第二章 北の国の章:前編5

 マーセントリウスの部屋へ行く。何もかも諦めていた。テルーが死ななければいいと思った。すぐにマーセントリウスが出てきた。グロリアか、と彼は不思議な表情で言う。まるで何かに感動したかのような。

 彼は彼女を招き入れると手を触れもせず、じっと彼女を見た。

部屋は明るかった。いつも来ていた部屋だけれど、今日は夜なのにとても明るかった。外国製の美しい照明器具がいくつも煌々と光を放っている。彼女は自分の部屋であるかのように入っていって、勝手に簡易椅子に座る。マーセントリウスは側に立っていた。

 グロリア、と彼は言う。

「私の妃になれ」

 彼女は彼を見上げる。

「結婚しよう」

「何を言ってるの。あなたにはグラゼリアが」

「彼女とは結婚しない」

「あなたは力が欲しいんじゃないの?」

「メルセグランデには頼らん。あの一族を味方につけたところで、今度は彼らに利用されるだけだ。それならば、」

 彼は最後まで言わなかった。ただ、ついてこい、と言った。グロリアは首を横に振る。

「今のあなたにそんな力は無いじゃない。私を利用する気? 役に立たないのはわかってるんでしょう?」

 何故彼がグロリアにこだわるのか理解できなかった。結婚ということは、グロリアの王位継承権が欲しいのか? 先王の遺言により、少なくとも建前の上ではマーセントリウスよりも彼女の方が上の順位なのだ。ゼドルズ公爵さえをも上回って。

 だが、ありえない! 通常なら多分、グロリアが殺されて終わる話だ。彼女には味方がいなかった。少なくともこの東トゥルンザーベルクには……しかし、ふと気が付く。王のもとへ行くことができたら。マーセントリウスの考えが少しずつ彼女にも伝わってきて、彼女は背筋が寒くなった。馬鹿なことは考えないで欲しい。グロリアにまで類が及ぶではないか。だがグロリアは、ここにいれば現実問題いつ誰に命を狙われてもおかしくなかった。

 頼れるのはマーセントリウスと、それから……あの彼女の言葉を思い出してちょっと可笑しくなったが、本当に、謎の少女アローゼルフィルダと、二人だけだった。

「父は敵だ。都合が悪くなれば私だっていつ殺されるかわからない」

 まさか、とグロリアは言った。だが、彼はそう確信しているようだった。

 グロリアは知らなかったが、なにしろ彼は、そういう環境で育ってきたのだ。南の国にいた体の弱い母親は、ゼドルズに見そめられ誘拐同然に北へ連れてこられた。外国の王族の血を引く娘だったこともあり、前王の命令で正妻として迎え入れられたが、彼の愛人にさんざん酷い目に遭わされ、なかなか子供も生まれずゼドルズにも冷遇され、とうとう病気になって、実家へ帰されてしまった。だが実は彼女は妊娠していて、実家で密かにマーセントリウスを生み、間もなく息を引き取った。

 子供の存在は父に知られぬまま、彼は祖父母に育てられた。成長するにつれそういった経緯を知り、彼は父親を恨むようになった。そして十三の時、祖父母が相次いで世を去ると同時に、いつ息子が生まれていると嗅ぎつけたのか、突然北からの迎えが来た。戻ってこいと言う。父親の持ち駒となる為に!

 だが彼は、復讐心を胸に秘め北の国へやってきたのだ。

 それから七年。その間にも想像を絶する事件が度々起こった。父によってねじ伏せられ、目の前で親族だろうが側近だろうが都合の悪い人間や裏切り者を容赦なく殺すのを見せ付けられ、彼自身何度も命の危険にさらされた。馬鹿息子を演じて父親の一応の信用を得るには成功したが、このまま言いなりになっているつもりはなかった。いつか力を持って、父を倒す。それだけを思って生きてきたのだ。私生児のようなもの、財産目当てと蔑まれようと、父の愛人に毒を盛られようと、様々な言語を覚え、政治を学び、陰で人脈を作り、仲間を増やし、王と繋がり、誰にも見えない所で死に物狂いの努力をしながら生きてきたのだ。

「あまりぐずぐずしている余裕はない。メルセグランデの要求をいつまでも拒んでいられるものではない。だから、おまえが必要だ。とにかくできるだけ権威のある祭司の元で結婚式を挙げて結婚した事実を作る」

