31
足場の悪い石段で、二人の男に挟まれていた。
先に登っている田牧には背を向けて、後ろの警察手帳を突き出す男性と相対している。金色の記章の上には、『日置礼司』と名前が記載されていた。
「もしかして、日置さんの……お父さんですか」
「ええ、刑事をしています。あなたのことは以前ちらりと聞きました。まさかここにいるとは」
抑揚のない話し方が娘にそっくりであった。ただ外見はすらっとした長身で、そこだけは似ていない。肉食の昆虫のような黒目が、じっとこちらの仕草を観察しており、不審な動きをしたら即座に拘束されそうだ。
しかし、日置は島根に行っているはずだが、何か理由があって父親を寄越したのだろうか。
「警察の方ですか……、まあいいです。ただここは足場も悪い。上に行きませんか?」
田牧は一転して力が抜けたように呟いた。
確かに急勾配の石段で、一列になって話すのは都合が悪い。
「分かった、逃げようと思うなよ」
もうもうと雲を吐き出す山頂に向かって、三人で登り始めた。先ほどに比べたら、その勢いは幾分か弱まっている。ただ、近付いていくうちにどんどんと身体が冷えていくことに気付いた。
「……寒い」
思わず声が漏れる。寒さだけではなく、雲が身体中を包むと視界が一メートルほどしかなくなる。目の前の背中を見失わないよう着いていき、朱の顔料が剥げかけた鳥居に達した。
「一旦、社に向かいます。足元に気を付けて」
田牧の言葉に無言で頷いて、いそいそと足を進める。
黒い霧の中に身を置くと、骨の芯まで冷えるような悪寒が強くなる。手足から力が抜けていくような底冷えする感覚。萎えそうになる手足を懸命に動かして、社へと辿り着いた。
入り口を開くと、遭難した登山客のように中に倒れ込んだ。自分だけではなく、二人とも体力を使い果たしたように肩で息をしていた。
「何だこの雲は、普通じゃない。まさか本当だとは」
日置刑事はどかっと板間に腰を下ろして、茫然と呟く。その横には先日使った青い寝袋が丸まっていた。ついこの間ここで鈴木と語り合ったのに、彼は先走ってしまった。酒焼けした擦れ声を思い出し、じわじわと悲しみが胸の中に広がる。長い時間を共にした訳ではないが、親しみが持てる人だった。
「刑事さんが後ろから着いてきていたんですね、かのしさまかと思いましたよ」
「……慣れ慣れしい口を利くな」
暗闇の中で、日置刑事が威圧的な口調で告げる。
話を聞く限り、もっと無感情な人間だと思っていたが、刑事という仕事柄こういう面も必要なのだろう。
「穏やかじゃありませんね。ああ、囲炉裏に火を入れましょうか」
田牧は転がっていたライターと着火剤を使い、器用に火を灯す。部屋が明るくなり、お互いの顔が判別できるようになった。そして彼はこちらに向き直って、頭を下げる。
「谷原さん、黙っていてすみませんでした。あの落雷を発生させたのは私です」
「それはどういう……」
「この男は朝比町のために、麻生山の神を使っていたんですよ」
日置刑事の言葉に、田牧は縦に首を振って肯定する。
そして、全てを諦めた表情で呟いた。
「しかし先生があの扉の中に入ったとは、もう手遅れかもしれない」
「……鈴木さんのことは本当に残念です」
「もちろん先生もですが、あれの方です」
意味深に、鍾乳洞の方へ顎をしゃくる。
「待て、それはどういう意味だ」
「そのままですよ、一人目は呼び水として必要でした。しかしそれ以降はまずい」
「誰のせいだと思ってる。その一人目をぶち込んだくせに」
「……よくご存じですね」
自分の頭上を言葉が行き交っていき、理解が追い付かない。
「二人共ちょっと待ってください、何が何だか分からないんですが」
「……こいつは自分の父親を捧げたんです。雷を起こすために」
噛みしめるように日置刑事が言葉を漏らす。
どういうことだ。
彼の父親は、徘徊して行方不明になったのではないのか。
それに鈴木以外はここに入れないはずだったし、生贄を捧げたとしても一回きりの落雷で終わるはず、ぐるぐると疑問が頭の中を渦巻く。
囲炉裏の火に照らされた田牧は、ふうと一息入れて天を仰いだ。何かを考えるように目を閉じて、口を開く。
「その通りです、私は父を生贄にしました。全て朝比町のためです」
「なぜそんなことを……、それに何が起きているんだか」
「今は説明している時間がありません。先生が中に入ったせいで、あれが目覚めようとしている。谷原さん、あの書き置きが正しければ、先生はあなたに何か託しているはずです。教えていただけませんか?」
返答に窮す。木仏のことを伝えても、今ここにないのだ。
「それは、恐らくこれのことだな」
日置刑事が内ポケットから、自分の想像していたものを取り出した。
手の平に収まる黒っぽい木仏。
驚いて息が漏れる、何故彼が持っているのだ。
「娘から持っていくように伝えられました。そしてこれが果たせる役目、どこに持っていくべきかも分かります」
「それは?」
田牧が訝しげに尋ねる。
