒に行くー!」

「えっ!?」

「ほらほら早く行こー! ひーちゃんと一緒にお昼だー!」


 美ノ梨の強制参加イベントが発生。照れの抜けない陽花との気まずさを紛らわすことはできたが……とても夕飯を誘える状況にはない。


(くっ、まだだ! 帰る時間なれば、また二人きりになれるっ!)


 なんて考えていたものの、終了時間前に岩崎から頭を下げられる。


「すまんっ、天ノ川! 体験授業用にセッティングした教室にひとつ誤りがあって、いまから作り直す男手が必要なんだが……」

「……りょうかぁーい!」

「恩に着るっ!」


 少なくなった男手要因として、追加作業に参加することになってしまった。いつ終わるかもわからないので、陽花には先に帰ってもいいと伝えておいたのだが……


「いえっ、ご迷惑でなければ待たせてください」

「本当に? 結構かかるかもしれないよ?」

「大丈夫です、読みかけの文庫もありますので」


 慎まやかな笑みを浮かべて、遊星をお送り出してくれた。


(陽花のこういうところ、大和撫子だよなぁ……)


 急な用事が入っても文句ひとつ言わず、いつでも自分を待ってくれる優しい人。


(寛大というか、包容力があるというか……バブみ?)


 追加作業の間、陽花のバブみについて延々と考察していると作業は間もなく終了した。


「助かったぜ、天ノ川!」

「気にしないで、また明日っ!」


 帰りのあいさつもそぞろに、遊星は陽花の待つ学食へ向かった。


 学食に足を踏み入れると、陽花の姿はすぐに見つかった。夏休みの学食はガランとしていて、他の利用客は一人もいなかったから。


 遊星はすぐに声をかけようとしたが……口をつぐんだまま近寄って行き、陽花の姿をまじまじと観察する。


 こちらに向かって文庫を開いた陽花は、目を半開きにしたまま舟を漕いでいた。


 近寄っても遊星に気付く様子はなく、頭をふらつかせながらギリギリ半覚醒の状態を維持していた。


 遊星はおねむな陽花を刺激しないよう、音も立てずにとなりの席に腰かける。そして耳元でゆっくりと囁いた。


「……陽花、待たせてごめんね?」


 すると陽花はゆっくりと顔を上げ、寝ぼけ眼であたりを見回し始める。そしてとなりに遊星がいることに気付くと、ひとつため息ついて……肩の上に頭をあずけてきた。


「……お疲れ様です」

「陽花の方こそお疲れ、こんなに待たせちゃってごめんね?」


 陽花は頭を肩にあずけたまま、ふるふると首を横に振る。そしてなにも言わずに遊星の腕を抱くと、そのまま抱きつくようにもたれかかってくる。


「陽花?」

「……遊星さぁん」

「はい。陽花の遊星さんですよ」

「……わーい」


 陽花は棒読みで喜びを口にすると、より心地いい密着度を求めて体を寄せてくる。


「ひ、陽花?」


 無遠慮に胸元のむにむにを押し付けつつ、小さな頭からは仄かに漂うフローラルな香り。


 男手が必要とされていた力仕事の後に、強烈な女性っぽさを押し付けられ……遊星は頭をクラクラとさせてしまう。


 陽花に甘えてもらえるのは嬉しい。


 こうして寝ぼけ半分の時に求められると、本当に求められてるんだって気持ちにもなる。


 だが現実問題、陽花に魅力がありすぎるのが良くない。


 キスまでした仲ということもあり、それ以上の妄想をする機会だって増えた。


 そんな状態で無防備で甘えられると……よからぬ方へと考えが傾いてくる。


 うっかりと陽花の表情を除くと、ピンクの唇に視線が吸い寄せられる。


(ぐうぅっ……落ち着け! こういう時は身内の顔を思い出すんだっ!)


 千斗星の顔、母親の顔、おばあちゃんの顔っ!


 目をつむって近似する遺伝子への生理的拒否を呼び起こし、自然と心をなぎの状態に持っていく――


 腹式呼吸で冷静さを取り戻し、ゆっくりと開眼。となりで眠る子羊へ慈愛に満ちた笑みを向ける。


(見たまえ。なんて微笑ましくも安らかに眠る少女ではないか……)


 いまや百八の煩悩ぼんのうさえ断ち切った心持ちである。陽花と颯のあがめる神が、ついの降臨したのである。



 ――――仏神ぶつしんとなった遊星には既に男女の区別さえなく、すべての信徒の救済だけを願っている。


 その願いは時空を超えて広がり、宇宙の果てまで届いた。すべての民草たみくさは平和と共感をその胸に宿し、争いや憎しみは文献ぶんけんに残るだけの感情となった。欲望や執着は風のように吹き去り、ただ愛と慈悲の光だけが地上を照らし続けている。


 そして気付けばジト目の陽花が、遊星を見上げていた。


「……遊星さんって、寝てる私にイタズラとかしないんですね」

「え?」

「ちょっとくらい、されたりするのかなって……期待してました」


(!?!?!?!?!?!?!?)




 ――――平和と無欲の礼賛は、過去のものとなった。


 肉欲や執着は忌避きひすべき事象じしょうにあらず、弱き者は強者に捕食されるべきという価値観が世界に浸透した。欲望に溺れ本能的に生きることが生物の本質であり、欲に身をゆだねられぬ者は臆病者と嘲笑された。


 つまり遊星は据え膳に手を出せなかった、チキン野郎ということに――


(ならないだろっ! いくら特別な関係だからって、寝てる時はダメだっ!)


「……陽花にイタズラなんて、しないよ?」


 すると陽花は困ったような笑みを浮かべ、「そうなんですか?」とかわいらしく首をかしげる。


 とはいえ、悪戯をしたら陽花はどんな反応を見せたのだろう。


 その良からぬ妄想に狂わされることを恐れ、遊星は深呼吸をしてふたたび煩悩を振り払ったのだった。





―――――


 家に誘う話だったはずでは?

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