22
「はあはあ……、何が夜にならないと……はあ、出ないですか」
「はあ……、しょうがねえだろ、こんなこと……はあ、初めてなんだから」
鳥居の内側で仰向けになり、薄紫に染まった空を見上げる。
地平では太陽が姿を隠し、その残滓が辛うじて西の空を照らしていた。荒い呼吸で、自分の胸が上下しているのが分かる。
焦げ付くような禍々しい気配は、ぴたりと止んだ。どうやら鳥居を超えることができないらしいが、そちらを覗く勇気はない。
「はあはあ……、それにしても危なかったな」
同じく手足を投げ出し、大の字に広がる鈴木が言葉を搾り出す。夕闇のベールを通じて、星が瞬き始めているのが見える。まもなくここは暗闇に包まれるだろう。
「……ふう。もうじき夜になる、そしたらここも危険だ。社の中に入るぞ」
鈴木に倣って起き上がり、粗末な本殿を見る。
その社は合掌造りの藁葺きの屋根に、黒く傷んだ外観を曝け出している。何故か木目や節が目立つ材木を使っており、貧相な姿を夕暮れに浮かび上がらせていた。
「なんかぼろぼろですね」
「そう言うな、俺しか手入れできるやつがいないんだ」
息を整えた鈴木が、扉を開ける。
罠ではないか、一瞬疑ったがここまで来たら仕方がない。鳥居の外では完全な闇を待つもの達がいるのだ、進む以外道はない。
意を決して続くと、意外と中は広かった。
中央の囲炉裏に火が着くと、板張りの床や節くれだった柱が姿を現す。昔話に出てくる農家のような内観、それに似つかわしくないブルーの寝袋がくしゃっと丸まっていた。
「昨日前田の嬢ちゃんが寝てたやつだよ、洗ってないけど気にすんな」
「鈴木さんはどうするんですか?」
「俺は持ってきてる、あとこいつも」
鈴木はリュックの中から寝袋とウイスキーの角瓶を取り出し、にやっと笑った。
「本当に好きなんですね」
「ああ飲まねえとやってられん、あんたも飲め」
ちゃっかりと金属製のタンブラーを二つ取り出し、琥珀色の液体を注ぐ。囲炉裏の火に照らされた鈴木は、美味そうに一口洋酒を舐めた。コマーシャルのような光景とは裏腹にその表情が何とも無邪気で、自分の直感は間違っていないと確信した。
だが日置の疑いの言葉が、魚の骨のように喉につっかえているのを感じる。
「ここで生贄の儀式みたいなのをするんですか?」
「いや違う。この先をもう少し行くと岩壁にぶち当たる。そこに鍾乳洞があって、その中に贄を置いてくるだけだ」
鍾乳洞に生贄を置いてくる、想像してごくりと唾を飲んだ。本格的に麻生山の神に近付いてきている、興奮と同時に空恐ろしくもある。
喉が渇いた、それに汗が冷えて少し寒い。
火にあたりながら、鈴木に倣ってウイスキーで口を潤す。
「それでどうなるんですか?」
「どうもこうも、俺はその後退散するからな、……待て、外にあいつらが来たぞ」
ひたひたと多くの存在が外を埋めていくことに気付いた。四方から幾多の気配が本殿目掛けて近付いてくる。
夜になり鳥居を超えてきたのだ。
聞き馴染みのある、かりかりと壁を掻く音も聞こえる。胃がきゅっと引き締まり、鼓動が早くなるのが分かった。
「……ここは大丈夫なんでしょうね?」
「むしろここ以外のどこも安全じゃない、麻生山の神を鎮めるための社だぞ。工藤何たらに感謝せねばいかんな」
この本殿の周囲を魑魅魍魎が満たしている。何十もの邪悪な動物霊達が潜むのが、薄い木の壁を経て伝わってくる。昔の船乗りは「
恐怖を麻痺させるために、更に酒を煽った。
「朝比を人に例えるとこいつらかのしは軽い皮膚病だ。厄介だが対処法はある。問題はあっちだ、重い内臓病のようにじわじわと蝕んでくる。原因も治療法も分からん」
「皮膚病でも十分嫌なんですが……」
「まあ当事者は大変だろうな、わはは」
愉快そうに笑う。
彼の様子を見る限り、ここは本当に安全らしい。
少し気が楽になり、コンビニで購入した軽食を取り出して口にした。
「車乗る前に電話してたけど、あれは家族か?」
「ええ、娘とカレーを作る約束をしてまして、守れなかったですが」
「今日ばかりはしょうがねえだろうな、勘弁してもらえ」
「……勘弁してもらってばかりです」