「これに麻生山の神を封じる、そして元の場所に戻す」
「そう言うことですか、なるほど。……しかし難しいですね」
「何?」
「テイクアウトのコーヒーじゃないんですから、そうホイホイと持ち歩きできるものじゃありません。助けが必要となるのですが、残念なことにその手段は私自身で弱めてしまいました」
田牧がそう呟いた時に、呼応するように遠吠えが響いた。
低く長く響く遠吠え、例の犬だ。
「この鳴き声は……!」
「まさか、そんなはずは……。それよりも谷原さん、あれが聞こえるんですか?」
遠吠えは徐々に鍾乳洞の方向へと遠ざかっていく。
まるで着いてこいと言わんばかりに。
「田牧さんこそあの犬をご存知なのですか?」
お互いの驚きが交差する。
一人置いて行かれている日置刑事は、戸惑って頭を掻いた。
「待て待て、意味がわからんぞ」
「刑事さん、今すぐそれを私に下さい。もし信用できないと言うのであれば、谷原さんでもいいです」
「ちょっと説明しろ」
「つまり何とかなりそうなんです、さあ早く!」
慌てた日置刑事が、田牧ではなくこちらに木仏を手渡してくる。手に馴染む滑らかな感触、これは本物だ。
「田牧さん説明してください、あの犬は何ですか? そしてこれでどうすれば良いんですか?」
木仏をポケットに仕舞いながら叫ぶ。説明もなしに動けと言われても戸惑いしかない、官僚は前例がないことは苦手なのだ。
「とにかく鍾乳洞まで行きましょう、今すぐ」
ばたばたと立ち上がり、田牧は入口の戸を開ける。黒い霧が入ってくると身構えたが、見えたのは稜線に沈みゆく太陽だった。
雲が晴れかけている。社の屋根越しに鍾乳洞の入り口を見ると、一筋の糸のような黒い煙が心細くたなびいているだけであった。
「あれは犬ではなく狼です、本来の麻生山の主となります」
田牧の言葉にはっとする、自分の予想は当たっていた。
彼の母親が言っていた麻生山の神の話、彼女が参っていた盲目の狛犬、埼玉の山地に伝わる狼信仰、全ての説明がつく。
「社のやつか。あんたがわざと放置した社は、母親が綺麗にしていたぞ。認知機能を衰えさせた結果だな」
「母が、そうでしたか……、そうであれば大丈夫ですね、谷原さん行きましょう」
「ほう、抵抗しないのか」
「種をばらされてしまったら、二度と同じ手は使えません。そうなった以上あれは朝比町にとって危険なだけの存在です」
「だから、谷原さんに持っていかせようと?」
「私がやってもいいです、その木仏さえ渡してもらえれば」
「お前は信用できん」
「では谷原さんしかいません。あの狼が見えていることが重要なんです」
また勝手に話が進み始めたが、恐らく実行するのは自分らしい。
「あのう……」
「歩きながら説明します」
田牧はそう言うと鍾乳洞に向かって歩き始めた。入口は社から少し登った岩壁にあり、なだらかな熊笹の道を進む必要がある。遅れまいと彼に続き、その後ろを用心深く日置刑事が着いて来た。
「修験者や山伏に限らず、世界中の宗教者が厳しい修行をする理由をご存じですか?」
「いえ、分かりません」
「あれは、弱い自分に打ち勝つためなんです、もう一人の自分と言えば良いでしょうか。向こう側のものは、己の中に巣食う弱いものに勝てる人間、つまり強い人間を好むんです」
弱いもう一人の自分。沙耶から逃げ出そうとする度に、心の陰からこそりと顔を出し、都合の良い台詞で慰めてくるあれだ。あれを消し去るまでの葛藤は、宗教的な修行と同義であったということか。
人間は楽な方に流される、と鈴木が言っていた。彼はもう一人の自分に負けたせいで、加護に預かれず中で命を落としたのだ。
「そういう人間を好む、か」
田牧の言葉を噛みしめるように復唱する。
ぱたぱたと尻尾を振る盲目の狼を思い浮かべた、確かにカフェで自分を見つけた時に喜んでいた。それだけではない、メンタルクリニックで見た猫も、あの亡者でさえもにんまりと笑いかけていた。
「自分もそうだと言うのか」
最後尾から日置刑事の声が飛ぶ。
「ええ、私も常に弱い己と闘い打ち倒してきました。……朝比町を守るため」
田牧は両親を犠牲にしてこの町に尽くしてきた、彼の中で朝比は我が子と同義なのだ。沙耶を守るため弱い自分を否定したように、田牧は朝比を守るため同じことをした。つまり彼の弱さとは両親への愛情、それを断ち切ったということか。
田牧が狂っている人間だったら狼は姿を現さないだろう。彼は一つ一つ痛みと向き合って乗り越えた、例えそれが異常なことであっても。
いや向こう側の存在にとって、人間基準の道徳心などは関係ないのだ。ただ強い人間が好きなだけ。急に狼が得体の知れない存在に思えて、ぞっとした、
「奥に扉があるので入ってください、何かあれば狼があなたを守るはずです。後は出たとこ勝負となります」
目の前にはぽっかりと洞窟が口を開き、線香の煙のようになった黒雲が、か細く湧き出ていた。
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