神鳴り

岩口遼

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 十畳ほどの座敷に私は座っていた。

 ちり一つ落ちていない畳に、薄く模様の入った高級な障子。

 床の間で焚かれているお香は、とろんと甘い香りを放っていた。

 夜なのだろう。部屋の隅にはしょくだいが置かれ、こうこうと明かりが灯っている。

 そして、何より凄いのは、松の描かれた立派なふすま

 全面に金箔が貼られ、幹をくねらせた大きな松が葉を茂らせている。美術品に詳しいわけではないが、国宝と言われたら素直に納得する。

 これは夢だ、そう思った。

 そう言えば昨日も同じ様な夢を見た気がする。

 眉根を寄せて思い出そうとするが、頭が働かない。

 原因は恐らくこの部屋だ。

 何だかとても居心地が良い。頭が甘く痺れたようにぼんやりとしている。

 美酒に浸かったような酩酊感で、満足気に部屋中を見回す。

 あれ? と少し間抜けな声が出た。

 先ほど見た松の襖が少し開いている。

 襖を横断するように描かれた立派な松は、真ん中で断たれていた。

 何故だろう、閉まっていたはずなのに。

 そろそろと近寄ると、隙間から次の間が見えた。

 同じような部屋に、同じような灯り、そして同じような襖。

 ただ描かれている絵が違った。

 岩に打ち付ける白波。

 渦を巻く水流や白く泡立つ動きが、浮世絵のように大胆に描かれている。

 思わず溜息が漏れ出た。

 部屋に入ると、四面全てが白波の襖絵。

 岸壁に打ち寄せる轟音が今にも聞こえてきそうな怒涛の迫力。

 陶酔するような気分で、部屋の真ん中にへたり込む。

 穴が開くほど襖絵を見続けていると、ふと疑問が頭をもたげた。

 この奥も同じような部屋が続いているのだろうか。

 正面の襖ににじり寄り、膝立ちのまま白波の襖をほんの少し開けた。

 次は、二羽のさぎだった。

 足が長くすらっとしている白鷺達が、あしの生える川岸を歩いている。

 一羽は小魚を探しているのか首を屈めており、もう一羽は空を見上げて飛び立つ準備をしていた。

 襖を大きく開け放ち、鷺に見入っていた。

 銀の糸で縫われている鷺の優美さと対比するように水辺が淡く描写されており、思わず感嘆の声が漏れる。

 こちらも四面全てが鳥の絵で、飛び立つ羽音までが聞こえてきそうだ。

 本当に素晴らしい。

 この先にも、もっと凄い作品があるに違いない。

 うっとりと部屋を見渡して、妙なことに気付く。

 

 だが実際この部屋は閉め切られており、計八匹の青鷺が私を迎え入れていた。

 何か変だ。

 そういえば、私はどの襖から入ってきたのだ?

