33

 氷柱つららのような鍾乳石から水が垂れて、足元を滑らせている。一歩間違えれば滑り台のように転げ落ちかねない。

 鍾乳洞を人体に例えるならば、下に降りていくこの道は食道だろう。水は唾液で、向かう先は胃ということになる。

 スマートフォンの灯りを頼りに、慎重に下っていく。まるで古代の墓の中に入っていくような不安感。そして、足を進めるにつれて空気がより一層冷たく湿っていくのを感じた。

 時折、目の前の暗闇に妙なものが見える。古いテレビがちらつくように、白い何かが一瞬姿を現す。見えたと思うと消えて、また見える。躓きかけて足を止めると、それも止まる。しばらくして左右に揺れる尻尾であることに気付いた。

 その内行き止まりに達して、古く頑丈な扉が見えてきた。搾りかすのような黒煙は完全に消えていたが、恐らく扉の隙間から湧きだしていたのだろう。この空間は数日前に訪れた時より格段に寒く、気を抜くとカチカチと歯が鳴りそうであった。

 ここまで来たのはいいが、扉を開けなければならない。頭では分かっているが身体が拒否反応を示していた。この先は生きている人間が訪れるべきではない、と警告している。

 しかし、逃げ出しても誰かが代わってくれるはずもない。犯人の田牧は神妙だったがどこまで信用できるか分からないし、日置刑事は狼を見ていないので鈴木の二の舞となってしまう。自分がやるしかないのだ、それに先ほどから姿は見えないが、はっはっと熱い息を漏らす何かが近くにいる。

 よし、やるか。

 虚空に呟いて、重い扉をぐっと手前に開く。

 すると、扉の隙間から月明かりが差し込んだ。この奥は本来暗闇のはずだが、開くにつれて洞窟の中を白い月光が満たしていく。

 そして、完全に開ききった門の中には、あの屋敷が鎮座していた。

 古い武家屋敷のような外観、空には満月が浮かんでいる。この門から正面玄関までは石畳が引かれ、その左右は枯山水のように白い砂だけが敷かれていた。

 目を引くのは血の跡だ。血液が石畳の上を垂れており、それは玄関ではなく右側の白洲へ伸びていた。以前の小春ちゃんのものとは違い鮮やかな赤色、つまり時間の経っていないものである。

 後ろ手で門を閉じると、血を辿って歩き出した。じゃりじゃりと音を立てながら、小石に自分の足跡を刻んでいく。白い石に映える赤い血、恐らく鈴木のものだろう。彼が無事であるという微かな希望は打ち砕かれた。

 庭から回り込んで屋敷を見ると、障子は開いており室内が覗けた。畳敷きの和室に見覚えのある大きな松の襖、それは僅かに開いている。そして血の跡は、誘うようにその奥へと続いていた。

 あの夢と同じだ、この中のもの全てに見覚えがある。

 恐らく一番奥の襖まで進まなければいけない。そう考えただけで足がすくみ、腰が引けてしまう。すると、足元をさっと何かが通り過ぎる気配がした、触り心地の良いふわふわした毛の感触。臆せず進めということだろう。

 厭々室内に上がり込み、血を踏まないように襖まで歩いて手をかけた。その時描かれた松の葉が微かに揺れた気がしたが、見ない振りをしてそのまま開く。

 次の間は白波が飛沫を上げる襖絵。ふわりと潮の香りが鼻に届き、ざざあああと轟音が聞こえる、気のせいではない。襖の中では波が満ち引きを繰り返し、左下に描かれた岩にぶつかっていた。自分の顔が引き攣るのが分かる。へっぴり腰になりながら襖へ近付くと、より磯の香りが強くなる。今にも波飛沫が顔にかかりそうだ。なるべく絵に触らないよう、人差し指で引っ掛けるようにして襖を開けた。

 次はさぎだ、二羽の水鳥がこちらを見ていた。正確には襖絵の中からだが、黄色く不気味な四つの目玉が凝視している。恐る恐る近付くと、その目がぎょろりと自分の動きに着いてきた。しかも部屋の四面すべてに二羽ずついるのだ、合計十六の瞳が一挙手一投足を見つめてくる。気がおかしくなりそうだった。襖を開くために近付くと、警戒するように一羽が片足を上げる。もう一羽はいつでも飛べるように羽をばたつかせ始めた。まさか、飛び立って絵から出てくることはないだろうが、ここは理屈では説明のつかない場所だ。なるべく刺激しないよう、静かににじり寄って一気に襖を開けた。

