第二章 北の国の章:前編4

 グロリアは最近猫を飼っていた。飼っていたと言っても、部屋で愛玩用に飼っているのではなく、納屋で生まれた野良猫を、小さいうちからいつも見に行っていたら、白いのが一匹なついたので、時々部屋に連れて行ってネズミを捕らせているうちに、自分の猫のように思うようになり、餌をやっていた。

 普段は外で自由に動き回っているので彼女が好きな時に遊べるわけではなかったが、自分自身明日をも知れない身だったので、いつも部屋に閉じこめておく気にはなれなかった。


 或る時、その猫と外に座りのんびりしていたら、猫が突然膝から飛び降り、何かに飛びかかった。驚いて見ると、猫は何かをくわえて戻ってきた。その口に、時折何かバタバタ暴れているものが有るのでよく見ると、雀ではないか。慌てて取り上げようとしたら、猫はびっくりして逃げ出した。

 ネズミはよいけれど雀はだめだという人間の理屈に納得のいかない猫は、獲物を主人にさしだそうとしたのに怒られるとは理不尽とばかり逃げていく。

 猫を追って茂みの中に入って行くと、猫は更に走って、森の中に入っていく。あまり行くと敷地から出てしまうので一瞬躊躇したが、すぐそこに猫が立ち止まってグロリアを見ているので、ゆっくり近づいた。雀は生きているのかいないのか、動いているようには見えない。

 おいでと呼ぶと、ようやく猫は寄ってきて、獲物をグロリアに差し出そうとした。猫は自分の名前を「おいで」だと思っている。


 ふと猫は動きを止め、慌てたように獲物を落っことし、そのまますごい勢いで逃げていく。どうしたのかと思ったが、次の瞬間あっと声を上げそうになった。しかし、声を出す前に、何者かに手で口を塞がれていた。


 後ろから捕まえられ、動くことができないので、振り返って何が起こったのか確かめることはできなかった。しばらくじたばたと暴れていたら、静かに、と声を掛けられた。その声に耳を疑った。

 頭が真っ白になって、何も考えられず、動くこともできずにじっとしていたら、ようやく彼女を捕まえていた腕の力が緩み、彼女の身は自由になった。へたりこんで、見上げると、そこにはテルーがいた。それを確認する暇もろくに与えられず、そのまま抱きすくめられた。強い力で締め付けられ、とても苦しかった。しかしすぐにはどんな感情も、混乱した彼女の胸には湧いてこない。何かの間違いだと最初に思った。これは誰だろう?と次に思った。そして、もどかしげにぎゅうぎゅうと締め付ける彼の腕を、ゆっくりとおしほどいた。

 彼は感情が未だ収まらない様子で、またグロリアに近づこうとしたが、彼女は拒んだ。こんな酷いことはないと思った。

「どうしてここにいるの。忘れてって言ったのに。どうしてここに」

「助けに来たんだ。手筈は整っているから。すぐに逃げよう」

 嫌だ、と思った。どうしてそう思ったのか自分でもわからない。ひどく反発する心が有った。

「行けないわ」

「どうして」

「どこへ逃げるの」

「私の国へ」

「東の王は知っているの?」

 彼は首を横に振る。

「あなたが私を匿っていると知ったら、たくさんの敵が東を非難するわ。差し出せと言われて、あなたのお父様が私を守ろうとするとは思えない」

 テルーは何と言って良いかわからずに黙った。何故グロリアがこんなことを言い出すのか分からなかった。

「あなたの心配する事じゃない。あなたは私が守るから……」

「構わないで。マーセントリウスに知られる前に帰ってください。あなたはここにいると……」

 言いかけた時、突然彼はグロリアの腕を掴んで、恐ろしい顔をして彼女を木の幹に押しつけた。グロリアは黙って、息をのんだ。殴られると思った。

 しかし当然彼はそんなことはしなかった。苦しそうな声で、

「あなたがここに連れてこられたのがわかった時、ショックだった。あなたはただでは済まされない、どんな目に遭わされているかと」

 アンナリーズンという女性の事を言っているのだろう。

「酷いことをされただろう。何故助けを待っていたと言ってくれない。他の男を好きになって、私の事などどうでもよくなったのか。あなたを助けることしか考えていなかった。命を捨ててもいいと思った。それなのに、あなたはそんな冷たい目で私を見るのか。何故信じてくれない」

