21

 曲がりくねる山道を運転すると右側が開けて、棚田が一面に広がっていた。事情が分かった今は、心休まる田舎の風景ではなく、斜面にそそり立つ墓場にしか見えない。

 鈴木は酒を飲んでいるため、彼のワンボックスカーのハンドルを握らされていた。登山用のウェアに身を包んだ神主は、上機嫌に話をし続けている。

「少年野球の遠征行く時に、用具がたくさん入るからこの車にしたんだ。図体の割には運転しやすいだろう」

「そうですね」

「明日は朝から練習だからな、ぱっと祓って朝一で下山するぞ。俺は直接グラウンド行くから、代わりの人間に送っていってもらうようしてある」

「分かりました、ありがとうございます」

 火照った身体を冷ますためか、助手席の窓は開いている。爽やかだが冷たい風は、アルコールの匂いを纏って鼻腔に届いた。

 棚田を越えると更に道が細くなる。

 ひび割れたアスファルトに落ち葉が散乱して、道が原始の自然へと還っていく途中のように見えた。

「ここの道はただ麻生山の登山口に繋がってるだけだ、町は予算不足を理由に碌に整備してないから困ってるんだよ。あっ、臭えな」

 鈴木は鼻を摘まみながら急いで窓を閉めた。

 間に合わなかったのか、鶏の糞の匂いがつんと車内に漂う。

「うわ養鶏場か」

「この匂いが大嫌いなんだ。風が強いと神社まで届いてきやがる」

「居酒屋で食べた鶏自体は悪くなかったんですがね、この匂いはどうも」

「ああ食ったのかい。俺は食うのも嫌だね」

「鶏が嫌いなんですか?」

「鶏肉が苦手でな。ぐにゃっとして生臭いような気がして食えないよ」

 邪気を祓う、と言い訳して、鈴木は胸に抱いた一升瓶をちびりと舐める。喋りっぱなしだった口が酒で塞がったので、ようやくこちらから質問することができた。

「なぜ『かのし』は鹿の形で現れることが多いんですか」

「ああ、あれか。元々は鹿を生贄にしてたんだ。埼玉の山は鹿が多くてな、特に麻生山にはたくさんいた。作物食われて困ってた農民にはちょうど良かったんじゃないか。おかげで今は野生の鹿はほとんどいない、だからしょうがなくペットや死んだ動物で代用しているんだ」

 秩父山地は鹿の食害が酷く、捕食者であったニホンオオカミが山犬様として祀られている神社も多い。朝比町では、害獣駆除と生贄補充の一挙両得であったのだ。そして目のない猫やその他の動物についても納得がいった。

「昨日祓った前田さんとこはな、飼い犬が死んじまったから、あんな目にあったんだ」

「犬が?」

「かのしは他の動物が嫌いなんだ。それを分かってて年寄りのいる家は皆何かしらのペットを飼ってる。飼ってない家も犬の毛とか爪とかをお守りにしてるよ」

 犬の毛――安川がスーツに付いた毛を払う光景を思い出した。日置はゴールデンレトリバーを飼っていて、よく助手席に乗せていると言っていた。そういえば、土曜の朝に初めてあの白い犬を目撃して、その後月曜から本格的に姿を現すようになった。間の日曜には、家族で動物園へ行っていたのだ。

 いくつもの辻褄が合っていく。

 朝比町の人々がやたらと犬を飼っている事。

 自分だけが、かのしに憑りつかれた謎。

「かのし除けとして飼っていた動物が年取ったり病気になると、俺んところ持ってくるんだ。雷は落ちねえって言ってるんだが『言い伝えだからやってくれ』って。おかげでどんどんあいつらは増えていく」

 自分達を守ってくれた動物達を看取るのではなく、雷欲しさに捧げるとは何というエゴか。しかも落雷は起きないのである。恐らく本人達もなぜやっているか説明できないだろう。その結果かのしが肥え太り自らの身に降りかかってくる。自業自得とはこのことだ。

