3-20 天ノ川遊星は、後輩ちゃんをわかりたい

「今日は先に帰るわね。お疲れ」

「……うん、お疲れ様」


 退勤時間になると、椎は手を振って足早に事務所を後にする。

 一方、遊星は空いていたパイプ椅子に座り、背もたれいっぱいに体を預けていた。


(つ、疲れた……)


 疲れたとはいっても、肉体的な疲労ではない。


 では、なぜ遊星がここまで疲れているかと言うと……精神的な疲れからだった。


 今日の椎は、あれからずっと絶好調だった。


 昼間に陽花とのことがあったので、椎とは距離を取るつもりだった。


 だが線引きをしようとしたのが、逆にトリガーになってしまったのだろうか。椎はあふれる好意を隠さずに接してくるようになった。


 ことあるごとには触れてきて反応を窺おうとしたり、意味もなく名前を読んできたり……その他、まあ色々。


 好かれるのは嬉しくても、遊星の気持ちは陽花にある。


 だが拒絶や冷たい態度は上手く取ることができず、椎の好意に終始押されっぱなしだった。


 そうして自分に課された使命と、押し切られてる現実に挟まれて……すっかり精神をすり減らしていた。


(本当に、情けないよな……)


 さすがに自己嫌悪。陽花から新しいメッセージも来ていない。


 遊星はスマホを眺めながら椅子にもたれてると、私服姿の酒井さんが事務所に入ってきた。


「あ、アマノガーくんおつかれ~」

「……ちっす」

「え、なんかガチおつかれじゃん。ウケる~」


 そう言って酒井さんはパソコン前に座って、ぺこぺことキーボードを打ち始める。


 だが急にその手を止めると遊星の方を向き、なにか考え込む仕草をし始めた。


「アマノガーくんが入ったばかりの頃さぁ、すげー可愛いコが来てたじゃん?」

「……酒井さんが彼女って、聞いてきた女の子のことですか?」

「そ~そ~! あのコってさぁ、近くに住んでんの?」

「いえ、結構離れてますけど……どうしてですか?」

「ここに車で来る途中さぁ、なんかそれっぽいコを見たんだよね~。傘がブッ壊したのか知らないけど、すげーびしょびしょだったから気になって――」

「どこで見たんですか!?」


 つい大声を出してしまい、酒井さんの眠たげな目が見開かれる。


「こっから駅に向かう途中のパチ屋、あるじゃん? あそこの交差点で顔が見えたから……でも暗かったからし、もしかすっと見間違えかも……」


 遊星はその話を聞き終わるよりも先に、店の外に飛び出した。


 まだ雨は普通に降っている、だが濡れることを気にしてなんていられない。遊星は傘も差さず、言われた方角に向かって自転車を走らせる。


 全身に雨粒を浴びながら遮二しゃに無二むに、ペダルを漕ぎ続ける。そうして言われた交差点に辿り着くが、そこに陽花の姿はなかった。


 当然だ、陽花がぼうっと立ち尽くしているはずがない。もし酒井さんの見た女の子が陽花なら、なにか目的があってその時間、そこにいたはずだ。


 にわかに冷静さを取り戻し、遊星は千斗星に電話をかける。


「あい~、どったの? 電話なんかして?」

「僕がバイトしてる時、陽花を家に呼んだりしなかった!?」

「陽花、呼んでないけど……どうしたの?」

「もし陽花から連絡があったら僕に電話して!」

「あ、ちょっとお兄――」


 すぐに電話を切り、また駅の方角に向かってペダルを漕ぎ始める。そして今日の放課後、感じていた違和感におぼろげな形が見えてくる。


 六限後、遊星は陽花の教室に向かい、先に帰った陽花を自転車で追った。でもその帰り道で陽花を見つけることはできなかった。


 普通に考えて、おかしい。


 駅までの道は一本だし、徒歩の陽花に追いつけないはずがない。


 もし仮に迂回していたとしても、遊星は駅前で長いこと陽花を待っていた。それでも現れなかったということは――陽花はまだ帰っていなかったのだ。


 陽花がどこにいたのかはわからない。だが千斗星に聞く限り、家には来ていなかったようだ。


 学校に残っていたのかもしれない、昨日と同じように友達と遊んでいたのかもしれない。


 でも、なにかイヤな予感がする。

 だって酒井さんの目撃情報が事実なら、陽花は家に帰るとウソをついたのだから。


 そして、ついに遊星はその後ろ姿を視界にとらえる。


 傘も差さずにずぶ濡れの制服を着た――陽花の姿を。


「……陽花」


 陽花の歩く先に自転車を止め、驚かせないようにゆっくりと声を出す。

 すると陽花はゆっくりと顔を上げ、信じられないといった表情をする。


「遊星、さん? どうして……?」

「……陽花を見かけた人から、連絡をもらったんだ」


 陽花はまだ困惑の中にいるのか、ふさぎ込んだ表情で黙り込んでいる。


 その表情の意味するところは……わからない。なぜこんな時間にこの場所にいるのか、なにもかもがわからない。


「とりあえず、ウチに寄って行こう。お風呂貸してあげるから」


 遊星はずぶ濡れのまま笑みを作って、陽花に手を差し出す。だが陽花は顔をうつむけたまま、まるで隠れるようにしてやり過ごそうとする。


「……できません」

「どうして?」

「だって私は、根暗ですから」


(……久しぶりに聞いたな)