 彼の苦しそうな声に、グロリアは圧倒されて、呆然としていた。それから木の幹に押しつけられたまま、くちづけられた。驚いて身を固くすると、ますます強い力で腕を捕まれた。

 気が付くと強い力で抱きしめられていて、彼女は彼の腕にしがみつく。体中の力が抜けていった。彼は彼女を支えながら、まるで泣いているかのように、必死な接吻を浴びせかけた。


 彼の腕の中で、溜まっていた感情が堰を切って流れ出すように泣いていると、彼はとても優しくグロリアの肩や髪をなでてくれた。こんなに優しい人と思ったことはなかった。彼女は何も聞かなかった。何を話さなくても良かった。そこにテルーがいて、グロリアのことを愛してくれる。そう知っただけでよかった。

 ようやく彼女が泣き止むと、彼は早く逃げようと言った。

 しかしグロリアは首を横に振る。

「捕まるわ。東に迷惑をかけられない。マーセントリウスはとてもあなたを憎んでいるわ。私を連れ出そうとしたらただでは済まない」

 テルーは首を横に振った。そんな事を心配しないでくれと彼は言う。だが、グロリアにはどうしても、自分の事だけを考えることができなかった。それは、彼女がこの国の王女だったからだ。あのメルセグランデの長男が言っていたようには生きられなかった。彼は説得を試みたが、彼女は決して応じない。

 そのうちとうとう彼も折れざるを得ない。騒ぐと人が来るし、今にも近くに潜んでいる彼自身の部下たちがみつかるかもしれない。兵がうろうろしているのは知っている。交代時間を狙ってマーセントリウスの敷地に入ったのだ。ぐずぐずしていられない。今無理に連れ帰るのは難しいと思った。

 仕方なく、また明日来るからと言って、彼女を放す。だが放しがたいようで、再び抱き寄せ、それを何度も繰り返した。

 もう来ないでと彼女は言ったが、言いながら、そんな言葉は無駄だとわかっていた。彼女が彼に何と言われようと付いていかないと決めたように、彼も彼女が何と言おうと連れ帰ろうと思っているのを知っていた。さよならと彼女は言った。もう部屋から出ないようにしようと思った。もう彼とは会えないと思った。そう思うと、悲しみで胸が一杯になった。


 彼女は部屋へ帰ってきた。明日も明後日も行かなければ、彼も諦めてくれるだろうと考えた。彼と一緒に行きたくないのだという意志を態度でもって伝えようと思った。そのまま彼女は部屋から出なくなった。


***

 或る夜のことだった。暑かったので戸を開け放って寝ていたら、変な音がして突然猫が飛び込んできた。猫がどこをどう通ってきたのか知らないが、抱いて連れてきた時に道を覚えていたのだろうかと少しの間考え込んだ。そこへ続いて、まだ足音を忍ばせて入ってこようとする者の気配がして、見ると、アローゼルフィルダではないか。猫を投げ込んだのも彼女に違いなかった。

 やれやれと彼女は入ってくると、燭台を置いて服についた猫の毛をはたいていた。

「どうしたの、こんな時間に」

「あんたが籠城して、入れてくれないから。こいつを薄情なご主人のところへ連れてきてあげたのよ」

 グロリアは黙った。

 猫は興奮して毛を逆立てアローゼルフィルダに向かって威嚇していたが、多分彼女はこの猫に餌をやってくれていたのだろう。恩知らずねと不機嫌そうな様子だった。ごめんなさい、とグロリアが言うと、猫のことよと彼女はそっけない。

 だがそれだけのために人目を忍んで夜中に入ってきたわけではあるまい。彼女を寝台に座らせると、グロリアも隣に座った。黙っていた。

 ようやくアローゼルフィルダが口を開いた。あんたの彼が、捕まったのよ、と彼女は言う。グロリアは耳を疑った。

「東の王子が、この辺りをうろついてたみたい。馬鹿ね。マーセントリウス様が捕らえさせて、今牢よ」

 テルーが。彼女は大きな声を出しそうになって、アローゼルフィルダに止められる。

 しばらく呆然としていたが、考えれば考えるほど絶望的で、血の気が引いていく。

「どうなるの」

「わからないわ。多分、殺されると思うけど」

 グロリアは耳をふさぎたくなった。

「どうにもならないの?」

「私には関係の無いことだもの」

 アローゼルフィルダは冷たいことを言う。お願い、助けてとグロリアが言うと、彼女は困ったような顔をした。こればっかりは私にもどうにもならないわねえ、と彼女は言う。

「私がマーセントリウスに頼んでも駄目かしら」

「私がどうにもならないって言ってることを、あんたになんとかできるわけ?」

 アローゼルフィルダは多分本当のことを言っているのだ。彼女にもどうにもならないことも本当なのだ。マーセントリウスが彼を殺すだろうということも。


 アローゼルフィルダは、力になれなくてすまないわね、と言うと、灯りを持ってまた闇の中に消えた。グロリアはしばらく彼女の出て行った方を向いたまま動くことができなかった。