 本気で言ってるのか? 彼はぎらぎらとした目で彼女を見る。恐ろしくなった。近づいたら喰われて粉々にされてしまうのではないかと思った。

「こっちへ来い」

「嫌!」

 グロリアはきっぱりと言った。

 そんなことに利用されるのは絶対に嫌だ。結婚の話を持ち出されなければ彼女も彼に従うつもりだった。それなのに、いつの間にか彼女の心には複雑な憎悪、マーセントリウスに対する憎悪がどうしようもなくわき起こっていたのだ。先程までテルーが助かりさえすればどうでもいいと思っていたのも忘れたかのように。

「あいつがどうなってもいいのか」

「そこまで悪人じゃないくせに! 殺すんならとっくに殺してるでしょう。そんな条件出さなくても、あなたは彼を殺して私を手に入れることだってできたはずじゃない」

「知ったような事を言うな」

 マーセントリウスは、彼女がこんなに自分に逆らうのに驚き、苛立っていた。彼は言われていたほど見境のない馬鹿ではないが、決して温厚な人間ではない。命令に従わない者は実際に何人も殺した。権限を持った途端、十五にして、顔色一つ変えず、自分を散々虐げてきた教育係を自分の命令で斬首刑にし、仲間を集めてその頚で喜々としてフットボールをしたと聞いて、誰もが彼を恐れるようになった。彼の地位や財産を狙う者を返り討ちにし、わざと、政敵を怒らせては平常心を失わせ、失脚させた。父を真似たわけではないが専属の暗殺隊も持っている。彼を慕う仲間はグロリアが思う以上に大勢いる。しかし、彼の周りにはたくさんの血が流れる。男女問わずだ。いつだって必要ならそうする。

 それなのに、こんなに彼に逆らって、何故この女はこんなに恐れ知らずなのか。死ぬのが恐くないのか、それとも自分は自分で思っているような人間ではないのか。やや自分を見失いそうな錯覚に陥った。

「何の為におまえをここに置いていると思ってる。消されるかもしれなかった女を、俺が生かしておいたんだから、おまえをどうしようと俺の勝手だろ!」

「だったら殺せばいいじゃない。できないんだったら出ていくわ。あなたなんて大嫌いだもの!」

 彼女が立ち上がって行こうとしたので、かっとなって彼は彼女を突き飛ばした。いや、彼からすればちょっと小突いた程度だった……。

 頑丈な、大柄な男であるマーセントリウスが思った以上に、グロリアは細くて軽かったので、容易く吹き飛ばされ、壁にぶつかって倒れた。今日はなんて痛い目に遭う日なんだろうと思いながら、グロリアは倒れた状態のまま動けなかった。背中に激痛を感じてそれが引くどころか耐えがたいほどになり、とうとう気を失った。



 気が付くと朝だった。体中が痛くて目が覚めた。よく見ると体には包帯が巻かれていて、湿布薬の匂いがする。そうだ夜中にも目を覚ましたが、医者が来て手当されたのだ、その辺に薬草類や怪しげな瓶が転がったままだった。また、酒の瓶も一緒に転がっているようでアルコールの臭いがする。何より驚いたことに、グロリアの毛布の上にマーセントリウスが寝転がって眠っていた。飛び起きようとして、背中に激痛が走り、また気を失いそうになった。

 よく見るとここはマーセントリウスの部屋である。いろいろなことを思い出した。彼に殴られて倒れた時、怪我をしたのだ。思い出すと泣きそうになった。


 ようやくマーセントリウスが起き出して、のろのろとグロリアをのぞき込んだ。彼はまだ酒臭く、ぼんやりした暗い顔つきで、不安そうに彼女を見ていた。

 それからようやく、心配いらない、ちょっとした打撲で、しばらく休んでいたら治る、と彼は言った。

 何が心配いらないだ! グロリアをこんな目に遭わせておいてよくも、と思ったが、動くと痛くて何も言う気力がなかった。

 だが彼はすがるように彼女の手を取り、服の中に手を入れかねない勢いで背中を撫で、青い顔で見下ろしていた。驚いて、その目を見ていると怒りもおさまり、何だかばつが悪くなってしまった。


 テルーはどうなったのだろうと思いつつ、疲れて一日中そこでうとうとしていた。ここから動くとつらかったので、またマーセントリウスの部屋で過ごさねばならなかった。そうしていると何もかもうんざりしてきて、疲れてしまった。

