17

 まだ日は高い。

 今日の夜に雷雨が来るとは思えない陽気だ。奮発した高めの定食屋を出た後、これからどうしようか、と途方に暮れた。

 母には精神科へ行くことを話していない。

 言えば心配するに決まっている、それに沙耶にも知られたくはない。

 そうなると、必然的にこの時間は帰宅できない。

 昼下がりの都内は人が多くてごみごみしているが、この喧噪が有り難かった。

 通行人に紛れて、あてもなく歩き始める。

 あのクリニックで見た片目の黒猫は、瞬きした瞬間にすっと消えた。

 まるで最初から存在しなかったように、つるつるした診察室の床が見えるだけであった。そして一生懸命そのことを説明する私に対し、やはり女医は穏やかに肯定してくれた。

 帰り際にもらった薬を検索すると、統合失調症の治療薬だった。客観的に見たらそうなるだろう。

 あの笑顔も患者に向けたものだと思うと、腑に落ちたような、それでいて裏切られたような複雑な気持ちになった。そもそも自分では八割方心霊現象だと思っているが、その思考自体が精神疾患の症状なのかもしれない。

 暗い気持ちのままあてもなく歩き続ける。白いビルの壁、喫茶店の窓ガラス、公道まで売り場を広げている雑貨屋。その合間をガヤガヤと人が行き交っている。

 一人場違いな人間がいた。

 雑踏の中で、全身を黒い服に身を包んでいる女。

 異様な風体に、その場所だけブラックホールでもあるように歪んで見えた。

 ひゅっと気管から息が漏れる。

 このパターンは初めてだ、次は人か。

 驚いたことに、その女はカツカツとこちらに近寄って来る。

 思ったより背が低い。

 足に根が生えたように動けず、その場に立ち尽くす。

 腰を抜かさないように踏ん張ることが精一杯だった。

「……あの、間違っていたらすみません。谷原さんですか?」

「日置さんか。びっくりした」

 黒に包まれたその女は、喪服姿の日置玲奈だった。

 人違いではない安堵感からか彼女は胸を撫で下すが、本当に安心したのはこちらの方だ。

「勝手に遠くに住んでいるものだと思ってました」

「そうだね。よく考えたら、お互い家も職場もこっちにあるのか」

「今日は仕事の帰りですか?」

「いや、精神科に行ってて。例の犬の件で」

 家族にも黙っている内容をぺらぺらと日置に喋ってしまう。

 安心して心の箍が外れたようだ。

 そういえば日置に対して敬語がとれたのはいつだろう。一緒に困難に立ち向かう仲間として、自然と彼女を信用していることに気付いた。

「ちょっとお話ししたいのですが、時間大丈夫ですか?」

 彼女は喫茶店の入り口をちらりと流し見た。

 相変わらず業務的な口調だが、その裏に少し苛立ちのようなものを感じた。

 大丈夫、と頷いて喫茶店に入ることとした。

 昭和の香りが漂う昔ながらの喫茶店、今は純喫茶というらしい。席に着きアイスコーヒーを注文すると、額の汗をハンカチで拭った。四月にしては考えられないくらいの暑さだ。

 互いの飲み物が来るまで話をするのかと思いきや、日置は手元を見て押し黙っている。

「その恰好、葬儀は今日だったの?」

「ええ、無事に終わりました」

「そっか」

「……生まれて初めて父に腹を立てていまして」

 日置は葬儀で感じた父親への苛立ちを滔々と話し始めた。

 八つ当たりだと分かっていると何度も繰り返すあたり、自分の中で消化できない何かの捌け口にしているのだろう。ただ彼女の父と似たような立場の自分としては、耳の痛い話でもあった。

