18

 薄闇が迫る中、自宅のドアを開けたのは十八時過ぎだった。

 母と同居する際にリフォームした実家はまだ新しく、建材の匂いすら残っているような気がする。それに混じって廊下の奥から良い香りが漂ってきた。

「あれ、パパじゃん。どうしたのこんな早くに」

 リビングの扉を開けると、沙耶が机にランチョンマットを並べていた。驚いたように目を丸くしている娘の奥、キッチンでは母がカレーを盛りつけていた。

「まあ、珍しい。お仕事首にでもなったの?」

「そんなとこだよ」

 母の軽口には付き合わず、スーツの上を脱ぎ椅子の背にかける。穏やかそうな婦人風に似合わず、飄々とした口振りで話すのは相変わらずだ。沙耶が柔らかい黒髪を揺らして、追加のマットをいそいそと敷いてくれる。

「パパ首なんだ、かわいそう」

「明日からはモヤシしか食べられなくなるぞ」

「そしたら、おばあちゃんの貯金使って二人でステーキ食べようね」

 祖母の言葉に、あはは、と沙耶が笑う。

「さてさて珍しい人もいることだし、乾杯しましょうか。沙耶はコーラで私はビール、あなたは?」

「ビール飲もうかな」

「じゃあ私がコップに注ぐ!」

 食卓には出来立てのカレーとシーザーサラダ。

 沙耶が注いでくれたビールは溢れんばかりに泡が弾けて、半分以上が白く濁っている。お返しにコーラを注ぐと、母がやって来て三人で乾杯した。

「こんなことがあるなんて、今夜はきっと雪ね」

「おばあちゃん違うよ! これから『らいう』だって」

 沙耶がカレーを頬張りながら返答する。

 天気予報を見たのだろう、らいう、雷雨か。

 雷という言葉で折角の気持ちが冷めてしまいそうになる。

 結局、日置との話で答えは出なかった。

 麻生山の神とは何なのだろう、その存在すらあやふやだ。亡者が神なのか、それとも神が亡者を降らせるのか。はたまた例の動物達とも関係があるのか。あの猫の姿形を思い出す。所々が啄まれたように、身体が欠けていた。詳しくはないが、動物霊というやつだろう。あれも何故自分の前に姿を現すのか分からない。

 疲れているからか、少しアルコールが回ってきた。カレーの中のごろりとした牛肉を頬張って噛みしめる。複数のカレー粉を混ぜて使っているようで、香ばしく複雑な旨味と少しの辛みが舌に纏わりついてくる。ビールをぐびりと飲んだ時に気付いた。

「そう言えば昼もカレーだったわ」

 あら、二度美味しいわね。と母は笑って、沙耶との談笑に戻る。今日あったことや給食の話、傍で聞いていても微笑ましい限りだ。

 だがそこは、祖母と孫の二人の空間であった。久しぶりに食卓を共にする珍しい客人は、最初こそもてなされるが後は家族の時間だ。別に除け者にされているわけではないが、居るだけの空気のような存在に過ぎない。

 居心地の悪さにもぞもぞとする。父はいないものとして家庭は成り立っており、いつもと違うシチュエーション、平日の夕食だから浮き彫りになっただけの話。

 急に逃げ出したくなった。

 見慣れたはずのイスやテーブルが余所の家のものに見えてくる。

 ご飯を食べたら風呂に入って寝ようぜ、心の陰からもう一人の自分がこそっと囁く。だれが食わせてやってるなんて台詞は言わないよ、お前が金を稼いで母が沙耶の面倒をみる、それでいいじゃないか? 日曜日だって動物園に付き合ったんだ、むしろ頑張りすぎてるくらいさ。沙耶も母と楽しそうに会話してるし、これでいいんだ。