 起きだして部屋に帰ろうとしたが、マーセントリウスは許さない。外科医や召使いを部屋に常時置いて、四六時中見張らせた。看護されているというよりは、軟禁されていると言った方が近かった。

 マーセントリウスは時折切なそうに彼女を見ていた。しばらくしたら本当に動けるようになったので、部屋に帰らせてくれと言うと、彼は彼女を抱きしめて、いなくならないように鎖で縛り付けておきたいと言った。戸惑った。時々こんな風になるマーセントリウスにとても戸惑った。何故だろう? グロリアが死んだら計画が台無しになるから?

 他の男の話をしたら気が狂うほど激怒しそうに彼の心の張り詰めているのを感じて、テルーの名前を出すことが憚られ、結局彼女は何も聞けないまま部屋に帰ってきた。

 部屋はきちんと片付けられている。召使いが掃除してくれていた。あいかわらず何も無い場所だが、戻ってきて少しほっとした。


***

 そのうちメルセグランデの長男がどこから聞きつけたのか見舞いに来てくれて、何が有ったのか執拗に聞きたがった。しかし何も言えず、ただ怪我をしたのだと言った。ただならぬものを感じたのか、彼はしきりと、

「心配です」

と言い残して帰って行く。彼はそんな風に心配してくれるけれど、本当に立場を忘れて心を通い合わせることなどできるのだろうかと思った。彼女の正体を知った時彼はどうするだろうか。彼女には彼の目の上には心の揺れが常にちらついているのではないかと感じられた。


***

 そんなに経たずすっかり動けるようになったので、グロリアは外に出てみた。密かにテルーの情報を得る為である。あまり遠くに行くのは不安だったので、館のすぐ傍を歩いていた。グロリアが外にいるとアローゼルフィルダやマーセントリウスの友達、その他誰かがグロリアを見つけて声をかけてくれることがあるのでそれに期待したのだ。するとこの日は何故かマーセントリウスがついてきて、話が有ると言う。あまり気は進まなかったが、強く言われるまま二人で森の方へ行った。

「この間のことだけれど」

 この間のことって、と彼女は用心深く聞く。彼も用心しているのか、しばらく言葉を選んでいた。

「私は本気だ」

 彼がそう言いだすのでグロリアは立ち止まる。部屋に帰ってしまおうかと思った。

「ただでおまえを利用してやろうと言ってる訳じゃない。おまえの望みなら何でも……できるだけ何でも叶えてやる」

「私は嫌」

「従兄妹だからか」

「え? どういうこと」

「世間では従兄妹同士というのは血が近すぎて体裁が悪い、と考える者もいる」

「しらない。関係ない。あなたが嫌と言ってる」

「どうしてもか」

「どうしても嫌」

「どうしてもか」

「ええ」

「好きな男が死んでも?」

「ええ」

 グロリアはきっぱりと拒否する。そう大して深刻なことになるとは意識していなかった。

 しかし突然マーセントリウスは怒り狂ったようにグロリアを捕まえた。その恐ろしい形相を見て初めて彼女は身の危険を感じ、焦った。


 その時ずっとどこかで様子をうかがっていたらしいテルーが飛びかかってきた。グロリアは地面に投げ出される。怪我をしたばかりだったのでとっさには身構えられず、あっけなく転がってしまう。急いで顔を上げると、テルーが剣をマーセントリウスに向けて、再び飛びかかろうとしていた。

 やめて、と、グロリアは叫んだ。

「まだいたのか。命が惜しくないのか」

 マーセントリウスは薄笑いを浮かべてじっと彼を見ている。そう言いつつ、殺さなかったのか。約束通り、グロリアと引き替えに彼の命は助けるつもりだったのか。

「よくも姫を」

 テルーはマーセントリウスを殺そうとしていた。グロリアはぞっとして、何とか止めようとする。そこに、テルーをおびき出そうと計画していたのか、それとも常に近くで主人を守っていたのか、グロリアも見たことのある護衛が五人ほど槍と、剣を持って集まっていた。

 この上マーセントリウスに逆らって、彼が生きて帰れるとは思えなかった。マーセントリウスの残酷な目が本気でテルーを敵視していた。恐ろしい目だ。殺意。この目をどこかで見たことがある気がする。テルーは彼にかなわない、マーセントリウスが一言、殺せ、と命令すれば彼は殺されてしまう。足がすくんだ。

