19

 朝比町に向かう列車は、相変わらず山の中を走っていた。

 少し揺れて不安定な座席の上で、日置は器用にブラシを動かしている。

「これはすごいですね、メイクのしがいがあります」

「そんなひどいかな?」

 自分の顔をさらさらとブラシが掃き、何かの液体を薄く塗り広げていく。

 気まずいような恥ずかしいような気持ちを紛らわせるために、臙脂えんじ色の座席のごわごわした起毛を撫でる。あまり彼女の顔をじろじろ見ないように、その背後の車窓に意識を集中させた。額縁の様なその四角形に、先週よりも濃くなった緑の残像が現れては消えていく。無理矢理窓側に顔を向けているため、そろそろ首が痛くなってきた。

「ファンデまでは必要ないですね。はい終わり。これで顔は大丈夫」

 ポーチに道具を仕舞いながら日置が告げる。

 渡された小さな手鏡で確認すると、顔の各所に付いた痣はすっかりと消えていた。下地に加えてリキッドタイプのコンシーラーで隠したらしいが、そう言われても何のことだかさっぱり分からない。パチン、と蝦蟇口のポーチを閉じて彼女はこちらに向き直った。

「駅で会った時は大火傷でもしたのかと思いました、包帯で顔巻いてる人なんて今時病院にしかいないですよ。その痣はどうしたんですか?」

「……信じられない話だけど、毎晩動物に齧られてる。もちろん現実じゃない、夢の中で身動き取れない状態で食べられてるんだ。それで起きるとこう」

 自分の顔に付いた痣を指差す。

「それって例の白い犬が?」

「いや、最初は鹿と、猫と、もじゃもじゃした奴だった」

「もじゃもじゃの奴……、ああ金縛りで目を開けられないんですね」

「うん。猫は火曜日に病院で見たし、鹿は蹄の形を調べて分かった」

「蹄?」

「現実の床にも蹄の跡が残っていて、V字型の蹄だった。調べたら偶蹄類っていうグループの蹄で、形が合致するのが鹿だったんだ。最初は馬だと思ったけど、奇蹄類だとU字型の蹄になるんだって」

「よく蹄の跡だけでそこまで調べましたね。……それよりも噛み跡の痣っていうのが怖いです」

「服の下にもたくさん付いてるよ。最初はその三匹だったんだけど、日ごとにどんどん増えていくし」

「……小春や田牧正吉氏の亡くなり方に似ている気がします。すみません、谷原さんが死ぬって言ってるんじゃないんです」

 日置はすぐに訂正したが、冗談になっていない。

 無抵抗な中でぴちゃぴちゃと自分の肉を啜られる恐怖。痛みは現実と紛うほど鮮明に感じるし、毎晩今日こそ死ぬのではと寝るのが苦痛となる。何より自分の一部が失われていく感覚というのは恐ろしいものだ。

 それに夜を超える毎に、動物達はその数を増している。

 昨晩は八匹は居ただろうか……。鹿や猫だけではなく、小型犬や大きな猪も居たかも知れない。

 それらが、野良犬がゴミ箱を漁るように身体を啄むのだ。

 思い出すだけで、不快感に頭を掻きむしりたくなる。

「あの動物も亡者と関わりある気がするな、何となくだけど」

「そうですね。というか目の下のくまも凄いから、ついでにここも補正しますね」

 最近碌に寝られていないせいだろう。

 試しにリビングのソファで寝てみたが、ダメだった。お構いなく彼らはやってきた。幸い昼間に何かを感じるということは無くなったが、理由は何となく分かる。

 以前は恐らく探していたのだろう。

 自らクリニックの扉を開けたことで『見つかってしまった』のだ。今更ながら、女医の指示に従ったことを後悔した。

 そこまで考えて、ふと疑問が湧き上がった。

 確かカフェであの犬にも見つかっていた、なのに何故探す必要があったのか。

 考え込んでいると、先ほどと同じく不自然な姿勢で顔を固定された。揺れる列車の中、スティック状の器具で目の下をなぞられる。動くと目に入りますよ、と脅され万力のような力で顎を掴まれる。キスを待つヒロインのような体勢に、恥ずかしくて顔から火が出そうだ。