 それの言葉は、鎮痛剤のようにじんわりと染み渡っていく。

 結局沙耶が孤独を感じていなければ良いのではないか、いつも感じていた心の痛みが少し癒えていく気がした。

 急いでカレーを頬張り、サラダも片付ける。

 ティッシュで口を拭って、余ったビールをグラスに注ぐ。

 これを飲んだら退散しよう。

「パパすごい食べてる。そんなお腹空いてたの?」

 沙耶の黒い瞳に見つめられて、身体が固まった。

 無邪気な娘の問いに何と答えたら良いか分からない。

 この場から逃げたくて早く食べてるんだよ、なんて汚い本音を言える訳がない。後ろめたさが口から言葉を奪う。

 こんな時に自分の父だったらどんな風に話すのだろう、分からない。

 どう振舞うのが正解なのか、だれか答えを教えて欲しい。

 頭に浮かぶのは、顔も知らない日置の父親のこと。

 たまの夕食でこんな気分だったのか、だから帰りたくなかったんじゃないのか。

「沙耶のパパはカレーが好きなの、昔っからそうだったわ」

 母の言葉が不自然な沈黙を破った。

「沙耶と同じでおじいちゃんおばあちゃんと暮らしててね。煮物とか焼き魚ばかり食べさせられて嫌になっちゃって、たまに私が早く帰ってカレーを作ると大喜びしてたの」

 そうだった。

 母は学校の先生をしていて、いつも帰ってくるのは夜中だった。

 祖父母が出してくれた和食は食べ飽きてしまって、ハンバーグとかパスタとか洒落たものが食べたかったのだ。そんな中で、たまに早く帰ってきた母のカレーは光輝いて見えた。

 昔はもっと質素で、市販のルーに小さい豚肉が入っていただけだったが、とんでもなく美味しいと感じた。こんな風にがっついて食べた記憶も残っている。

 でも何より嬉しかったのは、いつも居ない母親が自分を見つめているということだった。

「あのカレーは本当に美味かった」

「えー、今日のより?」

「思い出でそう感じるだけよ。絶対に今のおばあちゃんカレーの方が進化してるから」

 母はわざとらしく胸を張る。

 髪には白髪が混じり、背もすこし縮んだ気がする。

 思えば、片親で苦労した記憶はほとんどない。

 カレーの件のように小さい頃は寂しいと感じたこともあったが、小学校に上がるとそれは無くなった。自分が成長したからだと思っていたが、母が働きながらも一生懸命子供に関わっていたおかげかも知れない。

 授業参観には必ず来てくれたし、運動会のお弁当も煮物では周りから浮いてしまうと揚げたチーズボールや切り抜いた星型の人参、といった洒落た具材を入れてくれていた。

 今思うと罰当たりな考えだが、当時は別に授業参観にも来て欲しくなかった。その上、母の手料理よりもコンビニ弁当に憧れていた。だがそれは自分が満たされていたからだと思う。

 人は追い風を感じることはあまりない。

 風が正面から吹き付けて、始めて分かるのだ。

 母と同じ立場になって、我が子の背中に風を送り続けることの難しさが分かる。沙耶にはできる限り風を送ってあげたい。

 そう思った瞬間、自分の心の中に吹き溜まっていた黒いものが、ふっと晴れていくのを感じた。

「今日のも美味いカレーだ。今度の休みにはパパカレーでも作ってみようかな」

「おばあちゃんカレーより美味しい?」

「私に追いつくには、まだまだ年季が足りないわねえ」

 そう足りないのだ。

 まだまだこれから積み上げていかなければいけない。

 グラスのビールを飲み干した。

 夕食を終えると、沙耶が食べ終えた食器をテキパキとキッチンへと運ぶ。

 親がだらしないと子供がしっかりすると言うが、その通りかもしれない。競うように皿をシンクに運ぶと、沙耶も負けじとスピードを上げる。

「パパ、遅い。私の勝ちね」

「はいはい、お風呂行っといで」

 勝ち誇った沙耶の顔を見ると、まだまだ子供で安心した。

 いつか相手にされなくなる日が来るかも知れないが、それでも父親と娘なのだ。例えどんなことがあっても関わり続けよう。

 食洗器のスイッチを入れて、扉を押し込む。

 布巾をぎゅっと絞り、キッチンを拭き上げていく。

 昼間は全く家事を手伝えないので、この後片付けだけは自分がやるようにしている。夜遅いと跳んだ油が冷え固まっているが、今日はすいすいと汚れが落ちていき気分が良い。

 無心で作業するこの時間が嫌いではない。

「あなた最近働きすぎじゃない? 仕事に憑りつかれてるみたいよ」

 母はダイニングテーブルでちびちびとビールを舐めながら、スマートフォンで何かを見ている。恐らく沙耶に入れてもらった動画アプリだろう。そこまで本気で心配はしていないようだ。