「谷原さんのお父さんはどんな方だったんですか?」

「うちは大分昔に死んでるから、どんな人か分からない」

「あっ、それはすみません」

「いや全然いいよ、本当に何の感情もないから。でも分からないから、お手本が無くて困ってるんだよね」

 自分の前にアイスコーヒーが置かれて、日置にはクリームソーダ。

 グラスに付いた玉のような雫を眺めながら、話を続ける。

「正解を知らない人間だって思いがあるから、一生懸命子供に関わりたいんだけど、仕事が仕事だから上手くいかなくて……。うちの上司なんて孤高の狼らしいよ」

「狼ですか?」

「うん、家庭で孤立してるんだって。『妻に尻尾を振る犬になれば良かった』って言ってたけど、何だよそれって思った」

「谷原さんはシベリアンハスキーなので、犬になれますね」

 日置が悪戯っぽく笑う。

 胸の内の靄を吐き出したからか、険のある雰囲気は消えて、テーブルには穏やかな空気が広がっていた。

「そう言えば、ハスキーって狼と犬の中間なんだって」

「そうなんですか?」

「狼と犬の大きな違いは、眉を動かす筋肉なんだ。二種類の筋肉を使って犬は表情を作れるんだけど、ハスキーには一種類しかないらしい」

「だからあんなきりっとしてるんだ」

 狼から派生した犬は、顔の筋肉を動かして表情を作る能力を獲得した。内眉を引き上げる筋肉と瞼を耳に引っ張る筋肉を進化させることで、人間の愛護対象となり繁殖したのだ。

 人間に媚びず高潔な狼。

 人と共生することを選んだ犬。

 そのどちらでもないハスキーは、まさに自分自身を表している。

 仕事も家庭もどっちつかず、中途半端な獣だ。

「でもハスキーって可愛いですよね」

「えっ?」

「凛々しいのにちょっとお馬鹿なところもあるし、何だか憎めないって感じ」

「そうかな」

「……何か嬉しそうですね」

 日置はじとっとした目で一瞥して、クリームソーダをつつく。

「それで言うと、私の父は狼タイプです。昔はそんな父がかっこいいって思っていました」

「うちの娘もそう思ってくれないかな」

「私は、父に憧れて警察官になったんです。難事件をバンバン解決する凄腕女刑事みたいなのを想像していたんですが、現場に出たのは一瞬、それも安全教室とか交通整理とか研修に毛の生えたようなものばかりで、気付いたらデスクワークになっていました」

 俗に言う理想と現実のギャップってやつだろう。

 警察に限らず、キャリア採用となった公務員は官僚となってエリート街道を進んでいく。年を重ねるほど現場に出る機会というのは少なくなっていくものだ。

「進路を決める時、父に相談したんです。お父さんみたいな刑事になるにはどうしたらいいかって。そしたら国家試験に合格しないとなれないって言われて、今思うと騙されました。うちの父はノンキャリアなんです」

 おそらく彼女の父は、自分がした苦労を娘にさせたくなかったんだろう。

 同じ親として痛いほどに気持ちが分かった。

 沙耶が農水省に入りたいと言い出したらどうか、まずは自分を追いかけてくれたことを喜び、そしてその足が転ばないよう、自分が味わった苦難から遠ざけるため安定した道を用意するだろう。

「親心ってやつだね」と言うと日置は嫌な顔をした。

 姪の不幸な事故を境に父への見方が変わって、遅れて反抗期がやって来たのかも知れない。親と繋がる時間が短かったため、どこの家庭でも経験する問題が今になって湧き出てきたのだろうか。

「何か失礼なこと考えてませんか?」

「……いや、何も」

 勘が鋭い。もし刑事になっていたら大成したかもしれない。

 突っ込まれてぼろを出す前に話題を変える。

「そういえば話あるんじゃなかったっけ?」

「そうでした」

 いそいそと日置はスマートフォンを出す。

 恐らく亡者関係の話だろう、気持ちを切り替えるためにアイスコーヒーをごくりと一口飲んだ。

「お二人と別れた次の日にまた資料館へ行ったんです。撮影は大丈夫だったので撮ってきたんですけど、これって変じゃないですか?」

 表示された写真は資料館で見た説明文であった。

 我々が見たのは江戸と平安時代の記述だったが、これは明治時代のものらしい。

『明治三十八年の冷害。東北地方を中心に夏の気温が低く、稲が十分に生育しませんでした。明治期までは農業効率も悪く、凶作で餓死者を出すことも稀ではなかった時代です。この朝比町も例外ではなく、六、七月の平均気温が四度も低く、凶作になるのではと危ぶまれていました。ところが稲はぐんぐんと育ち、秋の収穫では例年と変わらない量となったのです。これは江戸時代の飢饉対策として、土壌や稲の改良を行ってきたことが原因だと言われています』

 成長途中の稲にとって低温は大敵であり、特に東北地方のやませによる冷害が有名だ。最近では一九九三年の記録的な冷夏が有名だが、その時でさえ平均気温からマイナス三度というものであった。

「……四度も低い気温で育つなんて有り得ない。確かに品種改良によって冷害に強い銘柄は生まれているけど、それはもっと後の話だ」

「となると、残る要因は土壌改良ですが、いくら豊かな土でも冷害を防げるとは思いません。やっぱりあれしかないのでは?」

 麻生山の神が落雷で亡者を降らせて、冷夏による稲の低成長を回避させたということだ。資料館で宗教的な観点ばかり注目していたのは間違いだった、農業という別の面から見れば証拠はあるのだ。

 あれは豊穣の神なのだから。

「もし亡者と仮定すれば、必ず落雷がセットだと思ったんです。なのでこちらも調べてきました」

 続く写真には「朝比と雷の関係」と標題がある。

 歴史ではなく科学コーナーの展示ようだ。

 スマートフォンの画面をスライドしていくと、落雷の統計表の写真が次々と表れた。日置の表情は変わらないが、興奮しているのか声が少し上擦っている。

「雷が落ちた日を雷日数というらしいんですが、明治三十八年は年平均七十五日、その他を見ても六十日前後もあります。現代日本では落雷が多い都市でも平均四十五日です。朝比町は異常に多くて、そのほとんどが夏の稲が成長する時期に集中しています」

 雷が夏に落ちることは、気象的にも特に不自然ではないが、冷夏に限っての落雷ということは仮説を補強することになる。

 ——やはりわざと落としているのか?

