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特急列車の車窓は、一面が新緑で満ちていた。
朝露を光らせる草木が、列車の速度に合わせ次々に現れては消えていく。
昨日も遅くまで庁舎にいたため充分な睡眠が取れていない。霞む目を擦りながら、資料作りのためにノートパソコンを開いたが、だらだらとニュースを流し読みしてしまう。
『行方不明から半年、失踪した女性の夫は語る』
ハイキングが趣味の女性が突然行方不明になってから半年、当時は夫が疑われて、世間の耳目を集めた。朝起きたら妻がいなくなっていた、という証言が疑問視されていたが、証拠不十分で逮捕まで至らなかったと思う。
この見出しにそこまでの興味はない。
『また水難事故、子供が亡くなる』
最近都内では水の事故が多い。
子を持つ親としては、とても他人事ではいられない。
記事をクリックして詳細を読む。
『足立区在住の菅田小春ちゃん(十歳)が心肺停止の状態で発見されその後死亡が確認されました。現場は荒川下流域で、目だった外傷はなく溺死の可能性が高いとのこと。警察は事件事故の両面から捜査を続ける模様です』
沙耶と同い年じゃないか、娘のことを思いぞっとした。
被害者の女の子を、自分の娘と重ねて見てしまう。
ふと目を離した隙に、ぷかりと背中だけが水に浮かぶ我が子を想像するだけで、手に汗が滲む。
パソコンの画面を睨んでいると、ふいに横から声を掛けられた。
「朝からニュースチェックなんて、
「何だ、寝てたんじゃないのか」
部下の
平日の朝早くということもあり、車両はガラガラ。当然後ろも空席なので、安川は遠慮なく伸びをする。ぴったりとしたスーツの脇や背中が伸び、ギイッと座席が軋む音を立てた。
「その女の子、沙耶ちゃんと同じくらいでしたっけ?」
「そうだ、可哀想にな」
「何か変ですよね、小学校高学年の子が溺れるなんて。そういう事故ってもっと小さい子じゃないですか」
「子供は子供だからな、いくつになっても危ない。うちの娘を見てればわかる」
「うわ、思春期にうざがられるやつだこれ」
けけけ、と笑う。
普通であれば腹が立つところだが、へらへらした笑みを見ると怒る気がなくなる。安川も分かっていて、飼い犬がじゃれてくるような、そんな態度をとっているのだ。
今風のくしゃくしゃした髪型に、頭一つ高い長身。
年齢は一回りも下だが、物怖じせずに話をするし、何よりも愛嬌がある。他にも、とある理由で上長達に目をかけられており、将来有望な若手の一人だ。
「思春期か、それまでに顔を忘れられそうで怖いよ」
「毎日遅いですもんね、おまけに今日は泊りがけだし」
「今回の『特地農』の件、どう思う?」
「……どう見ても黒ですよね」
「だよなあ」
特定地域農産物――来年度に始動する農林水産省の新企画。
食味や生産性、耐病性などの各項目で、優れた特徴を持つ農産物が選ばれ、生産地域には補助金が出る。それだけではなく、農水省公認ということで食品メーカーに売り込みやすくなるのだ。
この制度が始まる第一号として登場すれば、メディアの注目も確約されている。絶好の地域おこしとなることは間違いないだろう。
そして、これから全国の対象農産品を見て回り一番手を決めるはずなのだが、おかしなことにすでに決定済みなのだ。
「出張は
「うん、一応上司だからな」
先週、農水省本館の会議室に呼び出されたことを思い出す。
上司の柿崎は、ふうふうと汗をかき小太りな体を揺らしながら、「例の特地農の件、朝比町の米にすることに決まったから、来週あたり下見に行ってくれ」と命令を下した。
官僚としての感覚器官が、きな臭い匂いを感じ取った。
朝比町とうちの上層部に何らかのやり取りがあったに違いない。
「部長の上、局長かな。いやもっと上かも知れん」
「もしかしたら、僕の関係かもしれないです」
憂鬱そうに安川が呟く。
「いやいや、別にいいんだよ。結局楽な出張になるってことだし」
自分の不用意な一言に、慌ててフォローを入れる。
それに実際楽なことに変わりはない、結論が決まっているものに細かい監査は必要ないのだ。自分にできることは唯一つ、合格の判を押すことだけだ。今回の出張は恐らく形だけのものとなる。
窓の外を見ると、相変わらず若葉を茂らせる木々しか映っていなかった。朝日に照らされた自分の顔は、スクリーンみたいに忙しく緑が点滅していることだろう。
副都心の始発駅を出てから、はや二時間。
灰色の住宅街が黒々した田畑に移り変わり、今は一面の緑が映える山の中。既に何本もトンネルを通ってきているので相当な山奥のはずだ。耳の中がぎゅっと圧迫される感覚から、標高が高くなっていることが分かる。
出張ではなく観光で来られたら良いな、と思った。
娘と二人で他愛もない話をしながら特急に揺られる。学校や友達の話を聞きながら、駅弁なんかを食べたりして。
沙耶は十歳。安川に言われた思春期まで逆算すると、そう時間はない。
二人きりの旅行なんて、今年か来年が限度だろう。
それを逃したら恐らく老後かもしれない、それでも嬉しいが意味合いが全く変わってくる。
次は終点というアナウンスが聞こえてきた。
車両入口の電光掲示板にも、同じ内容の赤い文字が右から左に流れる。愛娘との観光旅行という脳内の楽園から、現実へと一気に引き戻されていく。
今日何度目か分からない溜息をつきながら、安川と共に列車を降りる支度を始めた。
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