34
あれから三日が経った。
昼下りの陽光に目を細め、何度目か分からない喫茶店の扉を開ける。古風ながら
「お待たせ、島根振りだね」
「……ああ、谷原さん。すみません、ぼーっとしてました」
「いきなり普通に戻ったから無理もないよ」
店員にコーヒーを頼んで、彼女に向き直る。燃え尽き症候群のようなものだろうか、率先して色々動いていた日置は、現実との落差にまだ慣れていないようだ。
「その後、お父さんは大丈夫だった?」
「ええ、逆に谷原さんのことを心配していました。下山する時、色んなところをぶつけたって」
その言葉に思わず腕をさすりそうになった。
あの後、鍾乳洞の中で気絶していた自分を二人が担いで下山したらしい。大の大人を背負って夜の山を降りるのは大変だったであろう。細かな気遣いはできなかったらしく、擦り傷や痣が体中にできていた。
「痣が顔じゃなくて助かるよ」
初めて日置が笑った。この冗談が通じる人間はそう多くない。
「その後、ノンストップで島根まで運転したんだよね。流石刑事だ」
「あんな死にそうな父の顔を初めて見ました」
「気絶してなかったら運転代われたのに」
流石に田牧とは同乗する気は無かったらしく、日置刑事は一人で島根までの道のりを運転しきった。
「谷原さんも目覚めた時にびっくりしてましたよね。ここはどこだって」
「目を開けたら、一面桃畑だったから天国かと思ったよ」
日置が先に訪れていた岩崎家の果樹園は、一面桃の花が咲き誇る楽園のような場所だった。
到着したのは翌日の昼前、彼女が事情を話して桃畑の一角に木仏を埋めさせてもらった。岩崎家の老主人は嫌がるどころか大興奮で、一番立派な桃の下に木仏を埋めてくれた。将来的には、その周りにも苗木を植えるらしい。
これで一件落着のはずだったが、日置の顔はどことなく物憂げに見える。その理由は一つしかない。
「それで、田牧町長のことは起訴できないの?」
「ええ。できるとしたら、父親に対する保護責任者遺棄致死罪ですが、どこにも物証がないので無理でしょうね」
姪の仇を見つけ出したが、法的にできることはないらしい。無力感から呆然とするのも無理はない。それに自分も彼を責めるべきかもしれない。自身も雷を見たし、沙耶も亡者に襲われた。十分に怒る資格はあるはずだが、どうも怒りが湧いてこない。
どこか、同族のような思いを抱いていた。
もちろん彼は身勝手な理由で多くの人を犠牲にしたが、朝比町と沙耶を置き換えたらどうだろうか。他人を犠牲にしてまで娘を助けたいかと言われたら、迷いながらも首を縦に振ってしまう、それが父親というものだ。
「お父さんとは仲直りしたの?」
気になっていたことを聞く。
「はい、今まで通りになりました。最初は信じなかったのに、小春の仇だって話をした途端に動いたのは不服でしたけど」
「ああ、だから来たんだ。まるで全部知ってるって感じだったな」
「最小限の情報しか伝えてなかったんですが、恐らくはったりでしょうね」
「流石刑事だね。でもやっぱり迫力あったよ。田牧さん相手にもすごい強気だったし」
「父がですか?」
日置は信じられないという顔をした。やはり普段は無感情な人間のようだった。だが彼女自身の行動原理も姪の死に対する原因究明であり、時には感情を剝き出しにすることもあった。
似た者親子なのだ、と微笑ましくなる。
ようやく来たコーヒーを啜ると、彼女は鞄の中から封筒を取り出した。
「今日来ていただいた一番の理由が、この手紙です」
日置が差し出したそれには、自分の宛名が記されている。
怪訝な顔を見越したように「先日、鈴木さんの家を調査しに行った父が見つけたようです」と彼女は補足する。
急いで封を開けると、折り畳まれた手紙が入っていた。内容は簡潔で、元教師らしい丁寧な文字で書き記されていた。
家族がいないというのは嘘で、大学卒業と同時に結婚しようと思ったが両家の反対で別れたこと。数年後にその女性が出産していたことを知ったこと。その女性の苗字が谷原で、子供は今年で三十八くらいということ。
今さら父親がいると言われても、感情が揺さぶられる歳ではないが、手紙の内容は充分に衝撃だった。同時に鈴木がなぜ洞窟に向かったのか分かった気がした。自分の足元で起こった炎が孫娘まで及ぶ罪悪感と、長年燻ってきた家族への贖罪の気持ち。色々ないまぜとなって、彼はあの場所に赴いたのだろう。
