32

 岩崎家は、山を切り開いた桃園を見下ろす位置にあった。

 眼下は棚田のような緩やかな傾斜地になっており、紅や薄桃、白の花が咲き乱れて、正に桃源郷のような光景。その絶景を眺めながら、縁側に腰掛ける私と岩崎老人を西日が照らしていた。この家を訪問してから三十分、ここに座ってずっと桃の話をされている。

「それで桃っていうのはね、高山地帯が原産で、ちょうどこの美保関の山の中みたいな感じだったんじゃないかなと思います」

 にこにこと岩崎老人の口が動く。

 柔和な表情と蕩けそう微笑みは、隠居した好々爺そのもので、彼はえびす様のような厚い耳たぶを揺らしながらゆっくりと話す。客人をもてなそうと一生懸命なのは嬉しいが、生憎桃には興味がない。

「うちのは昔から変わっていない品種の桃でね。先がちょっととんがっているんですよ。桃太郎の桃を想像していただくと分かりやすいかな」

「そうなんですね」

「まあ、あなた。まだ桃のお話をしているの? 日置さんは別の要件で来られたのではないかしら? すみませんねえ、お茶のお代わりどうぞ」

 着物の老婦人が奥から縁側までやってきて、口早にたしなめる。彼女はわざわざ膝をついて、空になった湯呑に緑茶を注いでくれた。所作の一つ一つが丁寧で無駄がない。

「ああ、すみませんね。若い娘さんと話す機会なんて滅多にないもので」

「舞い上がってしまってお恥ずかしいわ。もしこの人の話が脱線したら、すぐ呼んでくださいな」

 上品に微笑んで彼女は出て行く。

 先ほどの岩崎の話によると、奥さんは着付けの先生をやっているらしい。きびきびとした立ち振る舞いに納得した。

「それでお話というのは、岩崎伊右衛門、いえ安川求道のことでしたかな?」

 岩崎はほかほかと湯気を立てる湯呑を一口すする。

「ええ、実は今日来るはずだったもう一人が彼の子孫なんです。是非お話を聞きたいと」

「なるほど。しかし、その方は来ることができんでしょうな」

 今日の天気でも話すような口振りで、岩崎は空を見上げた。

「……それはどういう意味でしょうか」

 安川の身に起こった数々の不遇な出来事、あれはやはり偶然ではないのだろうか。

「はい、岩崎と安川の両家は絶縁しておるのです」

「絶縁……?」

「その発端が正に伊右衛門という男です。いや安川求道の方が分かりやすいですな。そもそも、この岩崎は雲州うんしゅう松平家まつだいらけにお仕えするれっきとした武家でした。当時の当主である求道は変わり者で、若い時は山伏修行をするなど奇行が目立ったのですが、何をやらせてもできるということで、お殿様にえらい可愛がられていたそうです。その評判は次第に天下に響き渡り、遂には時の徳川幕府から直参、つまり旗本にならんかとお誘いを受けたそうで。要するにヘッドハンティングっちゅうやつです」

「なるほど、引き抜かれたんですね」

 私にも分かりやすいように、言葉を言い換えてくれる。

 現代で例えるなら松江市役所のエリート公務員が、仕事振りを見込まれて中央省庁に転籍するようなものか。

「安川求道は江戸に移ってからも、とんとん拍子で出世を続けて、代官まで任されるほどになりました。しかし、そこからが問題だったのです」

「問題……?」

「実は岩崎家には重大な秘密がありましてな、武家にも関わらず桃畑を持っていて。いやそれ自体は問題ではないんです。秘密はこの桃の木の下にあるんです」

 眼下に映える様々な桃の花、花火のように咲き誇るその根の下に何があるのか。

「日本神話をご存知ですか、亡くなった伊邪那美命いざなみのみこと伊邪那岐命いざなぎのみことが会いに行くと言うお話です」

「ええ、知っています」

 命を落とした妻のイザナミを迎えに、夫であるイザナギが黄泉の国を訪ねるのだが、向こう側の食物を食べてしまったため帰れないと拒絶される。何とか帰れるように取り計らってくるが、決して自分の姿は見ないでほしいと言い残した妻に対し、イザナギは約束を破ってその姿を見てしまう。そこには腐って変わり果てた妻の身体があり、衝撃を受けたイザナギは逃げ出すという話だ。

