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 飲み会がお開きになった後、タクシーでホテルへと向かった。

 最初は駅前のビジネスホテルにしようと思ったが、安川と話して山の近くの旅館に泊まることにした。

 田舎に来たのだから、せめて観光気分くらいは味わいたい。

「こっちの方がビジホより風情ありますね」

「規定の宿泊費は完全に超えそうだな」

 宿選びは部下に任せたのだが、思ったよりも豪勢な宿に腰が引ける。

 低い天井にふかふかの緋毛氈、伽羅のお香が薫るロビーは風情がある。明らかに高級旅館の装いだ。

「何で田舎にこんなすごい旅館があるんだ?」

 受付の人に聞こえないようにこっそりと安川に聞く

「定年後の高齢者狙いらしいですよ、例の登山とかハイキングの」

 確かにもう一組ロビーで待っているのはトレッキングウェアの老夫婦である。

 黒檀で出来たカウンターにて受付を済ませると、チェックアウト後の支払いが恐ろしくなってきた。

 着物の従業員に案内され、安川と隣同士の部屋に入ると、青々しい畳の香りが鼻腔に広がる。和室には既に布団が敷かれていたので、窓際の広縁にある机へ荷物を置いて、ぐっと伸びをした。

 後で大浴場に行きましょう、と安川が言っていたが、部屋の外に出るのがもうめんどくさい。何より報告書を書かなければならないので、安川には悪いが部屋のシャワーを浴びるだけで済ませよう。こうしている間にも日常業務は溜まっており、ここか帰りの電車で報告書を仕上げなければ、残業時間が延びることとなる。

 妻が亡くなって以来、母が暮らす郊外の実家で一緒に住んでいる。

 もちろん将来の介護も見据えているが、一番は娘の沙耶の面倒を見てもらうためだ。仕事柄定時で帰宅することが難しいので、早期退職した母のサポートは非常に助かっていた。ただ一から十まで全てお願いするわけにはいかないし、何より自分が娘に会いたいので、なるべく早く帰宅したいといつも思っている。

 その点、今日の監査は結果が決まっているので報告書が楽でいい。

 結果が決まっている、という言葉を心の中で反芻する。

 朝比町と農水省の上が繋がっているかどうかは分からない。ただ上司が決定済みと言ったものに、あえて否認をするつもりはない。

 有り難いことにアサヒカリは何も問題がないので、無理のない報告書が書ける。もし全然ダメな代物だったらどうしていただろうか、上に逆らってまで不合格にする勇気はあったか。沙耶のことを考え、苦悩しながら合格にする自分が思い浮かんだ。本当にアサヒカリが優秀な作物で良かった。

 そんなことを考えながら報告書を作っていると、ふと外の様子が気になった。

 ディスプレイの右下に表示されている時刻は、まもなく零時になろうとしている。広縁で作業をしていたため、すぐ隣の窓から外を見たが、深い闇が佇んでいるだけだった。

 何かが変だ。いくら暗くても星の一つや二つは見えるはず、新月でもないのに月も姿を消している。

 旅館の見取り図を思い出し、自分が覗いている方角に麻生山があると気付いた。窓横には注意書きで「雷に注意」とある。田牧の言葉を思い出す、これは雲だ、黒く重い霞が空を覆っているのだ。

 一筋の光さえなくひたすらに暗い。

 音すらも吸い込んでいきそうな闇に不安を感じた。

 人間の持っている根源的な恐怖を掻き立てられる、見えないというのはこんなに心細いものなのか。

 突如、昼間になった。

 否、閃光が目の前全てに広がったのだ。目が眩む隙も与えずに、ひたすらに視界が白くなる。一瞬が十秒にも二十秒にも感じる。あ、と思った瞬間に、光の中を黒い粒が落ちてくるのが見えた。次第に形を変え人型だと認識した時には、もう遅かった。

 黒く皺だらけの全身。

 手足は細長く、肋骨あばらぼねが浮いている。

 漆黒よりくらく、落ち窪んだ眼窩。

 鼻はなくただ筋が入っているだけ。

 大きく耳まで裂けた口を見た時に気付いた。

 ……それは笑っている。

 流れ星のように山陰やまかげに見切れた時、永遠にも感じた時間は終わった。

 あれは死者だ、そう思った。

 あらゆるおぞましさをかき集めて人型に捏ねたら、ああいうモノになるかもしれない。忌むべきもの、穢れた存在、触れてはならない禁忌、表現は色々あるが一言でまとめると『死』であろう。

 遅れて地響きが轟く、ドドドという振動で窓枠が軋む。その時初めて、先ほどの閃光が雷であったことに気付いた。

 唐突に光量が変わったため、目の奥がチカチカと瞬く。闇はいつしか消え去り、窓の外には澄んだ空気を通して星が煌めいている。百聞は一見に如かずというが、本当にその通りで、朝比の雷は聞くよりも凄まじい体験であった。

 ふと我に帰ると、手が震えてる。

 あれはなんだったんだ。あんなものが降ってくるなんて聞いていない。

 そもそも雷について何て言われただろう、目が悪くなるから直接見るな、だったか。悪くなるというより、目が腐ると言った方が良い。違うそこじゃない、言い伝えでは雷を見るなと言われていた、昔の朝比の人達は分かっていたのだ、自分はその禁忌タブーを犯してしまった。 

 立ち上がりぐるぐると部屋を回る。頭が混乱していた。

 何度も先ほどの光景を脳内で再現する。

 こっちを見ていなかっただろうか。ないはずの目と視線が合っていた気がする。

 あの邪悪な笑みは、自分に向けたものなのか。あれに見つかったかと思うと、この場から逃げ出したい衝動に駆られる。消えていった山陰から、今この瞬間も旅館に向かってきているのではないだろうか。

 落ちた場所はどこだ。奥に山頂を覗かせていたのが麻生山だとすると、手前の山の向こう側、つまり麻生山の麓に落ちたこととなる。間違いなく例の棚田がある場所だ。おかしい。なぜ見えたんだ? 何キロも先の米粒くらいの影なのに、表情まではっきりと覚えている。

 もうだめだ。一瞬たりともここにはいられない。荷物をまとめて出よう、タクシー代がいくらかかってもいいから家に帰りたい。だが流石に安川を置いて帰るわけにはいかない。

 我ながら俊敏な動作で部屋を出ると、隣の安川の部屋のドアをドンドンと叩く。

「安川、さっきの雷見たか。何か、何か変なのがいたぞ」

 子供のような台詞は百も承知で、ドア越しに声をかける。不安が膨らみ、一刻も早く誰かとこの感情を共有したかった。

 だが応答はない、大浴場に行ってしまったのだろうか。そうなると雷は見ていないはずなので、説明が大変になる。気ばかりが焦り、いないと分かっていても戸を叩くが、相変わらず反応がない。

 このまま呼び続けて他の客や従業員に見つかっても面倒になる。入省して十数年、自分なりに修羅場はくぐってきたつもりだ。こういう危機に陥った時こそ冷静に振る舞わなければならない、頭では分かっている。

 一旦切り替えよう。ふぅと深呼吸をする。やるべきことは荷物の整理だ。それから安川を見つけに行き、タクシーを呼んでフロントで精算をする。不審がられても問題ない、どうせこの土地にはもう一生来ることはないのだ。

 動き出そうとした瞬間、ガチャリと扉が開いた。

 中からは、若い女性が怯えた顔を覗かせていた。

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