 彼女は上衣を着ると、部屋を出ていた。夢の中のような気もしたし、どうしようという考えがあったわけではない。ただ、灯りも無いまま地下へ向かっていた。地下へは行ったことがないのだけれど、多分ここを通ると……。

 階段を降りていくと、思っていたような、人を放り込むだけの洞窟のような地下牢ではなく、扉のある小部屋があった。牢番の姿は見えないが、一つだけ灯りがついていた。ぞっとした。しんとして、誰がいるのか、それとも誰もいないのか、それさえもわからない。誰かいても、いなくても恐ろしかった。部屋へ逃げ帰ろうかと思ったが、勇気を奮って足を踏み出した。

 扉には鉄格子の入った小窓があり、中にも灯りがついている。地下の星灯りすら届かない牢、通常なら中に明かりは置かないと思うが、多分ここに誰かいる。もしかしたらマーセントリウスが来ているのだろうか? だとしたら見つかるとどうなるかわからない。恐ろしくなって、やはり引き返そうかと思ったら、人の声がした。

 飛び上がりそうになったが、息を殺し、耳を澄ませた。誰かいるのか、という声がした。

「マーセントリウスか。まだ何か」

 テルーの声だった。グロリアは駆け寄った。

 テルー、と呼びかけると、彼が息を呑むのがわかった。小窓から覗くと、テルーがこちらを見ていた。格子越しに彼の姿が見えた。

「何故ここへ」

 テルーは驚いていた。何故ここへ。そう聞かれても、彼女自身にもわからない。怪我はしていないようだが、憔悴した様子だった。いつからここに入れられていたのだろう。ひどい目に遭わされたのだろうか。グロリアは恐怖も忘れて泣き出した。

「姫、私のことは心配しないで。諦め切れなかっただけだ。ただ、これからあなたがどうなるのか心配で」

 彼は格子越しに、彼女の指を自分の手で覆った。彼女の指は涙で濡れて、掴もうとしたらするりと滑った。

 グロリアはしばらくそうしていたが、思い立って、鍵を探してこようと振り返りかけ、ぎょっとした。階段の方で物音がして、足音が近づいてきた。途端に彼女は恐怖ですくんでしまう。彼女を逃がそうと彼は彼女の方を見るが、どうすることもできない。

 やがて足音が近づいてきた。その顔はなかなか見えなかったが、近づいてきた男を見て、グロリアはその場に崩れるようにへなへなと座り込んだ。

 牢番か誰かだったらまだよかった。だがそこにいたのはマーセントリウス本人だった。テルーを殺す意志もあり、決して温情など与えるはずのない男。仲間は大事にしても、敵なら当たり前に人を殺す。その現場は見ていないが、敷地内に入った泥棒を縛り首にする準備がなされていたのを見た。仲間内でよく様々な人殺しの武勇伝を語り合ってもいたし、この間彼に襲いかかった刺客を自分で三人まとめて斬り殺したと召使いたちが噂していた。

 彼は一度立ち止まってグロリアをじっと見つめ、それからテルーの方を見た。そしてグロリアのところに来る。

「部屋におまえがいなかったから。もしやと思ったら、やはりここだったか。だが、鍵はここには無い。逃がそうと思っても無駄だ」

 部屋に何しに来たのかと驚く。彼は昼間とは違う、冷たい目で冷酷に笑いながらグロリアを見下ろした。そして、灯りをそこへ置くと、おもむろにグロリアの手を掴んで立ち上がらせた。彼女は彼のいいなりになるしかない。