「逆に若い人らは全く信じてないから困ったもんだよ。前田の嬢ちゃんもここに来るまでに、大分進んで狐憑きみたいに吠えまくってたぞ」

「そんなことに」

 一回しか会っていない前田の顔を思い浮かべる。

 穏やかそうな女性が目を吊り上げて暴れる様を想像して、寒気がした。

「ああ、おかげで狂犬病の検査を受けたり、痣のせいで家族が暴力振るってるって疑いかけられたり、まあ分からん奴から見れば病気にしか見えんだろうな」

「恥ずかしながら同じく病院に行きました」

「おつむの方だと思ったか? まあ無理はない」

 超自然的なものとされていた症状が、只の病気だったと判明する事例はあるが、今回はその真逆のことが起きている。

「あれに会っても知らんふりをしてれば何とかなる。前田さんとこもそうだが、あんたもいらんことしただろ」

「はい、治療の一環として、あれが引っ掛いてる扉を開きました」

「なんだそれ面白いな。くっくっく」

 堪えきれないように鈴木が笑い声を漏らす。

 事情を知っている人からすれば自殺行為なのだろう。

 道は大きく右にカーブし、更にその後また大きく百八十度左に曲がった。九十九折りだ。傾斜のかかるヘアピンカーブがぐねぐねと続き、山を登っていることが分かる。片方は苔の生えたコンクリート斜面、もう片方は錆びかけたガードレール。両側に聳える杉の木は枝打ちがされており、むき出しの幹を晒け出していた。

「そろそろだな、ここからは歩きだぞ」

 突然ガードレールが道を塞ぎ、「通行止」と書かれている看板が立てかかっていた。脇にある何台かの駐車スペースは当然空で、楽々と駐車する。

「ここからどれくらいで登れますか」

「早ければ二時間だな。遅かったら日が暮れる、そうなると色々まずいぞ」

 鈴木は悪戯っぽく、にやりと笑う。

 暗いと転びやすくなるとかそういった意味ではなさそうだ。通せんぼしているガードレールの横をすり抜けると、足元が黒土に変わる。行く先を見ると、木々が空を覆いまるで暗いトンネルのように見えた。

 そして、その闇に登山道は吸い込まれていく。

「ほら、さっさと行くぞ。俺が前歩くから」

 鈴木の声に引っ張られ、嫌々ながら登山口に入る。

 案の定、光が弱くなった。

 しんとした静けさや陽光が届かない薄暗さは、阿須賀神社に来た時と同じだが、何か根本的な部分が違う。

 どこか落ち着かず、そわそわするのだ。

 同じ静寂でも、この山はひそひそと囁き声が聞こえるような感じがする。暗さもだ、木々の間から午後の陽光が差し込んでいるが、それにしては薄暗い。辛うじて聞こえてくる野鳥の囀りや木漏れ日を支えに足を動かす。

 かのしを祓うためとは言え、どうして来てしまったのか。

「大抵は麻生山にいるが年に数回ふいっと降りてくるんだ」という鈴木の言葉を思い出す。そもそもここは彼らの巣なのだ、先方からしたらご馳走が向こうからやって来たような話だろう。ちりちりとした棘状の杉の葉を踏み分けながら、ひたすら登っていく。

 足を置くところは材木が配置してあるため滑りにくい。

 目の前では鈴木は引き締まった下半身を動かし、還暦とは思えない歩みをみせている。

「鈴木さん、ずっとこのペースですか?」

「おう。この先の道が厳しいから、今の内に時間を稼がねばならん」

「……ちょっと自信ないですね」

「なんだ、兄ちゃんいくつだよ」

「三十八です」

 まだ若いじゃないか、とでも返ってくるかと思いきや、鈴木は黙り込んだ。後ろからでは表情が見えず、不安に駆られてこちらから聞き返す。

「何かまずいことありましたか、厄年的な?」

「いや、そんなことはねえよ。ちゃんと上で祓うから安心しろ。噛まれてるのも耳だけみたいだしな」

「あっ。これ実は化粧していて、身体中噛まれています」

「なに?」

 自分で話して、顔から血の気が引くのを感じた。亡者について聞くことを優先し、大事なことを伝え損ねていたのだ。

 ゆっくりと振り返った鈴木も同じく青い顔をしている。

「お前大丈夫か、記憶なくなったりすることは?」

「今のところないです」

「じゃあまだ狐憑きにはなってないな、ちょっと急ぐぞ。夕方にこんな重症な奴を連れてきたことはないんだ」

 鈴木は心細げに呟いて足を早める。

 こちらを責めずに解決を急ぐあたり良い教師だったのだろう。目の前ではリュックに入りきらなかった一升瓶が、口だけを覗かせ左右に揺れる。山の空気は凛と冷えているが、借りたトレッキングウェアの中が蒸れてきた。