 日置という女性のことが段々と分かってきた。

 必要だと思ったことは周りの目を気にせずやり通す。

 頼もしい反面、こういう困ったこともあるようだ。

「私は顔色が悪い方なので、赤みが強いコンシーラー使っているんです。痣隠しにちょうど良かった」

「この口紅みたいなのがコンシーラー? さっきの液体は?」

「あっちもこっちもコンシーラーです。あっ、耳にも痣が付いてますね」

「それは多分鹿がやったやつだ、きりがないからそのままでいいよ」

「こんな痣で生活は大丈夫だったんですか?」

「早朝出勤に深夜帰りで家族とは顔を合わせなかったし、会社では包帯ぐるぐる巻いてたよ。安川のフォローがなかったら完全にやばい奴だった」

「安川さん……、お父さんのお手伝いでしたっけ?」

「うん、今度の解散総選挙で忙しいらしくて、残念だけど来られなかった。ああ、『玲奈ちゃんによろしく言っといてください』って」

「相変わらずですね。……はいくま取り終わり」

「ありがとう、助かったよ。そういえばメイク用品ごめんね、他人の顔に触れたやつ気持ち悪いでしょ? これで新しいの買って」

 ごそごそと財布を漁って、一万円札を取り出す。

 メイク用品の相場が分からないがこれで足りるだろうか。

「どうせそろそろ買い替えだったからいいんです、この化粧品も谷原さんに差し上げます。家や会社でも痣を隠す必要ありますよね?」

「そうだけど、流石に……」

「これは必要経費です。ミイラ状態では神主さんに不審がられて聞ける話も聞けなくなるので」

「じゃあ買い取るってことで」

 かぶりを振って頑なに受け取ろうとしない。

 おじさん同士が居酒屋の会計時に似たような問答をするが、今は周りの目が気になる。列車の中で大っぴらにメイクされているだけでも変なのに、若い女性に現金を渡している場面はあらぬ疑いを招く。

 無理矢理お金を渡すと、日置は長い睫毛の下で不服そうな目をした。まあいいです、と彼女は駅のカフェで買ったフラペチーノを一口飲んだ。

 太いストローを咥えながら、スマートフォンを操作しているが、親指が信じられない速さで動いている。年不相応な落ち着きだが、こういうところは若者だなと感じた。

「父親からメッセージが来ました、最近多いんです」

「へー」

「最近何やってるか聞かれてて、ずっと濁してたんです。だけどあまりにしつこいんで軽く説明したら、言い合いになってしまって。『そんなものは存在しない』って」

「確かにいきなり説明しても難しいよね」

「そこは認めます。ただ自分で聞いておいて否定するというのが不快だったんです。それに、妙に私の心配をし始めたのも嫌でした」

 以前推察した通り、関わりの少なかった親子関係は今になって干渉と反抗の段階に達しているようだ。自分の家庭も同じ状況になる可能性を感じて、何だか他人事ではない気がした。

「こっちだって子供じゃないんだから、はいはい言うことを聞くわけないですよ。それに今更心配するなんて虫が良すぎです」

 怒っているのか、頬に赤みが差している。

 日置の言葉が呪詛のように自分の心に突き刺さった。

 一言一言が将来の沙耶から投げつけられている弾丸に感じる。

「これ以上父の愚痴を話してもしょうがないですよね、すみません」

「いいんだ。……肝に銘じておくよ」

「え?」

「いや何でもない」

「そういえば、資料館の別館に行った話してませんでしたよね?」

「別館? 田牧町長の住んでた方?」

「ええ、先週本館の後に念のため行ったんです。何てことない郷土博物館って感じで、昔の生活を紹介しているだけでした。これです」

 以前の喫茶店のように、スマートフォンで写真を見せてくれた。

 朝比町で実際に使われていた千歯こきや備中鍬、唐箕、唐棹といった江戸時代の農機具が並べられ、農民の格好をした人形がその横に立っている。次の写真も桶や箪笥など庶民の生活を紹介するものであった。

「一回り見たのですが、手掛かりは何も無くて。見落としがあると困るので、谷原さんにも確認してもらいたいんです」

 次々と画像を切り替えていくが、日置の言う通り目立ったものはない。だが一つだけ気になるものがあった。

「ちょっとこれを詳しく見せて」

 それは小さな神社だった。

 昔からの屋敷に有りがちな敷地内の小ぶりな社、朱色の鳥居の奥に祠がちんまりと鎮座する。古い家にはよくある自家を守るための神社だ、一般的には稲荷信仰などと結びついていることが多い。

「別館の敷地内にあった神社です。説明は何もなかったですし、少し荒れていました」

「引越しする際に忘れちゃったのかな」

 小ぶりな祠の屋根は苔むして、緑の点々が出来ている。

 狛犬の目も取れているのか、ぽっかりと眼窩が空いていて不気味な面相になっていた。

「何か変だな」

「確かに小さくても神社ですから、普通は新居に移築しますよね」

 移設しなかったことよりも、この狛犬自体が気にかかる。何か違和感を覚えるのだが、具体的に言い表せない。吸い込まれるように画面へと釘付けになっていたが、日置のスマートフォンだと思い出し慌てて返した。

 一週間前と同じアナウンスが流れる。終点、朝比町だ。

 薄ぼんやりとした不安と僅かな期待を胸に、降りる準備を始めた。

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