「どうだ、おまえの女は私の意のままになる。そうだな」

「離して」

 グロリアはマーセントリウスを振り切ろうとするが、彼の目の色は驚くほど冷たかった。

「ローデルラインを死なせたくなかったら、おまえも態度を改めるべきだな」

 彼は恐ろしい力で彼女の腕を掴みつるし上げる。あまりの痛さにグロリアはうめいた。テルーが必死の声でやめろと言う。

「すぐにおまえを殺さなかった訳がわかるか。おまえにも同じ思いを味わわせてやる。今ここでおまえの女を陵辱してやってもいいんだ」

「やめろ! 誤解だと何度も言っているだろう。アンナリーズンのことは」

 アンナリーズン。グロリアはその名前を聞いてびくりとした。確かに、彼がマーセントリウスの恋人を弄んで捨てたなんて信じられない。だが、もしかしたら、悪気があったわけではなく、純粋に愛していたかもしれない。結果として子供ができたのかもしれない。そして彼女が流産して死んだとしてもそれはかならずしもテルーのせいじゃない。その考えが一気に彼女の頭の中を駆け巡った。彼は彼女を愛していたのかもしれない。それだったら仕方の無いことだ。だが、とても悲しくなった。どうしてかわからないけれど、テルーが遠くへ行ってしまったような気がした。過去のことなどグロリアには関係がないし、口出しできるはずなど無いのだから。だが、それでも悲しかった。ぽろぽろと涙がこぼれる。姫、とテルーが声をかけたのにも気付かなかった。

 マーセントリウスはグロリアの顔をのぞき込む。

「殺すのは簡単だが。そうは言ってもな、こいつは東の王の一人息子だ。あんな小国敵に回したところでどうという程のこともないが、われらの王は多分違う考えだろう。後が面倒だから殺さないでおくという手もある。どうする。おまえ次第だ。この男を忘れるか」

 グロリアははっとしてマーセントリウスを見上げた。

「どうだ。忘れるかと聞いてる。私をその時の衝動だけで動く馬鹿だとでも思ってたか」

 ぽかんとして、彼が何を言っているのかわからず、グロリアは彼を懸命に見て、意味を汲み取ろうとした。興奮しすぎて頭が回らない。情けないことに涙が止まらない。

「もしおまえが私のものになるんだったら、この男の命だけは助けてやってもいいと言ってる。そうでなければこいつを殺す」

 殺せ、とテルーが言う。

「黙っていろ!」

 マーセントリウスは彼を睨みつける。

「今すぐだ」

 やめろ、とテルーは言う。そんなことをしたら、殺してやるとテルーは怒鳴った。しかし、今の彼にはどうすることもできない。

 グロリアはまだ自分の置かれている状況がきちんと把握できていなかった。自分がどんな目に遭えと言われているのか、二人の様子からではよくわからなかった。

 まだ子供なんだ、そんなことをしたら許さないとテルーが言っている。だが言うことを聞かなければテルーを殺すとマーセントリウスが言う。グロリアは戸惑った。頭の中がぐるぐるして、目も回りそうだった。そしてついに承諾してしまった。テルーの事は忘れると。

「それでいい。この男を死ぬほど苦しめてやれればいいんだ。そして、おまえは私の言うことをきいていればいい。心配しなくても、私はおまえを大事にするつもりだ。まだ早いと思っていたけれど、ぐずぐずしているのが馬鹿らしくなった」

 彼が手を離すと、グロリアの掴まれていた腕には真っ赤に跡がついていて、どくんと血が通いだした。ほっとしたのもつかの間、彼はグロリアを襲おうとした。地面に倒れて酷く痛い思いをした。だがその衝撃でロウソクが消えてしまい、何か不都合に思ったのか、マーセントリウスはそれ以上の乱暴をやめた。

 彼が燭台を拾い上げ、廊下に灯していた松明の火をとっていると、グロリアが放心したようにテルーの方を見ている。マーセントリウスはその様子をしばらく見ていたが、何を思ったか、彼はグロリアをそのままにして、後で必ず部屋へ来るように言って、階段を登っていってしまった。


 鍵は無い。何もできない。

 姫、とテルーが声をかけた。行って、いいなりにはならないと言うんだ、と言う。彼は王族だ。知らないかもしれないが彼は公的には騎士団を率いる人間だ。卑劣な盗賊とは違うから約束は守ると思う。彼は私を殺しさえすれば気が済む。そうしたらあなたに危害を加えることは無いだろう。と。

 グロリアは黙っている。ぼんやりして、子供のようなところのある人だし、この人はきちんと判断できない状態だ、とテルーは考えて、必死で訴える。

 わかってくれ、あなたがそんな目に遭わされるくらいなら、自分が死んだ方がましなんだ、と。

 グロリアはもう何も言わず、ぼんやりといつまでもテルーを見ていた。

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