 その奥の襖には、右上に湧く雲の中には龍が、左下の竹林には虎が、それぞれ厳しい面持ちで睨み合っていた。毎回驚いていては心臓が持たない、情けないが下を向いて進むことにした。幸いではないが、足元には血の跡が道しるべのように続いている。それを頼りに摺り足で少しづつ歩くと、やがて襖に突き当たった。この方法は悪くない、そう思い、引き手があるらしき場所に触れると、突如鋭い痛みが左手に走った。

「いてっ」思わず前を見ると人差指が齧られたように出血していた。襖の中では、口元を血で汚した虎がにたりと笑っている。くぐもった低音の笑い声が右からも聞こえてくる、玉を持った龍が同じく哄笑していた。

「この、絵ごときが!」

 何だか無性に腹が立った。まるで卑怯な振る舞いを笑われているように思えて、苛立ち紛れに襖を開ける。

 落ち着きなされ、唐突にどこかから声がした。ぎょっとして周りを見渡すが、すぐに気付く。正面の襖、渓流で老人が釣り糸を垂れる絵から声がしている。一見優しげな風貌だが、目の奥には底意地の悪い光が見えた。

 この前も来られたかの、とそれは笑った。人間の絵が動いているのは、自然現象や動物以上に不気味だ。それにこの老人はどこか恐い、人間の生皮を被った別の何かが話しかけてきていると感じた。これとまともに会話しては駄目だ。

 それに人差指の痛みとそれに伴う怒りが恐れを上回っていた。ずんずんと近寄り、無言で襖を開ける。

 その次は悪臭が部屋に満ちていた、肉の煮える何とも言えない嫌な匂い。襖の中では、あさ比百姓図の親子三人がこちらを見ている。その視線にぞくっと怖気が立った。彼らの考えていることが頭に流れ込んでくる。「ひもじい」「何か食べたい」「次はこの子か」「いやこの男は誰だ」「こいつを喰えばいい」

 彼らの眼差しは、目の前の男を食べ物だと認識していた。腹を空かせた中学生がコンビニのホットスナックを覗き込むように、今にも涎を垂らさんばかりの空腹感が伝わってくる。

 どうせ絵だ、干渉することはできない。そう思い一歩踏み出すが、先ほど虎に齧られたことを思い出した。間違って襖絵に触れてしまったら、引きずり込まれるのではないか。その後どうなるかは考えなくても分かる。

 落ち着け大丈夫だ、自分に言い聞かせる。さっきは手元を見なかったせいだ、幸い襖の引手には絵が描かれていない、ここをしっかりと触れば問題ないはず。そっと手を伸ばすと、子供がよろよろと近付いてくる。手元を狂わせたら、すぐにでも引き込めるように待っているのだ。

 喉まで出掛かった叫びをぐっと飲み込み、緊張で震える手が襖を開けきった。手術後の外科医のように疲れと汗が押し寄せてくる。気持ちを落ち着けるために、一つ深呼吸をした。

 とん、と板場に降り立った

 目の前に広がるのは雷の襖絵。ごごご、と不気味に轟きながら、襖の上部に描かれた黒雲が蠢いている。細かい点滅が襖全体で瞬いているが、雨だろうか。

 不意に爆音が鳴り響き、襖が白に染まる、落雷だ。

 蛇のようにうねりながら稲光が落ちる。

 時間にすれば一秒に満たなかったが、雷の中を黒い胡麻のような粒が一緒に落ちていくのが見えた。

 板場を進もうとすると床が酷く滑る。垂れていた血は、もはや川と言って良い程に多量だった。最初は入口で襲われた鈴木が、怪我に耐えながら奥に進んだと思っていたが、恐らく違う。彼は中で殺されてその後出ていったのだ。そして黒雲に乗って門を飛び出し、地上に降り立った。亡者として。

 ふと、黒い木の切れ端が目に入った。血の川のほとりに無造作に転がっている。恐らく鈴木なりに考えて、倉庫の端材を木仏代わりに持ってきたのだろう。

 だがこちらには本物がある。それに心強い味方だっている。

 もう、終わりにしよう、襖を一気に開いた。

 最後の部屋はこれまでと少し違っていた。正面には床の間、左右は白壁に囲まれ、ここが終点であることを示している。そしてトマトをぐしゃりと潰したように、血の飛沫が四方に飛び散って、畳には血溜まりができていた。

 部屋の真ん中には、女の子が一人血の池に倒れている。

 一歩足を踏み入れると、部屋の中は甘ったるい香りで満ちていた。あまりに濃密すぎて一瞬気が遠くなる。その原因は、突き当たりの床の間で焚かれているお香だった。鉄臭い血と甘い果実のような香りが入り混じり、嗅いだことのない異臭となっている。