 雲間から目を覗かせる不気味な存在を想像した。

 それが下界を伺って雷を降らせている。果たして正体は神なのだろうか、得体の知れないものに無理矢理「神」と名付けているだけではないか。

 しかし事実として、朝比は豊かな土地になっている。

 単に稲を育てる手伝いをしてくれるのであれば、神と言えるが、こういった事例には代償が付き物だ。もしかしたら亡者がそれなのかもしれない。ぷつぷつと二の腕が粟立つのを感じた。

「冷害に見舞われた年を見ると、特に落雷数が多いんです。明治三十八年もそうですし、昭和九年は八十一回も落雷を記録しています」

「東北で大凶作になった年だ」

「それにまだ続きがあるんです。昭和二十五年以降を見てください」

「えっ? 昭和二十五年より後は……何だこれ?」

 落雷数が減少している。

 年平均四十回という極めて普通の数字が書いてあった。昭和二十五年を境に、朝比町の落雷は他の町と変わらない水準まで下がっているのだ。

「この年に何かがあって、例の落雷が無くなったということか」

「はい、その何かというのがこれです」

 日置が更に指を動かすと、郷土誌の年表写真が現れた。

 字が小さいため、目を細めながら読み上げる。

「昭和二十五年、田牧正吉が町長に就任。って書いてある」

「はい、今の田牧町長の祖父です。もっともその前の町長は正吉氏の父だったらしく、代替わりしただけですが」

「あそこは代々田牧家が長を務めるからね、それでこの人が鍵だと?」

「ええ、朝比町を農業から観光業に移行させたのはこの人で、かなりやり手の人物みたいなんです」

「観光業に移行……、落雷が減って農業が立ち行かなくなったのかな」

「例の落雷が無くなってしまい、死に物狂いで産業転換を図ったということだと思いますが、無くなったのではなく落雷を止めたとしたら話は変わってきます」

「……止めた?」

「この正吉氏は変死しているんです。当時の新聞でも報じられていますが、全身を何かに噛まれた状態で発見されています」

 全身を噛まれる、聞き覚えのある死因だ。

 姪の死を思い出したのか、ぐっと堪えるような表情を日置は見せた。

「無理矢理止めたせいで、怒りを買ったと……?」

「正直無理のある推測だと思っています。当時であれば野良犬に襲われた可能性もありますし。ただ本当に止められるのであれば我々にも希望があるかと」

 でもどうやって止めるのだ。

 ふと、電車で考えた仮説を思い出した。

 亡者は命を米に変換するシステムだと考えたら、色々と繋がる。

 その亡者が降ってくるのに必要な代償とは?

 貧しかった朝比町で唯一不自由しない資源とは?

 ――人の命、つまり生贄だ。

「もしかしたら、生贄を捧げていたのかもしれない。それが亡者を降らす条件なのでは?」

「……正吉氏は生贄をやめさせたということですか」

「その結果、麻生山の神の怒りに遭った」

 図らずも田牧の顔が思い浮かんだ。

 祖父である田牧正吉がどういった人物かは分からないが、孫の彼であれば不合理な風習は正すであろう。

 人を捧げることで亡者を降らせる。

 降ってきた時点でも稲が育つのは、捧げられた人間の栄養を宿しているからだろうか。孵化したての稚魚が腹に栄養袋をくっつけているように、命を腹に抱えたまま降りてくるのだ。

 そしてそれを使い切ったら、川に移動して人を引きずりこむ。再度栄養を蓄えて、また田を潤す。

 彼らが川を下っていくことにより、下流にも不審な死が広がる。と同時に荒川流域の田圃には稲穂が豊かに実っていく。もちろん一番恩恵を受けているのは、源流の朝比町だ。

 シャンパングラスのタワーを想像した。

 一番上、朝比町の杯を血が満たしていく。

 そのグラスが全て満たされると、血が溢れていく。

 たらたらとこぼれる血液は下流のグラスを次々と満たす。

 荒川沿いに広がる血の連鎖は、上ほど濃く、下ほど薄い。

 あの米は人の血で出来ているんだ。そう考えて身震いした。震えを押さえるように二の腕を擦る。

 気分を変えるためにアイスコーヒーのグラスを持ち上げたが、中を満たす液体が暗褐色であることに気付き、慌てて戻した。

「ただこの説には疑問が残ってる。あんなに美味しい米だったら、絶対有名になるはずだけど、米の産地で朝比町の名前を聞いたことはない」

「昔と何か条件が違うのかもしれないですね」

 そうだね、と同意する自分の声が擦れていることに気付いた。

 条件という言葉に引っ掛かりを感じる。

 そもそも、亡者を呼ぶ条件は何だったろうか。

 はっとした顔で日置が呟く。

「亡者が降ってくるっていうことは、まだ生贄を捧げてる可能性がありますね」

「……そうなるかな」

 認めたくない現実に、弱弱しく返答するのが精一杯だった。

 カラン、と飲まれなくなったアイスコーヒーの中で氷が回った。

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