第二章 北の国の章:前編7

 グロリアはマーセントリウスの所へ帰ってきた。

 マーセントリウスは少し性格が穏やかになったように見えた。よく一緒にいる側近と話している姿も、最近真面目な話ばかりしているようで、以前より大人びて見える。以前のようにめちゃくちゃなところは無くなったように感じる。だから彼女も帰る気になったのだけれど。

 しかし、ここのところ彼は度々ゼドルズの城へ行くようになり、少し疲れているように見えるのが、彼女には気がかりだった。

 アローゼルフィルダはあまり訪ねて来なくなったし、マーセントリウスもあまりグロリアにかまけている時間が無いようだった。


 マーセントリウスがまた出掛けてしまったので、館の外へ出てみたが、最近はここへ来る人も少なくなった。マーセントリウスが仲間たちとフットボールをしたり剣術の稽古をしたり、犬と転げ回ったりしていた広場は最近いつも空っぽだ。

 また中に戻ろうとしたところ、誰かが訪ねてきた。見るとトルタートだった。彼は彼女を見ると驚いた様子で、急いで近寄ってきた。

「お久しぶりですね。あなたは、ずっとここへいらっしゃるのですか?」

 ええ、と言いながらグロリアは、彼の言わんとしていることがよくわからなかった。

「今日はマーセントリウス様にお届けする物が有ったんですが、お留守ですか。いつ頃戻られますか」

「もう帰る頃だと思う」

「では待たせて頂きます。急いでおりますので。あなたとまたゆっくりお会いしたいです」

 そう言って行ってしまおうとするので、グロリアはそれを止めた。

「何か有ったの?」

彼は少し驚いていた。

「ああ、あなたはやはりご存知ないんですね。実は、西側が。王が動き始めています。東側の王兄派の中にも不審な動きが有りまして…女の方に知らせるような話ではありませんが、あなたにも危険が及ぶかもしれませんから…くれぐれもお気を付けて。館から出ない方がいいかもしれません」

 そういった話をして、彼は行ってしまった。

 その晩マーセントリウスが彼女の部屋を訪ねてきた。明らかにその顔には苦悩が見えた。

「父に催促されている。おまえを返してグラゼリアを娶れと。どうすればいいと思う」

 彼はそう言う。グロリアはそんなことを聞かれるとは思っていなくて不思議に思い首を傾げる。

「一時ここを離れて身を隠そうかと思うが、危険な状態にあるおまえを置いてはいけない。しかし目立たないように連れて行くにはおまえが大変な思いをする」

「彼女と結婚すればいいんじゃないの?」

 グロリアは相談なのかと思って、まごつきながら言う。彼はその返事に驚いたようだった。

「冗談じゃない。それは嫌だ。……いや、うまい手ではないから。それはあいつらにだな。好き勝手されて逆らえなくなるということだ」

「そう、なら、逃げていいと思う」

「わかった。でも、メルセグランデに捕まったら無理矢理誓約書にサインさせられる」

「捕まったら仕方ないわ。なんとかなるんじゃないの」

 彼はいらついたように沈黙し、また口を開いた。

「おまえはやっぱり嫌か?」

「何が?」

「俺と結婚すること」

「嫌」

「おまえは俺があの女と無理矢理結婚させられても構わないというのか」

「あなたは可哀想だけど、私は関係ないでしょ、私が邪魔だからって殺されるだけかもしれないし、絶対嫌」

 そう言ってから焦って、

「あ、でも、一旦グラゼリアと結婚して、後で結婚の無効を主張してみるとか? むかし村で……」

 マーセントリウスが傷ついたかと思って、親身になって考えようとしたのだが、彼が遮る。

「そうではなくて……」

 そう言って彼はまた黙ってしまった。

「……だって、私と結婚しても、メルセグランデの力でこの結婚だって無効にされるんじゃないの? 異議あり、って言われて、そういう風に別れさせられた人を知ってるもの」

 グロリアはじっと床を見た。彼の言おうとしていることはわかるような気がするが。しかし、彼女は顔を上げようとはしなかった。

 マーセントリウスがメルセグランデの娘と結婚してしまったら、別れるのは難しいだろうと彼は思った。抜け道を全部塞いでくるに違いないし、彼に考えられる最も乱暴だが確実な手段は殺人だが、そうなると今度はメルセグランデ相手だからこそ殺人罪は免れない。