「何か、重要なことが書いてあったんですか?」
「いや、彼の秘密が書いてあったんだ。しょうもないことだったよ」
「そうですか」
何かを察したのか、それ以上彼女は強く尋ねてこなかった。
ふと思った。日置刑事も鈴木も子供より孫のことで一生懸命になっている。後ろめたさを補おうとしたのか、今更子供と向き合いにくいのか、どちらか分からない。もしかしたら両方だろう。
「そう言えば安川さんは大丈夫ですか? お父さんの件」
「まだ会っていないから分からないけど、辛いだろうな」
安川の父、安川従道の死はここ数日のトップニュースとなっていた。
遊説先での落雷死。
未来ある有力な政治家の死は、総選挙前ということもあって各メディアを賑わせている。安川の悲しみも想像できるが、社会的に繋がりが多い人物は最後も賑やかになる。今はかなり忙しいだろう。そして何よりどう声を掛けたら良いか分からない。
雷による死、という明らかな不審な死因。
それは黒幕が誰かをはっきりと示していた。特定地域農産物という制度に乗っかり、認定する見返りに政治資金を献金させるという有りがちな構図。田牧があの扉の鍵を持っていたという理由も、安川求道の子孫が協力していたのであれば簡単に説明がつく。
一つ有難いとすれば、朝比町の監査報告書の件だ。あれを否認で出しても問題なくなったはずだ。
良かったじゃないか、仕事を辞めずに済みそうだな、と笑みを浮かべたもう一人の自分が顔を出した。どうやら完全に消え去った訳ではないらしい。弱い自分に打ち勝って幸せに過ごしましたとさ、とはならないのが人生だ。勝って正しい道を歩くこともあるし、時には負けて自己嫌悪に塗れる。どちらにせよ苦しい道だが、そういうものだろう。
ただ辛いことばかりではない。「今日は沙耶がカレーを作ってくれるそうです」という母からのメッセージを一瞥した。
「この後買物行くから、そろそろ帰るね」
「わかりました、……あの谷原さん。安川さんも落ち着いたら三人で打ち上げしませんか?」
日置は少し恥ずかしそうに提案した。
確かにこの件が終わったら、日置と会う理由はない。これで終わりというのも何だか寂しい気がした。
「そうだね、あいつにも言っとくよ。できればアサヒカリを置いてない店にしよう」
つまらない冗談に笑ってくれた日置と別れ、店を出て喧騒の中を歩き出す。
カレーの具材を買うという使命があるのだが、その前に一つやることがある。駅に向かう道中で、渦中にいたもう一人の人物に電話を掛けた。
「もしもし、田牧です」
「谷原です。その節はどうも」
「色々ご迷惑をお掛けしました。安川議員の件は見ましたか?」
「ええ、田牧さんは何ともないんですか」
「私にはあれがいるので、しばらくは無事だと思います」
思わず屋敷の中で、狼に舐められた頬に手をやった。
起訴されない件といい、落雷の件といい、抜け目がないというか上手く立ち回っている男だ。
「約束のお話をお願いしたいんですが」
「分かっています。少し複雑な話ですが」
滔々と田牧は話し始めた。
「簡潔に言うと、あれはシステムなんです。麻生山の神をエンジンに据え置いて、落雷を発生させる仕組みと言えば分かりやすいでしょうか。そのための燃料が私の父でした」
脳が固まり、しばし茫然とする。
言葉は耳に入るが、意味が上滑りしていく。
システム、神がエンジン、燃料が父、どういうことだ。
「古今東西、神を降臨させるためには生贄が必要です。麻生山の神も同じく、生贄によって現世に降臨します。神の
降臨に伴う光が雷というのは、理解できる。
あの山で身をもって感じたのだ。
「しかし、社を初めとする複数の防ぎのお陰で、本体は出て来られないよう何重にも縛られています。その結果何が起こるか……」
ごくりと喉が鳴る。
「降臨の光のみが、エラーのようにこの世にもたらされるんです。そして我々はそれを果実として享受することができる。想像するだけで身が震えますよ、神を道具にしようだなんて畏れ多い」
人類は色々な自然現象を生活に利用してきた。