沙耶は特に気落ちした様子はなく、おばあちゃんと外食してくる、と言っていた。最早期待すらされていないのだろう。平日も顔を合わさないのに、休日すら帰ってこない、そんなものは父親と言えるだろうか。
ましてや火曜日に、もっと家族と関わると決意してこれなのだ。自分の言行不一致に吐き気さえ覚える。
そろりと心の陰から例の自分が顔を出して、慰めはじめた。
日置を見てみろ、父親が帰ってこなくてもちゃんと育ってる。構いすぎよりも自立した子に育つさ。それに鈴木も言ってるだろう、死んだら元も子もない。
またこいつかと思う一方で、ぺらぺらと喋るのを呆然と聞く他ない。登山の疲れが心まで空虚にしており、尚且つ自身に嫌気が差しているため言い返すのも億劫だ。
「ずいぶん悩んでるようだな、年寄りから助言してやろうか」
「……あ、はい」
「俺には家族がいない。この神職を継ぐことが全てだと思っていた。何百年も続いてきた崇高な職務だ、そう考えてきた」
一口ウイスキーを舐めて鈴木は続ける。
「……だがそれは違った。別に家族を持つことと家を継ぐことは矛盾しない」
若い頃に何か事情があったのだろうか。
俯きながら話す彼の表情は灯りの陰になっていてよく見えない。
「人間は楽な方に流される、何かしら理由を付けて逃げようとするんだ。賢い奴ほど自分を騙すのが上手い、俺は頭が良かったから自分の安心する理由をいくつも考え出せた。だがそうすると後悔の火が自分の中で育っていくんだ、最初は熾火のように小さいおかげで生活や仕事で何とか誤魔化せる。だがな、歳を取るうちにどんどん大きくなって業火になったら手遅れさ、何をやっても目が逸らせんから心が丸焼けになっちまう。外見では気付かれんだけで、そういう奴はわんさかいる」
俺がそうさ、と自嘲気味に笑う。彼はもう一人の自分に負けたのか、未来の自分はそうなる可能性はある。いやこの人だけじゃない、柿崎部長や日置の父、何人も知っている。
「それは困りますね」
「そうだろ、正しいことは分かっているはずだ。惑わされずに進めば良い」
囲炉裏の火がちろちろと二人の顔を舐めるように照らしていた。本殿の中はようやく暖まってきて、汗で冷えた身体に体温が蘇ってくる。
「なんだか坊主の説教みたいだな、宮司なのに」
「いえ、勉強になりました」
「やめろよ」
照れくさそうに鈴木は笑って、また酒を含む。彼が飲酒を続ける理由は、身体の中で燻る炎を消したいからではないだろうか。しかし収まるどころか、飲むごとに勢いを増すような気がした。
「先ほどの話ですが、鍾乳洞に入ることはできないですか」
「いや、止めておいた方がいい。俺と一緒だと生贄だと思われるかもしれん」
「じゃあ一人では?」
「何が起きるか分からんぞ。もし宇宙船が墜落してきたら中に入るか? 未知の病原菌がいるかもしれんし、爆発するかもしれん、何より恐い主がいる。あれはそういう類のものだ、仕組みが分からん以上何ともしようがない」
「降って来るものを亡者と呼んでいるんですが。もし亡者が下流に流れてきたら、次はうちの娘かもしれないんです。そう思うと宇宙船にも入らざるを得ません」
「あんたに何かあって娘が助かるんならそうしたらいい。だが無駄死にしたら誰が守るんだ?」
ぐうの音もでない、一々正論だ。
鈴木は本気で心配をしてくれているのが分かったので、それ以上踏み込めなくなった。
「どうしたら良いんでしょうか」
「宇宙船の設計者に聞くしかないな、この場合修験者だ。あの警察の嬢ちゃんと力を合わせて、地道に調べるのがいいだろう」
「……そうですね、それが最善みたいです」
「そんなことより、あんたの娘の話を聞かせてくれよ」
それから夜が更けるまで鈴木と色々な話をした。自分、家族、仕事、ありふれた平凡な人間の人生話を、彼は目を細めて聞いていた。不思議と、その間はウイスキーに口をつけていなかったように思う。
ただ話しているうちに酒が巡ってきたのか、気付くと二人共瞼が重くなっていた。
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