「すみません、言うのを忘れていて」

「耳だけ化粧してないなんて、そんな話聞いたことあるな」

 耳なし芳一の話を思い出す。

 平家の怨霊に憑りつかれた琵琶法師の芳一が体中に経文を書き、難から逃れるというストーリーだ。ただお経を書き忘れた耳だけは霊に持ち去られてしまい、芳一は耳なしとなっていた。

「逆に耳だけは化粧しなくて良かったです」

「違いない、おかげで今ここまで連れて来れた。見つかった状態だとかのしは夜しか動かん、今夜祓わんと余計酷くなるとこだった」

「そう言えば、前田さんはもう大丈夫なんですか?」

「ぴんぴんしてる」

 完治済みの前例がいるのは心強い。

 恐らく自分よりも症状が進行していても祓えるのだ、安堵の気持ちが胸に広がった。あとは日暮れまでに頂上に着ければ問題ない。鈴木に倣って足を早める。

「あれに殺されたのは過去に一人しかおらんから、安心しろ」

「田牧正吉氏ですか?」

「ああ、孫に似てというと逆だが、相当な合理主義者でな。絶対にかのしを認めなかった。被害者第一号だから仕方ない点もあるが」

「相当なやり手だったという話を聞きました」

「その通りだ。元々人を捧げるのを止めようと言い出したのは、俺の親父だった。何の罪もない人間を山に連れていくのが辛かったそうだ。それに対して、当時の田牧町長はしばらく時間をくれって言ったらしい。そりゃそうだ、あの雷がないと朝比町の農業は立ちいかんからな」

 戦後すぐの食糧難の時代だ。

 田舎は多少ましだったとは言え、江戸時代以前の痩せた朝比町に戻すことは避けたいだろう。

「観光業に移行するまでの時間が欲しいってことだったんですか?」

「いや違う。観光業なんて人の余裕がないと出来ん。あの時代は呼び込むべき都会の人間も旅行どころじゃなかった。当然農業で凌ぐしかない。しばらくして農協に届いたんだ、『硫安』が」

 硫安――硫酸アンモニウム。代表的な窒素肥料の一つで、いわゆる化学肥料だ。農業をやっている人間であれば誰でも知っている、一般的な肥料。戦前からその生産は進んでいたが、安価に普及し出したのは戦後からとなる。