 こういう時に参謀がいないのが彼の弱味だった。頭のいい使える奴が、過去に馬鹿馬鹿しい復讐劇で殺されてしまって以来、いい仲間はいてもいい参謀はいなかった。だから馬鹿な集団は駄目なのだ。

 やがて、わかった、と彼は言った。

「それなら私は行く」

どこへ、と呟くと、

「とりあえず逃げたいところだが、留守の間おまえを守れない。おまえを危険に晒したくない。だからおまえの命と引き替えにメルセグランデに投降する」

「今から?」

「そうだ」

「そうしたらどうなるの?」

「わからん。後のことはそれから考える」

 マーセントリウスはさっさと出ていこうとし、扉の所で振り返って、そして驚いた。

「なんて馬鹿なの」

 そう言って彼女が、泣いていたのだった。言うことは酷いが、それは愛の言葉でもあるに違いなかった。まるで彼女が素直に人のために泣くのを初めて見たような気がした。彼はしばらく突っ立っていたが、何歩か彼女に近づき、そして我に返ってまた扉の方へ戻って行き、ひとこと、屈したりしないしおまえも助ける、まずは作戦参謀探しだなと言った。


***

 グロリアには人を愛するということがよくわからなかった。ただ、マーセントリウスを見ていると何となく、自分でたかをくくっていた程単純なものではないような気がした。グロリアはマーセントリウスを苦しめたくなかった。彼が苦しんでいるから、彼が何を選んでも気持ちよく送り出してやれば良かったのに、最適な答えなど見つけることができなかった。自分さえいなければ、と思ってみたりもする。自分のために彼が何かしら苦しい立場に置かれているのはわかった。それがつらかった。

 一方で、マーセントリウスに見捨てられるのが恐くもある。一体どうすればいいのかわからない。それを知っているからこそ彼はあんなに迷っているのかもしれない。


 もう冬だった。季節は驚くほど早く過ぎていく。グロリアは部屋から出ることを禁止され、外で何が起こっているのか全くわからない。探ってきてくれる協力者を作るような器量も無い。これまで平穏だった日々が夢だったような気がする。マーセントリウスにも会えず、何もわからず、焦りがつのった。


 ある日何気なく窓の外に目をやり、そしてどきりとした。慌てて窓から離れ、そしてまたそっと外を窺った。

 少し離れた所に、紛れもない、いつかの兜と鎖帷子の男がいたのだ。マーセントリウスの敷地内だというのに。それを確認すると、彼女はそっと窓から離れた。

 彼女は、その男に対して恐れを感じている自分に気付き、そしてそれを打ち消そうとした。

 間違いなく、あの男はグロリアを狙って来ていると、彼女は思った。マーセントリウスに会いたくても、彼は出掛けたまま帰ってこない。昨日もいなかったはずだ。こんな時に何か有ったらと思うと、彼女は恐ろしかった。また先程の場所を見ると、もう誰もいなかった。