「マーセントリウス」

 グロリアはすがるように、彼の気を引こうとした。

「テルーを殺さないで」

 彼女の声はかすれて、それだけ言うのがやっとだった。

「二度は聞かない」

 彼はこの時帯剣していた。

「剣を抜け」

「その女は私のものだ。彼女はおまえにはついていかない」

「嘘だ」

 テルーは一歩近寄る。

「あいつに聞いてみろ」

「貴様が脅しているのを今見たところだ」

「グロリア!」

 マーセントリウスは怒鳴りつけるように呼んだ。

「選べ。どっちに付いていくか、おまえにはどっちかしか選べないんだ」

 自分で決めろ、と彼の目は言っているかのようだった。マーセントリウスが与えられた現実の中から自分の意志で苦難を選んできたように、同じ結果になるとしても、グロリアは自分の意志のもとこの都に残ることを選ぶに違いないと。グロリアは選ばなければならない。どっち道、テルーについて行っても東の王によってグロリアは公爵に差し出される。逃げ切るというわずかな可能性に懸けるという選択肢もあるにはある。しかし、テルーは命懸けでグロリアを助けてくれると言ったけれど、彼女は自分が彼に盲目的に付いて行けるほど彼を信じていないことに、初めて気が付いた。

 さあ、どうする、という言葉を何度もゆっくり頭の中で考え、彷徨わせ、玩び、ようやく意味を理解し、そして言葉を探した。自分の気持ちに一番近い言葉を。


「行かないわ」

 グロリアはそうつぶやいていた。それから、頭が回転し出した。

「私はマーセントリウスのものなの。もうあなたには会わない」

 テルーに向かってそう言っていた。どうしてそう言うことになったのか自分でも冷静に分析することができなかったのだが。少なくともこれで、テルーは助かる。

 気が付くと、テルーは去っていた。思い返しても、彼は何の言葉もかけてこなかったし、何の表情も見せなかった。そして森の中に消えていった。


***

 どうしてなのか自分でもわからない。グロリアはマーセントリウスを憎むようになった。

 以前のように顔を合わせるのも嫌になった。彼に自分に触れさせたくなかった。口もききたくなくなった。

 逆恨みなのかもしれない。自分に、選択をさせた。到底選べないことを、無理に選ばされた。しかし、それもまた自分の意志には違いなかった。涙が出る。テルーを失ってしまったことが辛くて眠れなかった。だが、いくら考えてみても、テルーと結婚したいとは思えない自分が居る! その事実をどうやって受けとめて良いのかわからない。

 テルーは初めて彼女に愛していると言い、優しく抱きしめ、彼女に接吻してくれた人だった。その彼を失ってしまうことが一方でこれほど辛いとは思わなかった!


「何てわがままなの。どうしたいの。どうして欲しいの。愛されてるくせに!」

 アローゼルフィルダは珍しく熱く言い放った後、またいつものようにどうでもよさそうな口調に戻った。

「あーあ。ちゃっかりマーセントリウス様と結婚の約束してしまうとはね。結婚式には呼んでね。バイバイ」

 彼女は行ってしまおうとしたが、そのまま彼女まで失ってしまうのではないかと恐ろしくなり、グロリアは彼女にすがりついた。

「だって、そういう訳じゃないわ。テルーについて行かないと言っただけで、マーセントリウスと結婚するとは約束してない」

「同じことでしょ」

「マーセントリウスは好きじゃないし、彼だって私のことなんて好きじゃないのよ」

「東の王子が好きなの?」

「そんなこと言うなら、あなただって好きよ。あなたが一番好き」

 アローゼルフィルダはそこだけちょっとだけ笑った。

「光栄だけど、こんなお子様を何人もの権力者が取り合うなんてね。政略結婚か、恋愛結婚か、脅されて結婚するのか。あんたは恋愛したいわけね。王位継承権一位の王女様、しかも絶世の美女が」

「しらない。美女じゃない。全部私の都合じゃないわ。どうしたらいいのかわからないの。マーセントリウスを信じてるわけでもないし。でも何を信じたらいいのかわからない」

 するとアローゼルフィルダは、

「それはあんたが自分に自信がないだけよ。私にはどうにもできない」

そう言って、行ってしまった。

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