 出会ったばかりの頃、陽花がよく口にしていた過去の自分を蔑む言葉。だがその根暗という単語が、一度として陽花にはまっているのを見たことがない。


「根暗とか、そうじゃないとか、関係ないよ。このままだと風邪を引くかもしれないし」


 陽花はなにも答えない。


 だがズブ濡れのままではいられないと思ったのか、しばらくすると躊躇ためらいがちに頷いてみせた。


 遊星は自転車をUターンさせて陽花の隣に並ぶと、ゆっくりとその後について来てくれた。


「……遊星さんは、なにも聞かないんですね」

「陽花がこうしてるのは、僕が原因かもしれないから」

「……」


 人通りの少ない道を陽花と二人歩く。


 遊星はバッグからスマホを取り出すと「風呂を沸かして欲しい」とだけ千斗星にメッセージを送った。



***



 家に着くなり、まずは陽花を風呂場に入らせた。


 そして千斗星には軽く事情を説明し、陽花に貸す服を用意してもらった。


「……陽花と話しづらかったら、私が代わろっか?」

「いや、大丈夫。でもいざという時は頼むかも」

「ん、わかった」


 千斗星は遊星を責めることもなく、淡々と頷いて見せた。


 どこか淡白な態度が、いまはありがたかった。現状、陽花が帰らなかった理由についてはなにも聞けていない。


 遊星も自室で服を着替え、バスタオルで頭を乾かしているところ。


(できれば陽花としっかり話をしたいけど……)


 時刻はもう、二十二時半。


 もし陽花に帰るつもりがあるなら、すぐに家を出なければ終電に間に合わない。


 だが、陽花をこのまま帰したくはなかった。話もせずに帰してしまえば、また同じようなことになるかもしれない。


 ――どうして今回、二人の関係が噛み合わなくなってしまったのか。


 どのように振る舞えば、このモヤモヤした気持ちから解放されるのか。 


 それを考えて、ひとつの答えは用意している。


 だから陽花とはこのタイミングで、しっかりと話をしておきたかった。


 そんなことを考えていると、小さく扉をたたく音が聞こえた。


「どうぞ」


 遊星が声をかけると、湯上りの陽花が軽く頭を下げてくる。


「……お風呂、先にいただきました」


 まだ表情には翳りがある。だが体を温めたおかげか、顔には薄っすら血の毛が戻っていた。


「好きなとこに腰掛けてよ」


 陽花はベッドに背を預ける遊星のとなりをチラと見た。が、少し悩んだ末にその斜め横に腰掛けた。


「……遊星さんはお風呂、入られないんですか?」

「僕は後でいいよ。それより今日はどうする? 泊まってくつもりなら、ご両親に連絡したほうがいいと思うけど」


 陽花はその言葉を聞くと――さっと顔を青ざめさせた。

 そして慌ててスマホを取り出すと、横目にもたくさんの通知が来ていることが見て取れた。


「わっ、こんなに連絡が……」

「もしかして、なにも連絡してなかった?」


 陽花はどこか気まずそうに、こくりと頷いた。


 時間の経過さえも曖昧だったのだろう、この時間まで連絡がなければご両親も心配するに決まっている。


「陽花、今日は泊まって行って」

「で、でも……」

「いまから帰るほうが現実的じゃないよ。それに陽花が泊まっても、僕も千斗星も迷惑に思わない」


 逃れるために使いそうな言葉は、先に封じておく。

 それが功を奏したのか、陽花は口を開くも言葉が続かない。陽花が新しい断わり文句を思いつく前に――畳みかけてしまう。


 ひと月前に登録した連絡先を呼び出し、通話ボタンをタップ。スピーカーモードにしてスマホを床に置くと、表示された名前を見て陽花が息を呑む。


 スマホに表示されていた発信中の文字は、すぐに通話中へと切り替わった。


「もしもしっ……そ、その声はまさかっ、遊星くんなのかっ!?」

「僕はまだ声を出してませんが……はい、遊星です。お久しぶりです、お父さん」

「ああ、久しぶりだねえ。あまりにも君が恋しくて、職場のサボテンに遊星という名をつけてしまったよ。はっはっは!」


 ひと月ぶりに話す陽花のお父様は、スマホのスピーカー越しに豪快に笑っていた。

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