第3話 お一人様で海鮮丼
バスに乗って街へ出た。雨がしとしとと降っている。バスの運転手さんは女性だった。タクシーの運転手さんや電車の車掌さんは女性も見かける事が増えたが、バスの運転手さんは初めてかもしれない。
数分で武蔵ヶ辻・近江町市場というバス停に着いた。歩ける距離なので、バスならばすぐだ。折りたたみ傘を手に持ち、バスを降りると、そこには屋根があった。そのまま近江町市場のアーケードに入ったので、ここまで一切傘が要らなかった。便利だ。
時刻は11時半。ここでお昼ご飯を食べる予定だ。お目当ては海鮮丼。ガイドブックによれば、キラッキラの写真映えする海鮮丼が、あちこちのお店で食べられるそうだ。
市場なので、魚や野菜などが売っている。お店の人のかけ声も賑やかだ。ぞろぞろと人通りも多い。お、食べられるお店を発見。でも、長蛇の列。まあそうだろう、こんなに入り口に近い所は混むだろう。だが、奥へ行けば並ばずに入れるだろう。どんどん進む。あ、あそこにも、あっちにも、長蛇の列。長蛇の列だ!
ウソだ、今日は平日ではないのか。因みに水曜日である。見た感じ、若いカップルが多い。そうか、大学生は夏休みか。それとも、まだお盆休みの会社員も多いのだろうか。
まあ、私には時間がある。特に何時までにどこへ行かなければならない、と決まっているわけではないのだ。並ぶのを避けようとせず、どこかに並ぼう。ああ、本をロッカーに入れてきてしまったが、持ってくればよかったか。それにしても、どこの店にしたらいいのやら。とにかく全体を見て回ってから決めよう。
ということで、一回りしてみた。流石にアーケードの端っこの方は、人の姿もまばらだった。だが、たとえ端っこであっても、食べられるお店はどこも行列だ……と思っていたら、やけに短い列を発見。飲食店の看板があって、その後ろに二組の二人連れが並んでいるだけだった。
ここに並ぶしかない!本能がそう言っている。私はサッとその二組の後ろに並んだ。看板を見て、それから店構えを見た。看板はそれ程でもないが、店構えは古めかしい。そうか、今まで見た行列は、恐らくガイドブックに載っている店だったのだ。目の前の店は建物も古く、狭い。ガイドブックには載っていそうもない。まあ、それは私の勝手な推測だが。そういえば、私はこの市場で海鮮丼を食べる、という事は決めておいたが、どの店で食べるのかは決めていなかった。ガイドブックには全ての店が載っているわけではないだろうし、どこでもいいと思っていたから。もし決めていたら、長蛇の列に並んでいたかもしれない。この短い列の店を見る事もなく。ああ良かった、決めておかないで。そんな事もある。
看板を見てメニューを決める。いつもはメニュー選びでも迷う私だが、今日は迷わずに決められた。すると、お店の人が出てきて、
「何名様?」
と聞き取りを始めた。前の二組に聞いて、
「皆さん2名様ね。」
と言って去ろうとする。既に私の後ろにも二組くらい並んでいたが、皆さん二人連れなのだろうか。だがちょっと待て、店員のおばちゃんよ。何故2名様ばかりだと思ったのだ、ここにいる私が二人連れに見えるのか?と、憤っている場合ではない。私は咄嗟に、
「あ、私は一人です。」
と、小さい声で言った。小さい声で言うつもりでもなかったのだが、私の深層心理が、大声では言いたくなかったようだ。しかし、おばちゃん店員さんはちゃんと聞き取ってくれた。そして、
「すみませんね、お先に1名様どうぞ。」
と、私の前に並んでいた人達にお詫びをし、私を先に通してくれた。お一人様枠が空いたという事なのだろう。私はまだ全然待っていないのに、前から並んでいた人達には申し訳ない。だが、とにかく一つポツンと空いている席に、私が入らずして何とする。
店の中に入ると、大きい円卓が一つだけあった。これは、回転寿司を改装したのだなと思った。もしくは、真ん中で料理人が料理をして、カウンター席に直接サーブするやつか。
さて、私は「贅沢丼」というものを注文した。肝吸い付きの。席は狭い。両隣家族連れで、お子さんがいるから賑やかだった。一つの椅子の背に、ボラバッグとエコバッグを掛けたりして、あれやこれやとやっていると、注文した物がすぐに出てきた。
すごい。映える。
「わさびの下にあるのが“のどぐろ”です。」
と言われた。高級魚「のどぐろ」が入っているから“ぜいたく丼”なのだ。なぜ迷わずにこれに決めたかと言えば、のどぐろの刺身を食べてみたかったからだ。
浅い黒いどんぶりにご飯が入っていて、そのご飯なぞ見えないくらいに具が乗っている。向こう側にはカニの頭とハサミがでーんと乗っていて、その手前にはキュウリにイクラにウニ、それを丸く囲むようにして卵焼き、イカ、サーモン、マグロ、その他白身魚の刺身が並んでいる。
当然写真を撮り、それから醤油を用意し、お箸を持つ。肝吸いを一口飲むと、よくだしの利いた海鮮の味がする。そして、早速のどぐろへと箸を伸ばす。大人になった私は、美味しい物は先に食べる性質になっていた。何故かって?お腹がいっぱいになってからでは、せっかくの美味しい物が美味しく食べられないからだ。お腹が空いている時が一番美味しく食べられるから。若い時よりも、あまり食べられなくなったから変わったのかな。
というわけで、いの一番にのどぐろの刺身を食す。うーん、高級魚と言われても、残念ながらよく分からない。特別美味しいのかどうなのか。鯛などの白身魚の刺身とどう違うのか。逆に、これは美味しい!と思ったのは、イカだった。歯切れも良く、甘みがあって美味しい。それから、でーんと乗っていたカニの上半身だが、中は空洞。その下にはご飯もなく、大きなどんぶりのようでいて、その三分の一は張りぼてだったというわけだ。とはいえ、私には丁度良い量であった。
お一人様は落ち着かないし食べた気がしない、といつも思っていた。だが、ここまでずっと一人で来たので、今更それほど気にならなかった。それに、両隣は子供に気を取られた親御さん達。向かい側の席はけっこう遠い。カウンターの上部にコップや箸が乗っていて、伸び上がらないと向こう側は見えない。私の後ろにいる店員さんは、二人でずっとしゃべっている。つまり、見られている感じがしなかったので、落ち着けたのだろう。それに、一昔前と違って女性のお一人様は増えた。それほど珍しいものではないのだ。自意識過剰だったというか、何というか。やっぱり時代かな。それとも、自分が年を取って感覚が麻痺してきたのか?
夫から「お天気はどうだい?」とLINEが来た。警報級の大雨だったから、気にしてくれたのだろう。天気の様子を伝え、海鮮丼の写真を送ってやった。夫から連絡が来たのはこの一回だけ。無事に着いて、ちゃんと観光していると分かって安心したのだろう。後はもう、関心ないってか?こちらも全く連絡しなかったけど。
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