 その時、ふと甘い香りが鼻に届いた。

 この匂いは最初の部屋で焚かれていたお香だ。

 急に思考が纏まらなくなる。

 まあ良いか、素晴らしいものを見させてもらっているのだから。

 導かれるように、香りが強くなる奥へと足を進めた。

 次の部屋の襖絵は、虎と龍が対峙しているものだった。

 黒雲を纏った龍に対して、竹林の巨岩に乗った虎が吠えている。

 迫力があるのに繊細で、龍の不敵な表情や雲の表現、虎の挑むような咆哮や竹林の静謐さ、全てが巧緻に描かれていた。

 ああ、これもすごい。

 どうしたらこんな作品を生み出せるのだろう。

 虎の勇ましさと龍の傲岸さが伝わってくる、絢爛な金箔と竹の緑のコントラストも見事だ。

 もしかしたらここは作者の屋敷なのか、このまま進み続ければ描いた張本人に会えるのか。

 胸が期待で溢れた。

 ——いや違う。

 今更ながらこの屋敷の異常さに気付いた。

 私は奥にいざなわれている。

 背中に冷たいものを突っ込まれたような悪寒がした。

 こわい。

 震えそうになる体を自分で抱きしめた。

 異常なことに巻き込まれている、この奥に行ってはいけないのだ。

 早くこの夢から醒めたいがどうしたら良いのか。

 また甘い香りが漂ってきた。

 頭が陶然として、足が海月くらげのようにふわふわとする。

 とろんと甘く爽やかな酸味を持つ、まるで桃のような香り。

 恐怖や不安といった感情が、うんさんしていくのが分かった。

 そう言えば、私は誰なのだろう。

 どんな名前で、どんな生活をしているのか、何も思い出せない。

 まあいいか。

 それよりも次の部屋だ。

 絵のことを考えただけで心が湧き立つ。

 すっ、と滑りの良い襖を開き、次の間に足を進める。

 老人が釣り糸を垂れている襖絵。

 穏やかな日差しの中で、余暇を楽しむ老人の姿。

 その親しげな笑みと長い髭、ゆっくりとした渓谷の風景が気持ちを和ませる。

 具合はどうですか? 何か釣れていますか? 声をかけたくなる。

 一瞬、老人の目がこちらを向いた気がした。

 ぞわっと二の腕に鳥肌が立つ。

 まただ、また正気を失っていた。

 慌てて瞬きをすると、彼は元通り自分の竿先を見ている。

 ただその笑みが一転して、邪悪なものに感じられた。

 早く釣れないかな、今度の獲物は中々勘が鋭いな、そんな風に思っているに違いない。

 恐ろしさで泣きたくなった、彼は私を釣りあげようとしているのだ。

 だがそんな恐怖とは別に、身体が勝手に動き出す。

 一歩、二歩、前に進み襖に手をかけた。

 嫌だ、これ以上奥に進みたくない。

 抵抗虚しく、操り人形の様なふらふらとした動作で老人の襖を開ける。

 次は異常だった。

 いや屋敷が真の姿を現したのだろう。

 襖絵には、ぼろぼろの農家が描かれていた。

 庭先では、餓鬼の様にお腹が膨れた子供が遊んでいる。

 父親と思われる男性は何かを煮ており、母親はぐったりと家の柱に寄りかかっている。

 両親は骨と皮しかない、痩せているのだ。

 そして水墨画の様に色が無い。

 白い襖に薄墨のみで描かれ、急にモノクロの世界となっていた。

 子供がこちらに気付いて、手を振った。

 見間違いではない、絵が動いている。

 足が小鹿の様に震えるのが分かった。

 遅れて両親が顔を上げた時、何かが煮える匂いが漂ってきた。

 何とも言えない悪臭、まるで処理をしていない肉をそのまま煮ているような。

 にんまりと父親が笑う。

 がりがりに痩せているため凄惨な笑みだ。

 棒切れの様な腕を挙げて、手招きをしている。

 それに連られて、また足が動き出した。

 ゆっくり畳を歩くと、匂いが強くなる。

 また襖絵も徐々に細部まで見えてきた。

 庭の隅にはからすがたかっている。

 その隙間から、ちらりと白い骨の様なものが見えた。

 気だるげな母親とも目が合う。

 全てがどうでも良い、という厭世的なその眼差しから起きたことを察した。

 恐ろしい、あまりにも。

 怖さと同時に切なくなった。

 しかし私の気持ちはどうでもいいとばかりに、体は一定の速度で進み続ける。

 襖に手をかけて一気に開いた。

 この次で最後だ、何故かは分からないがそう思った。

 とん、と板張りの床に降り立つ。

 ここはもう畳ではない。

 最後の間は質素な作りだった。

 目の前いっぱいに『雷』の襖絵が広がる。

 もうもうと湧く黒雲から、幾筋もの落雷が見て取れる。

 巧みな筆使いで描かれた雷は、思わず息を吞む雄大さであった。

 空気を切り裂き、地表に落ちる稲妻。

 ただそれだけの自然現象なのに、身が震えるほどの感動を覚えた。

「神」を感じるのだ。

 もう体は自由だった。

 だが歩みは止まらない。

 分かってしまった。

 神を感じるのは襖絵からではない。

 いるのだ。

 この奥に。

 行かなければ。

 私は襖に手をかけて、一気に開いた。

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