 その中で少女は苦しんでいた。溺れているように手足をばたつかせているが、以前と様子が違う。

「小春ちゃん、足が……」

 左足がない、着物がその部分だけ大きく凹んでいる。そして鮮血の中に彼女の黒い血が油のように浮いていた。

 思わず近づくと甘い香りで頭がくらくらする。恐らくこれは桃の香りだ、一気に何個も桃を食べたように、甘ったるい香りが脳内で炸裂した。良い匂いも強すぎれば毒となる。

 そして少女は足を失った苦痛というよりも、この香りで苦しんでいるように見えた。まるで、虫が殺虫剤をかけられたように弱々しくもがいている。

 不意にその右手が畳の縁を掴んだ。

 声を掛けたことでこちらの存在に気付いたのか、ずいっと腕を縮ませて体を動かす。次は左手でその先の縁を掴む。うつ伏せのまま腕の力だけでこちらへと這ってくる。決して顔を上げず、髪を乱しながらゆっくりと迫ってくる姿に思わず恐怖を覚えた。

「小春ちゃん、大丈夫だから。一緒にこの外に出ようね」

 動揺を悟られないように、わざと明るく話しかける。

 手を差し伸べかけて、ふと気付いた。

 そういえば、彼女の顔を一度も見ていない。

 最初に見た時もこちらに振り向くことはなかった。

 怪我をしている様子から、勝手に小春ちゃんだと思っていた。

 ——では、これは誰だ?

 そこまで考えて、吐きそうなほどの恐怖を覚えた。

 ここにいるべきもの、門と屋敷が閉じ込めているもの、自分が会いにきたもの。

 全ての結論が目の前の存在に収斂していく。

 恐怖が脳内を満たす、一秒でも早くこれから逃げなければ。

 背を向けて一歩目を踏み出した時、血で滑って盛大に転んだ。

 どん、と額を畳に打ちつけ、目の奥に火花が散る。

 急がないと彼女に捕まる。そう思えば思うほど、夢の中にいるように上手く足に力が入らない。

 ばたばたと血に塗れてもがいていると、足首にひやっとする感触を覚えた。それの力は徐々に強くなり、ぎゅっと握りしめられていく。

 ひぃ、という短い悲鳴が口から漏れる。これは死体の手だ、血の通わない死の温度、触れられた箇所から徐々に凍っていくような冷たさを感じた。ぐるりと仰向けになって振り解こうとしても、強く握りしめられて離れない。上半身を起こし肘で這って距離を取ろうとするが、その努力も虚しく彼女は次の手で太腿あたりを掴んだ。

 腐葉土のような重く湿った感触を生地越しに感じる。焦りと恐怖で呼吸が荒くなり、息が漏れるその度に濃密な桃の香りが体内へと入ってくる。段々と麻酔のように脳が甘く痺れるのを感じた。

「……そ……とに……で、たい」

 彼女が、老婆のような嗄れた声を漏らす。

 やはりこれは毒なのだ、神を鈍らせ閉じ込めておくための。思考が纏まらず脳の回転数が落ちていくのを感じる。

「おか……あ、さ……ん」

 お母さんとは誰だ、神の母ということは更に上位の神なのだろうか。だがそんなことどうでも良い、何しろとても眠いのだ。甘い香りは意識を手放すように囁きかけてくる。その誘惑に堪えきれず瞼を閉じかけた時、ぺろりと頬を舐められるのを感じた。何だこいつは邪魔をしないでくれ。振り払おうと手を動かすが、その手を強く噛まれた。

 その一瞬、意識がぱちっと明瞭になる。

 そうだ、彼女を運ぶのだった。

「外に出してやる、家に連れてって……、やるからな」

 途切れ途切れに呟くとポケットから木仏を取り出した。自分の下半身に覆い被る彼女の顔は、鈴木の血とざんばら髪で隠れていた。だが、唯一見えた口元はにたりと歪んでいる。まるで亡者の笑みだ。全身の毛が逆立ち、恐れで顔が歪む。

 彼女が、自分の顔目掛けて手を伸ばすのが見えた。

 その時、ううううう、と低い唸り声が響く。

 威嚇に怯むように伸びる手が固まった瞬間に、掴み取り木仏を握らせる。

 そこから先は何も見えず、何も聞こえなかった。

 身体の感覚が無くなって、ふわりと意識が虚空に消えていくのだけが分かった。


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