 次の日、突然アローゼルフィルダがグロリアを訪ねて来た。雰囲気はいつもと変わらない。

「公爵が、あんたをさらっていって人質に取るかもしれない」

「内戦が起こるの?」

「多分ね」

彼女はさらりと言う。

「ところで、マーセントリウス様が最近おかしいのよ。何か隠し事をしているみたいだわ。あなたも知らない?」

 グロリアは知らないと言った。知らないも何も、最近彼に会っていなかった。

「まあいいわ。気を付けてね。……と言っても、気を付けろとあんたに言ったって気を付けようがないものね。警備を増やしてあるわ。外に出ないでね」

「以前ハザラントに私を捜しに来た怖そうな兜の男がいたわ」

「え? そうなの? 敷地内へ?」

 アローゼルフィルダは少し驚いたようで、何か考え込んでいた。

「大きい戦士。騎士なのかしら。一人だった」

 へえ? と彼女はあいまいな返事をした。

「あなたは東トゥルンザーベルク側の人間じゃないの? どうして私を庇ってくれるの?」

 グロリアが聞くと、彼女は首を横に振った。私はどこへも仕えてないわ、と彼女は言う。

「じゃあ、王の手下の人?」

「まさか」

 何言ってんのといった顔で彼女は笑う。

「馬鹿ね。そんな人間がこんな所に出入りできるもんですか」

 でも、とグロリアが更に言おうとするのを、彼女は遮った。

「とにかく、私はあんたを守ることにしたのよ。ゼドルズ公はマーセントリウス様のように甘くないわ。人質にされて生きて戻れるかどうか。公爵と王との交渉が上手くいってないみたい。多分マーセントリウス様、あなたをもう一度どこかへ逃がそうとしているのよ。誰の手も及ばない所へ。その方がいいかもしれないわ」

 彼女は美しい黒髪をかきあげて、物思いにふけっていた。長いまつげ。その美しい横顔にどきりとする。見ていて、とても不思議になってきた。

「あなたどうしてそんなに私の事を心配してくれるの。何か知ってるの? あなたは誰?」

 グロリアは彼女のアローゼルフィルダという名前しか知らなかった。それさえも本名なのかどうかわからない。彼女はグロリアに向き直って困ったように笑った。また笑ってごまかそうとする。彼女が誰だってグロリアは構わなかったのだけれど。彼女のいたずらっぽい目つきを見ていて、グロリアは、彼女が好きだと思った。それだけでもう十分今必要なだけ彼女を知っているような気がした。今必要な分だけ……。

「ガラード家の、アローゼルフィルダ」

 彼女は言った。

「あんたはどうせ知らないでしょうよ。王家のグロリア・レーテルアル・ナルアニーエ姫」

 グロリアはどきりとする。ガラード家というのは知らない。だが、何か重く暗い響きを持っていた。彼女の背後に、一瞬黄金の砂漠が見えた。グロリアの頭の中にひとつのイメージが形を結んだ。その中で気高く現在を見据える美しい乙女。それがアローゼルフィルダだった。

 しばらく黙って見つめていたが、それは、とグロリアが言いかけると、アローゼルフィルダは含み笑いをしながら、何か口に出しそうな様子でしばらく黙っていた。


***

 ふいにドアがノックされた。入ってきたのはマーセントリウスだった。

 彼はアローゼルフィルダを見ると、来ていたのか、と言い、一言二言彼女と言葉を交わしてから、グロリアの方に向き直った。その間にアローゼルフィルダは行ってしまった。

「彼女と何を話していた?」

 マーセントリウスは言った。どうやら疲れている様子で、憎まれ口をきく気力も無いようだった。一瞬何と答えようかと迷ったが、返事は必要無さそうだったので何も言わなかった。それにしても久しぶりである。

 彼女は彼を座らせようと立ち上がった。だがこの時、まだ彼女はアローゼルフィルダのことが気になって、少々上の空だった。するとその隙を突かれ、彼は多分隙を突こうとかそういうことは考えていなかったと思うが、彼女の肩に、マーセントリウスの腕が巻き付き、そして彼がそのまま体重をかけるので、グロリアは二、三歩さがり、再び寝台の上に座り込んでしまった。彼の腕は彼女に巻き付いたままである。二人で同じところに座りたくないから立ち上がったのに。グロリアは戸惑ってしまった。

 マーセントリウスはすぐに腕を緩め、グロリアの隣に座り直して、また彼女を引き寄せた。

 どうしたの、と言うと、彼は彼女を更に強く抱きしめた。

「おまえが好きだ。世界で一番いとおしいと思う。本当だ。おまえが望む事なら何だって叶えてやりたい」

「何を言ってるの?」

 マーセントリウスは黙ってしまい、今度はグロリアの髪を引っ張った。しばらくそうしている。

「おまえを私のものにしたい。いいか?」

 彼はそう言った。しばらくしてその意図がわかってきて、グロリアはたじろいだ。彼女がどう答えようと、もう既に彼女は彼の腕の中に捉えられていて、彼の考えは決まっているのだとわかった。

 マーセントリウスはそのまま倒れ込むようにグロリアを押さえつける。 その時扉がけたたましい音を立てて開いた!