「化学肥料という武器があったから生贄を止めさせられたんですね」

「ああ。そこから田牧家の地位は盤石となった、まあ昔から偉かったがな」

「今の田牧町長も頑張ってますよね」

「あいつはあいつで大変なんだ。兄貴と親父の尻ぬぐいというか……、まあ余所者のあんたには関係ない話さ」

 鈴木は冗談めかして笑う。

 朝比町は変革期なのだ、昭和二十五年と同じように岐路に立たされている。観光業から再び農業に立ち戻るため、正吉氏の孫が汗をかいているのだ。

「そういえば前田家の犬はな、内臓をすっぽりと綺麗に抜かれていたんだ」

「えっ」

「野生動物にあんなことは出来ん、もちろんかのしもやらん。動物が嫌いだからな」

「人間の仕業だと?」

「あの家を襲わせるだけなら殺す必要はない、どっか余所にやっちまえばいいだけだからな」

「……となると」

「もう一ついるだろ。おっかないのが」

 亡者か。人型の化物。

 確かにあれが人だけを害すると決まっている訳はない。田から出た後に朝比町を彷徨って、外飼いの犬に手を付けたのだろう。

「昔は落ちて来た死人達が田から出ないようにと御幣を刺していた。それに倣って同じ事をしても役に立たん」

「御幣が腐っているのを見ました。昔もあんな美味しいお米獲れていたんですか?」

「いや、味については聞いたことがない。死人が降ってくると収量は増えたみたいだが」

「工藤という修験者が社を建立した、と資料館で見ました」

「有名な話だ。朝比中の工藤さんを調べて家系図まで見せてもらったが、誰も該当せん。そもそも修験者っていうのは定住しないから、どこか行った可能性が高い」

 自分達の思いつくことは全て調べている、考えてみれば当たり前だ。

 スマートフォンをこっそり開いて、日置からのメッセージを確認する。彼女は先ほど聞き漏れた質問をまとめて送ってきており、その全てを確認した。だが何も成果はない。

 思わず空を仰ぐと、木々を縫って届く陽光が濃いオレンジ色へと変わっていた。腕時計を見ると時刻は十六時三十分、日の入りまでそんなにない。

 話しながら登っていたため、呼吸が辛くなってきた。

 次の段までの間隔が短くなり、傾斜がきつくなっていることが分かる。ただここで足を止めたら座り込んでしまう気がして、黙々と登る。山が深くなるに連れて、左右の景色も杉の木から多種多様の常緑樹へと変わりつつあった。

「ここが分かれ道だ」

 つと鈴木が立ち止まる。

 思わず尻に顔をぶつけそうになった。

 彼の目の前には、注連縄の巻かれた巨木が聳えていた。二人掛かりでようやく幹に手が回るほどの太さ、樹齢は優に百年を超えるだろうか。それを避けるように右上へと登山道が伸びている。

「ここを左に」

 巨木に触れないよう恐々鈴木の背中に続くと、道など無くただの平坦な藪だった。木の合間を、背の低い熊笹が埋め尽くしている。膝の高さまで群生している笹の中に入って行くと、地面が踏み固められているのを感じた。

 ここは道だ、いや道だったのだ。

 枝打ちがされていない樹木は、頭上を枝葉で覆って更に光を弱める。鬱蒼と茂る深緑の中を歩くと、淀んだ水の中にいるような重圧が纏わりついてきた。ここは人間の手が入っていない太古からの森だ、と本能が告げる。

「俺以外は何故かこの道に気付くことができんのだ。前に練習の一環で小学生達と登ったんだが、試しにこっちに来たら、『監督が消えた』って大騒ぎになってな」

 愉快そうに鈴木が笑う。

「それが阿須賀神社の結界だと」

「ああ、間違いない」

「へー。というか、こんなところを前田さんも通ったんですか」

「人間、命がかかれば何でもできるんだ」

 平坦だった藪は、急に勾配の強い上りへと変わる。

 滑ると思ったが、先ほどの登山道同様木が地面に打ち付けてあることに気付いた。

「江戸時代の道だ、あれを招いてからは鈴木の人間と生贄しか通っておらん」

「……どうりで快適な訳で」

「減らず口が叩けるうちは大丈夫だな」

 自分では中々登ってきたつもりではあるが、下界の景色は見ることができない。深い山の空は、乱立する木々に隠されている。あるのは蔦の巻き付いた樹木と熊笹だけ。ここは人間が楽しむための山ではないのだ。

 登り続けると、徐々に岩がちな地形へと変わっていく。苔むした巨岩が転がり、曲がった松がそこに剝き出しの根を添わせていた。しかし木の密度が低くなるわけではなく、おとぎ話の森のように天に向かって葉を茂らせている。

 その隙間から血の色に染まった夕焼けが覗いた。ますます時間はない。

 ほう、と梟の鳴き声が響いた。

 どこかの梢に止まっているのだろうか。首を振っても探しても姿は見えない、保護色で幹に紛れているに違いない。

「ずいぶん早起きの梟ですね、夜行性だと思っていましたが」

「土鳩じゃないのか」

「いえ、ほうって単発で鳴いてました」

「……そうか」

 どうやら彼には聞こえなかったようだ。

 目の前は笹の緑と、ひたすら歩く鈴木の脚部。

 足元もごつごつとした岩が多くなってきた。

 再び梟が鳴く、こんなに頻繁に声を発する鳥だったか。最初は遠くからだったが、段々と近付いている。ここから十メートルも離れていない距離にいるはずだ。梟の写真を撮って沙耶に見せてあげよう、後ろに向き直ろうとすると鈴木が叫んだ。

