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 敷かれた布団の横で、端に寄せられたローテーブルを挟んで女性と相対する。

 薄暗い照明が妙になまめかしい。こんな状況でなければ、妙な気持ちになりそうなシチュエーションだが、女性は座椅子の肘置きをぎゅっと握って、不審そうな目でこちらを見ている。

「それで変なのってなんでしょうか」

 形が良い眉根を寄せて問いかけてくる。

 表情からは意志の強さが見て取れた。

 そもそも訳の分からないことを喚いている男を部屋に上げる時点で、普通の胆力ではない。

「いえ、さっきの雷に紛れて変なものが見えたので、部下に教えようと思い部屋を間違えてしまいました。本当に申し訳ない」

 怖い思いをさせた申し訳なさからの謝罪と、若干の言い訳を伝える。よく考えれば、安川は逆側の隣部屋であったことに今さらながらに気付いた。パニックに陥っていて、そんなことも分からなかったのだ。何が冷静な振る舞いだ。

『農水省の職員が、深夜の旅館で女性にしつこく付きまとう』こんな記事が出たら自分はおしまいだろう。部屋を間違えたのは事実なので誠心誠意謝る他ない。ただそんな記事が出回ったらと思うと、先ほどとは違う種類の恐怖が頭をもたげた。

「それはいいんです。何か変なものが見えたっておっしゃられていたので、私が知りたいのはそちらなんです」

「え、見えたのは、何か雷の中に人のようなものが見えて……、目があった気がしたんです。それで部下に声をかけに来て、部屋を間違えてしまいました」

 我ながら意味不明である。作り話にしても酷すぎる。

「いえ部屋を間違えたことはもう本当にいいんです。見たものの詳細と雰囲気というか、何を感じましたか」

 段々取り調べのような雰囲気になってきた。部屋を間違えたことではなく、何を見たのかを問い続けるのはなぜなのか。丁寧な口調で話す女性が怖くなってきた。

 自分の怯えが顔に出ていたのか、女性はふっと表情を緩める。切れ長の目尻が下がり、冷涼な顔立ちに少しながら優しさが宿った。

「ごめんなさい。私よく怖いって言われるんです。子供なんかにも懐かれなくて、一応こういう仕事をしているものでして」

 カバンをゴソゴソと漁る。差し出された黒い手帳には、女性の顔写真と金色でPOLICEと彫られた記章が付いている。

 警察手帳だ。

 血の気がさぁーと引き、目まぐるしく思考が回る。

 この手帳を出すということは、お前を牢屋にぶち込むという宣言だろうか。沙耶に何て言えばいい、職場にはどうやって説明する、一瞬でいくつもの考えが脳裏を駆け巡る。

 酸欠の金魚のように口をぱくつかせると、「ああ、そういう意味じゃないんです。身元を明らかにしたかっただけで」と女性が慌てる。

 あまりに衝撃が大きすぎて、一周回って冷静になってきた。そもそも部屋を間違えることは、集合住宅なんかでもよくあることだ。それに今回は話を聞きたいと女性から招き入れたのだ。何もやましいことはない。

「身元は分かりました。谷原と申します。部屋に名刺があるので、後でお渡しします」

「驚かせてすみません、この通り日置といいます」

 日置ひおき玲奈れな、警察手帳にはそう印字してある。

 セミロングで切り揃えられた艶のある黒髪と顎の黒子ほくろが印象的で、きりっとした顔写真は真っ直ぐカメラを見つめている。射すくめられるような目力があり、気軽に声はかけにくいタイプだ。

 傍から見たら不思議な状況で自己紹介を終えると、日置は本題に戻った。

「先ほど言っていた雷の中のモノについてですが、それを見た時どんな風に感じましたか」

「……あれを見た時は、何故か死を感じました。自分自身が死ぬとかではなくて、あれ自身が死なんだって。すみません、何を言っているんだかっている感じですが、そんな印象でした」

 自分が死ぬということよりも、死が近くにいるという方が何倍も恐ろしい。死んだらそれで終わりだが、あれに捕まったら永遠に終わらないような気がする。

「ああやっぱり同じですね、私もそう思いました」

「えっ日置さんもさっきの雷を見たんですか!?」

 思わず立ち上がりそうになる。

 浴衣姿の婦警は、あっ、という顔をして訂正する。

「すみません、雷ではないんです。この前亡くなった被害者の方から同じような匂いというか、変な雰囲気を感じたんです。ちょっと気になったので、こういう話には敏感になっていまして」

「はあ、それで話を聞くつもりになったんですか」

「谷原さんも、部下の方へ確認しに行くって、よっぽど衝撃を受けたんじゃないですか? 私も同じですごく死を近くに感じたんです。変ですよね、仕事柄亡くなった方は何人も見たことがあるのに、あれを感じたのはあの子の時だけでした」

 どういうことだろうか。

 亡くなった人から死を感じるのは当然な気がするし、あれに何の関係があるのか。疑問を持たれていると感じたのか、日置は自信なさげに続ける。

「その現場を見てから、何か縁が繋がったというか。あれを追いかけていくうちに、ここまで辿り着いたんです。だからドア越しに谷原さんが『変なものがいる』って言った時に、もしかしてと思ったんです」

 正直それだけで部屋に入れる、というのは普通ではない。だが、この恐ろしい体験を共有できる人間がいるという事実に、少しほっとした気持ちもあった。

「その上でお聞きしたいんですけど、この朝比町で他に何か変わったことはありましたか」

 そう問われて、昼間にあったことを一つずつ思い出した。

 中でも印象深かった田牧の話を伝える。

「地元の歴史に詳しい方から聞いたんですが、朝比町は土地が痩せていたせいで、余所から豊穣を司る神様を持ってきたそうなんです。言い伝えによると、ここの雷にはその神様が乗って降ってくるって……」

 自分で話していてぞっとした。

 あれは神などではない、百歩譲っても邪神の類だ。

 そしてその神は降ってきた後どうするのだったろうか。

「その雷が落ちた場所に御幣を刺すんじゃないですか? 私昼間に刺さってる田を見たんですが、とても嫌な感じがしました」

 日置の言葉であの感覚を思い出す。

 役場に行く車から見えた、田に突き刺さった御幣。あの湿った土臭い匂いが漂ってきそうなどんよりとした感覚。あれは死の臭いだ。正確には御幣ではなく、地面の下から感じていたのだ。つまり御幣自体は封じるための枷で、蓋をするため刺さっていたということ。

 あともう一つ何か恐ろしいことを見落としている気がする。田牧との会話を脳内で再生していく、飲み会では色々話したが、アサヒカリのことしか覚えていない。

 ……アサヒカリ?

「そうだ!」

 しばらく黙った後に大声を出したため、日置の肩がびくりと跳ねる。

 思い出した、思い出してしまった。

「アサヒカリだ、今日食べたアサヒカリ……。あれは、雷が落ちた周辺の田でしか獲れないんだ」

 味の良いアサヒカリは雷が落ちた近辺の田でしか獲れない、という田牧の言葉。

 その言葉の意味を想像し、胃から何かがせり上がってくるのを感じた

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