『羅生門』を大阪弁で読んでみよう

 ある日の暮方の事やった。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っとった。広い門の下には、この男のほかに誰もおらん。なんでか言うたら、この二、三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とかいろんな災いが続いて起こった。


 そこで洛中のさびれ方は一通りちゃう。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っとったらしいわ。


 下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、でっかい面皰にきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めとった。

 

 下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない。四、五日前に暇を出された。せやから行き所がなくて、途方にくれとった。今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人の えーと、さ、さ……あ、さんちまんたりすむ(Sentimentalisme) に影響しとんねん。


 下人は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立ち上がった。夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さや。

 下人は腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らんように気ぃつけながら、藁草履をはいた足を、楼を上がるための梯子の一番下の段へふみかけた。


 楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が無造作に棄ててあった。下人はその死骸の中に蹲っとる人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆や。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めとった。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸やろうな。

 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れとった。老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めてた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手ぇに従って抜けるらしい。


 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来た。


 下人には、当たり前やけど、なんで老婆が死人の髪の毛を抜くかわからんかった。せやから、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてええか知らんかった。せやけど下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くっちゅう事が、それだけで既に許すべからざる悪やった。


 下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上がった。そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたんは言うまでもあらへん。

 下人は老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いだ。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のままつかみ合った。


 せやけど勝敗は、はじめからわかっとった。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ押し倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕や。


「何をしとった。言え」

「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたんや」


 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一緒に、心の中へはいって来た。そしたら、その気色が、先方へも通じたんやろな。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を言うた。


「成程な、死人の髪の毛を抜くっちゅう事は、何ぼ悪い事かも知れん。せやけど、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばっかりや。わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したんを、干魚や言うて、太刀帯の陣へ売っとったわ。わしは、この女のした事が悪いとは思うとらん。せえへんかったら、饑死するんやから、しゃあないやろ


 今また、わしのしていた事も悪い事とは思わん。これとてもやはりせんかったら、饑死してまう、仕方がなくする事や。その仕方がない事を、よく知ってたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるやろ」


 老婆は、大体こんな意味の事を言うた。ごめんやけど長いわ。


 下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いとった。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いてんねん。せやけど、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気や。


 下人は一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう言うた。


「ほな、俺が引剥をしようと恨まんといてや。俺もそうせえへんかったら、饑死をする体なんや」


 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。

 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こしたんは、それから間もなくの事や。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えとる火の光をたよりに、梯子の口まで這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりやった。

 下人の行方は、誰も知らへん。

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