 憑りつかれていると言えば、仕事ではなくあの動物達にだろう。そんな話をしても仕方ないので、適当にあしらう。

「憑りつかれてるかもね。いい霊媒師知らない? 神主でもいいよ」

 母の動きが一瞬止まった。

 さあねぇ、という素っ気ない返事。

 それは何かを知っているような、それでいて探るような複雑な声色だった。

 詳しく聞こうとしたその時、轟音が鳴り響いた。

 ドオンという音に続いて、ビリビリと家が痺れるように震えた。

「まあ雷、沙耶の言った通りね」

「ああ、随分近い」

「あなた雷苦手だった? 顔色が悪いけど」

「……嫌いでないこともない」

 完全にトラウマになってしまっている。

 カーテンの隙間からちらっとでも稲光が見えると、動悸が激しくなる。いそいそとシンク内を洗い上げると、手に付いた水気をスラックスで拭う。

「軽く横になるから上行ってるわ」

「はいはい、後でちゃんとお風呂入りなさ――」

 返事の途中でダイニングを後にした。

 見えなかったが、きっと母は驚いているだろう。

 野生動物のような勢いで階段を一気に駆け上がると、突き当りの寝室に駆け込む。

 昔から使っていた自分の部屋だが、リフォームして随分小奇麗になっている。帰ってきて寝るだけの空間は、ベッドとデスクのみという殺風景な場所だった。

 パチンと白い明かりを付けて、備え付けのクローゼットから寝間着を出した時に気が付いた。

 カーテンが開いている。

 母が掃除した時にでも開けたのだろうか、大きな掃き出し窓にざあざあと雨が吹きつけていた。その奥にはベランダと物干し竿があるはずだが、窓は蛍光灯の明かりを反射して室内を映し出しているだけだ。近寄ると自分の後ろに何かが見えそうで、薄目になりながらカーテンを閉めた。

 一仕事終えると勢いよくベッドに倒れ込む。

 枕元のリモコンで明かりを消すと、雨音以外何も聞こえない暗闇が広がった。布団の中で器用に靴下を脱ぎ、ぽんと床に放り投げる。まだ眠くはないが、掛布団の中で丸まっていると守られているような気がする。

 闇に包まれて、うとうとと意識が薄れていく。

 ざあああという雨音は強まったり急に弱くなったりしている。

 その音に交じって、遠くから足音が聞こえた。

 こつ、こつ、こつ、と硬質な響きが耳に届く。

 それは階段を登ってくる、沙耶が驚かせようとしているのか?

 半ばそうあってくれという願望であった。

 徐々に大きくなる音に、体が緊張していくのが分かる。

 こつ、こつ、こつ、という規則正しい音はそのまま部屋の中へ入ってきた。

 扉が開いた様子はない。

 硬い蹄がフローリングを歩くその音は、ベッドの周りを半円を描くように聞こえてくる。まるで獲物を見定めるかのように周っている。

 もう寝るどころではなかった。

 全身の筋肉が強張って、背中の汗が敷布団を濡らしている。

 布団から顔だけが出ている状態がひどく無防備に感じた。

 ふと顔の横で足音が止む。

 湿った雑巾を放置したような匂い、野性の獣が発するそれだ。

 ぺろり、と味見のように右の頬を舐められた。

 小さくそして冷たい舌だ、生きている動物ではない。

 これはだめだ、この部屋から逃げよう。

 手足に力を込めて、一気に立ち上がるのだ。

 そう脳が指令を下してもぴくりとも身体が動かない。

 ――もしかして金縛りというやつか。

 気付いたら気配が増えている。

 獣の匂いと共に、酸っぱい腐敗臭が漂う。

 反対側の頬も舐められた。

 先ほどとは違うざらりとした感触。

 獲物の肉を削ぎ取るための舌は、猫科の動物のものだ。

 足元の布団にも何かが入り込んできた。

 濡れたモップのような毛の感触がする。

 それは内腿の柔らかい部分に歯を突き立てる。

 思わず声を上げそうになったが、締め上げられているように喉は機能しない。

 いたい。右の耳を何かが齧る。

 いたい、いたい。左頬からは血が出ている。

 いたい、いたい、いたい。腿はどうなっているんだ。

 痛みと共に段々と怒りが湧いてきた、何でこんな目に遭うんだ。

 何か罰当たりな事をしたわけでもない。理不尽さに腹が立つ。

「やめろ!」

 自分の怒号で目が覚めた。

 息は荒く乱れており、心臓も肋骨を叩くように暴れている。

 上体を起こして、耳や頬を触るが何ともなっていない。

 ……とんでもない夢だった。

 既に雨は上がっているようで、窓からは月明りが差し込んでいる。時間を確認したら三十分ほどしか経っていなかった。

 額の汗を手の甲で拭って布団を捲る、当然スウェットのズボンには牙の跡など付いていない。今ならまだ沙耶も起きているはずだ、さっさとシャワーを浴びて何か話をしよう。

 そう思って床に降りた時、ざりっ、と音がした。細かい粒を足の裏に感じる。下を見るとベッドの周りを取り囲むように、蹄で踏んだ跡が残っている。足の裏には黒い土が付着していた。

 火山灰由来の栄養のない土。固まったようにそのまま動けなくなる。

 そして、別の違和感に気付いた。

 ――カーテンが開いている。

 そんな馬鹿な、閉めるところから夢だったのか?

 窓から入った月光が優しくフローリングを照らしている。

 黒い蹄の汚れが点々と床の海に浮いていた。

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