「振り向くな!」

「えっ、どうしたんですか」

「嫌な予感がする」

「……勘ですか?」

「いや確信だ。それと、この山には梟なんていない」

 返事をするように、「ほう」とまた聞こえる。

 頭のすぐ後ろだ。

 もう振り向く勇気はなかった。

 急に汗が引いていく、手が震えないよう拳をぎゅっと握った。

 近年はペットとしての梟が人気らしい。それが逃げ出して野生化したのではないか。いやペットであれば『捧げられた』可能性もある。鈴木の態度から、彼に心当たりがあると分かった。

「いつのやつですか!」

「五年前くらいだ。孫が飼ってて羽根が折れたからと、持ってきた爺がいた」

 風が吹き、ざあぁと笹を揺らす。

 その音に混じって、遠くから何かが草木を掻き分けて近付いてくる気配がした。硬いものが枝を踏む破裂音、土を蹴る鈍い音、たくさんの何かが地を奔ってやって来る。

「……鈴木さん、来てます!」

「絶対に振り返るな。走らなくて良いからペースを合わせろ、鳥居まで行けば大丈夫だ」

 まるで鹿しし狩りだ。

 狩りでは射手まで獲物を誘導するために、勢子せこが鹿を追い立てる。だが今回は逆に人間が追い立てられている。後ろの蹄の持ち主もこうして狩られたのだろう、意趣返しのつもりか。

 となると、この先待っているものは何だろう。

 おぞましい怪物が口を広げ待ち構えている様を想像し、ぶるっと身体が震えた。

 突然、鈴木が刀のように一升瓶を引き抜き、ちろちろと地面に撒き始めた。二人が歩いた軌跡をなぞるように、酒が笹を濡らしていく。

「魔除けですか」

「適当にやってるだけだ。こんなこと初めてだからな!」

 御神酒に代表されるように、日本酒には魔を遠ざける力がある。

 そのお陰か、一定の距離からかのしは近付いてこない。

 だが背中に感じる。

 焼きごてを押しつけられるような熱のこもった視線。二匹や三匹ではない、何十匹という獣が我々の背中を見ている。酒が途切れる瞬間を待ちながら、牙や臼歯を涎で濡らしているのだ。

 なりふり構わず、斜面の古道を駆け上る。右へ左へくねる道を必死で這い上がる内に、手の甲が笹の葉で切れて酒の飛沫がぴりっと沁みた。酒が無くなったらおしまいだ。それまでに上に辿り着かないと、ここで食われる。

 ぜいぜいと息が切れた。

 太股と脹脛ふくらはぎが悲鳴を上げている。置いていかれないよう顔を上げると、鈴木の遥か頭上に何か聳えているのが見えた。

 ――鳥居だ、古びた鳥居。

 いつの間にか足元も参道らしき石段となっている。この上に間違いなく社がある。神域に近付いている事実が勇気を与えてくれた。

 ……神域? その言葉に違和感を覚えた。

 あれは何を祀っている社だったか。急かされるように来てしまったが、ここは怪異の総本山だ。目の前を走る鈴木は信用できるのか。

「最も怪しい人物です」という日置の言葉を思い出す。

 このまま行けば生贄にされるぞ、と内なる理性が警告する。そうだ、彼が唯一落雷を起こせる人間なのだ。

 しかし、これまでの会話から鈴木が悪い人間には到底思えなかった。悪意のある人間はどこかしらにそれが滲む。上手く取り繕っても本性が漏れ出る瞬間というものがあるのだ。だが鈴木にはそれがない、神社や車の会話でも気風きっぷの良い人柄だけが伝わってきた。

 精神科のクリニックでは理性を信じて、かのしに見つかった。こと怪異に関しては、本能の声を聞いた方が良い気がする。それに最早悩むような時間は残されていない。仮に罠だったとしても、後ろから恐怖が迫っているのだ。

 所々欠けた石段に蹴躓きながら、駆ける。

 朱が禿げた鳥居が、頭上で大きく口を開けていた。


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