水の流れ一つをとっても、水車で揚水や脱穀に使ったり、近代ではタービンを回すことで電力まで生み出している。それと同じだ、土雷の性質を利用して養分を田にあたえるシステムなのだ。
しかしいつの時代も、自然は人間を超えてくる。大雨でダムが制御できなくなるように、災害が起きてしまう。
「二人目がまずいっていうのは、どういうことだったんですか」
「単純に燃料をくべすぎると制御できなくなります。私の父だけで充分だったのに、鈴木先生が入ってしまった。大きな落雷を起こすために守りを弱めていたので、危うく出てくるところでした」
扉、山頂の社、狼、阿須賀神社、充分すぎるほどの安全対策が施されていた。エンジン出力を調整するため一部の制御を緩めたところに、誤って燃料を足してしまったということか。ますます機械じみている。
そして、ふと疑問を覚えた。
「待ってください、その説明には一つ矛盾があります。昭和以前は何人も生贄を捧げているはずですが、何ともなっていません」
「あれは言わば抜け道です。システムを起動せずに雷を起こすという非常に低リスクな裏技となります。本来は生贄を扉の内側に入れるべきでしたが、外側でも一定の効果はあるようです。ただその場合得られるリターン、つまり雷も弱いものになると考えています。ただ今回のような事態は起こらない、低リスク低リターン、いえ、毎回生贄が必要なので高コストになりますね。人の命が軽い時代でないとできません」
元コンサルらしく、業務システムの紹介のような口調で話す。
「その言い方だと、田牧さんのやり方は父親以外に生贄がいらないとでも」
「……いえ、必要です。正確に言えばこちらから供給しなくて良いだけで」
途端に言いにくそうに、声のトーンが落ちた。
「神は休眠状態となっていましたが、一人目の生贄で目を覚ましました。なのにあそこから出ることができない。となればどうするか」
「……生贄を自ら呼び寄せる」
雷を見た人を屋敷の夢に引き込むあれのことだ。最後の襖を開けた人は捕食され亡者になる、現実世界では失踪ということになって。
「はい。不完全な形の生贄では外に出ることができないので、あれは降臨の光を発し続ける永久機関となります」
思わず彼女の様子を思い出した。
桃の香りがする屋敷に閉じ込められ、出るために生贄を呼び寄せる。しかし自身を縛る縄のせいで、完全に抜け出すことができない。身体中を怪我していたが、あれは黒雲となって現世に降臨する途中だったのかもしれない。毎回途中で中断されるため、体が欠損していき血が流れるが、神なので死ぬこともできない。無限の苦しみだ。
必死に這って来る彼女に恐怖したが、今思えば哀れだった。訳も分からず連れてこられて苦痛を与えられるのだ。「外に出たい」「お母さん」と幼な子のように繰り返すのも当然だろう。今回の黒幕でもあり仕組みを構築した男の末裔に、天罰を与えても不思議ではない。
「ただ、亡者でしたか? 美味い米は彼らのおかげだったようですが、あれの存在はイレギュラーでした。恐らく、生贄が降臨の際の案内人に変化したものなのでしょうが、解き放たれて悪さをするとは。刑事さんのお孫さんを始めとして色々な方を犠牲にしてしまった」
田牧の声には悔恨の響きがこもっている。彼はまともなのだ、一つ一つの苦痛に向き合えるが、結局は朝比のために乗り越えてしまう。ある意味で一番始末が悪いだろう。
そして自分もそうだ。沙耶のためなら悪魔にでも魂を売る。日置刑事や鈴木の方が、よっぽど人間らしいかもしれない。いや人間離れしているからこそ、向こう側の存在は我々を好むのか。
真相を知ってすっきりするどころか、反対にげんなりした。
駅に着いたので礼を言って電話を切った。
周りを見ると、人込みに家族連れの姿が目立っていた。ゴールデンウィークももうすぐ終わりとなるが、結局沙耶とは釣りしか行けていない。埋め合わせではないが、明日はどこか水場以外に遊びに行こう。
ホームに入ってきた電車へ乗り込むと、空いた席に座って観光地を検索する。やはり山か、高原のペンションなんかも良いかもしれない。
いつしか、スマートフォンを手にしたまま眠りこんでしまった。
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