 今考えると、とんでもない夫である。約束を破った上に逃げるのだから、イザナミ側からしてもたまらないだろう。結局彼女は黄泉津大神よもつおおかみとなって、毎日に千人の人間を殺していると言われている。

「死んだ伊邪那美命の身体には、八体の雷神が湧いていたと言われています。具体的には、頭に大雷、胸に火雷、腹に黒雷、陰部に裂雷、左手に若雷、右手に土雷、左足に鳴雷、右足に伏雷といった具合です。うちの先祖が守り続けてきた桃達は、それらの雷神を黄泉に閉じ込めているなんて伝承がありまして」

 島根県は神話の中心地だ。黄泉の国に関する話があってもおかしくない。

「まさか、それを」

「ええ、安川求道は持ち出しよったんです。一部の桃も伐採してしまって。当時と言っても正確には分かりませんが、とにかく大騒ぎだったようです」

「それで絶縁を」

「はい、時は経って、彼の孫が祖父の不義を謝りたいと言ってきまして。こちらとしても当事者達が死んどるのにわだかまりもないと思って快諾したんですが、何時まで経ってもその方が来られないんですよ。どうやら家を出ようとする度に、火事やら病気やらになってしまったらしく、都度謝罪の文が届く始末で」

 今朝の安川と同じだ。

「こちらとしても恐ろしくなったので、取り止めとしたんです。全く縁というのは凄いものです」

 縁といえば、私と亡者もそうだ。小春が亡くなった現場で見てしまってから、ずっと繋がっている。糸のように垂らされたその縁を手繰って、朝比町にも来ることができた。御幣の田を初めとして、あらゆる場所で亡者の存在を感知できたのは、そういう理屈かも知れない。そして、遂にその正体を明らかにしようとしている。

「その、八雷神が桃の下に埋まってるというお話でしたが、安川求道はどれを持っていったんでしょうか?」

「それが分からんのです。時が経つにつれ伝承も不明確になっていって、ここには八雷神全てを封印しとるとも、そもそも一部しかおらんかったとも言われていて、ただ一つ確かなのは彼が伐採した桃の跡地にこの家が建っとるということです。もしかしたら、真下に雷神様がいたのかもしれませんな」

 ほほ、とえびす顔で笑う岩崎。

 思わず縁側から降ろしている足を上げたくなった。

「ちょっと失礼します」と言ってスマートフォンで検索する。

 八体の雷神は、それぞれ雷が巻き起こす現象を冠しているものらしく、例えば火雷ほのいかずちは雷が起こす炎を表しているらしい。何かヒントがないかと一つずつ調べていく。

「これだ」思わず声が漏れた。

土雷つちいかずちは雷が地上に戻る姿を表している』という一節。

 空から降ってきて土に潜るとは、まるで亡者だ。

 彼が持っていき、麻生山に眠っているのは土雷に間違いない。

 となると、別の疑問が湧いてくる。

「何で桃の木で封ができるのでしょうか?」

「それも日本神話に答えがありましてな、妻の姿を見たイザナギは逃げ出してしまうんですが、怒ったイザナミは八雷神に命じて追いかけさせるのです。そして今にも追いつかれそうというところで、たまたま生えていた桃の実をぶつけると、雷神達を退散させられたという寓話です」

「雷神達は桃が苦手なんですね」

「桃は聖なる果実として有名ですからね、意富加牟豆命おおかむづみのみことという名前をもらった神様でもあるんです」

 それを知っていた安川求道は、桃の木を持ち去って麻生山の社としたのだ。更にはあの木仏も同じ、全ての辻褄が合う。

 岩崎の話を聞きながら、一面に花を咲かせる桃の木達を見下ろす。

 その下に眠っているかもしれないもの達を思うと、どこか落ち着かなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る