 見ると驚いたことにアローゼルフィルダがいて、はっきりした声で言う。

「その子を放してください!」

 マーセントリウスはグロリアを押さえ込んだまま、アローゼルフィルダを睨み、信じられないほど恐ろしい声で、

「邪魔をするな!」

と怒鳴りつけた。

 グロリアは恐ろしくて死にそうだったが、アローゼルフィルダはたじろぐどころか一層怒りをあらわに、きっぱりした態度をとった。

「その子をどうするつもりなんです?」

「この女は私のものだ。どうしたっていいだろ」

「勝手なことを。一時のなぐさめにして、都合が悪くなったら捨てるんですか」

「捨てたりなんかしない」

「じゃあ、メルセグランデの者に毒を盛られますね!」

 マーセントリウスは何も言えなくなる。ただアローゼルフィルダを睨んでいた。

「お疲れならひとりでご自分のお部屋へどうぞ。顔色が悪いですよ」

 アローゼルフィルダは平然と言う。見ているグロリアの方がはらはらする。彼はかっとなったら何をするかわからない。アローゼルフィルダを殺すんじゃないかと、気が気でなかった。

「いくらおまえでも、邪魔をするのは許さない。グロリアのことだけは誰にも口出しさせない」

「それは私も同じです! この子には、あなたのような利己的な人には指一本触れさせません」

 彼女がそう言うと彼はやや怯んだ様子だった。

「それに、その子に慰めてもらおうと思っても無駄ですよ」

「……慰めてもらうだと」

「ええ。まるで子供みたいな方。自分の手に負えない事に突き当たると、女性に助けを求めるんだわ、あなたは。いつかも、アンナリーズンの時だって……」

「殴るぞ」

 マーセントリウスはグロリアを放して立ち上がり、アローゼルフィルダの側へ寄った。

「それが子供だと言うんです。暴力で解決しようとするもんじゃありません」

 彼女はあいかわらず平然としている。もうやめてほしい。ゼドルズ公爵の息子だから、マーセントリウスは多分王にもすんなり配下として受け入れてもらえなくて、王側につく人間の信用も得られなくて、メルセグランデにも脅されていて、逃げ場を失ったマーセントリウスの気持ちもグロリアにはわからないわけじゃない。追いつめないで欲しい。彼が苦しむのを見るのは苦しい。

 ……かと言って、グロリアが犠牲になるのは嫌だ。絶対に嫌。そこで初めて、彼がどういうつもりなのか具体的に考えてぞっとする。暴力を振るうような、怒鳴るような人は信用できない。グロリアが好きといいながら、グロリアの心をこの人は守ってくれない。自分を一番にするに決まっている。涙が出てしまって、あまりにも弱い自分と、勇敢なアローゼルフィルダとの違いに愕然とする。

 マーセントリウスは嫌いじゃないけれど。受け入れたら、きっとこれから大嫌いになる……。グロリアはどうしていいかわからなくて泣くしかない。

 アローゼルフィルダはじっとグロリアを見ていた。そして不意に、

「彼女に慰めて貰いたかったのか、どう利用したかったのか、知らないけど、あの子は役に立ちませんよ」

 彼女が言う。マーセントリウスはそこに立ったまま、アローゼルフィルダをじっと眺めていた。

「なるほど。おまえなら役に立ちそうだな」

 彼は憎々しげに、笑いながら言う。

「おまえが代わりになるか。アローゼルフィルダ」

 彼女はちょっと軽蔑したような目で彼を見て、しかしとても楽しそうに、

「グロリアの代わりに殺されるのはわたし? そして、あなたの運命の人は誰でしょう。この演目の結末やいかに?」

 占い師のように手を正面にかざしながらそう言って、ケラケラ笑った。

 マーセントリウスは急に恐ろしい顔になり、アローゼルフィルダの手首を掴んだ。

「いいから来い! 俺を馬鹿にしたことを後悔しても知らないからな」

「あら。それはこっちの台詞」

 彼女は意地悪く、でもなんだかどきりとするほど美しい笑顔で、優雅に、笑う。

 ふたりとも強気な目をしているのが恐ろしかった。どちらも意地になっていたのかもしれない。そのまま行ってしまった。彼らの激しい怒りはどうしたって収まらないように思われた。

 残されたグロリアは呆然と見送っていたが、恐怖のあまり、随分長い時間そこに立ったまま動けなかった。

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