第二章 北の国の章:前編1

 グロリアは北の国へ戻ってきた。だがここがどこだかよくわからない。おそらくトゥルンザーベルクの都近くだと思う。どこかの城の薄暗い牢に入れられている。天井の方に有る灯り取りから昼間は光が差し込むが、外の景色は見られない。夜になると真っ暗で、恐ろしく、そうでなくとも粗末な寝台から、じめじめした虫の這う床に降りることもできない。そんな場所にまる一日ほどいた。初めは疲れ切って倒れたまま何も考える余裕もなく、いつまで神経がもつだろうと思い始めた頃だった。

 時刻はわからないが、明るいので昼間だと思う、人の声で我に返り、そちらを見ると、誰かが牢を開けさせている。起き上がると、男が入ってきた。よく見ると、若い。彼は一人だったし、特にグロリアに危害を加える様子ではなかったが、グロリアが見たことのないような、端正で上品な顔立ちに、とても冷たい表情を持っていた。人を馬鹿にしたような態度である。

 おまえが王女だな、と言って、彼はグロリアをしばらくながめていたが、やがてふん、と馬鹿にしたように笑い、何歩か下がった。

「まだ子供じゃないか。私は王兄ゼドルズ公の息子、マーセントリウスだ。初めに言って置くが、私は父の陰謀とは無関係だ。でも、おまえを助けるつもりもない」

 驚いた。この男が例の、ゼドルズ公爵の息子なのか。グロリアはじっと彼を見つめる。彼はグロリアの見物にでも来たのだろうか。初めて見る従妹を興味深そうに、しかし決して感じの良くない目で見ている。だんだん不安になったが、表情を見せないようにひたすら目を合わせていた。するとようやく彼は視線を逸らす。

「東の王子にかくまわれていたそうだな」

 彼が唐突に言うので不思議に思った。

「あの男のことだ、自分の立場から、許嫁としてのおまえをどんなに大事に扱ってきたか想像が付く。あの男を酷い目に合わせるにはどうしたらいいか、おまえはよく知っているだろうな」

 そう言って薄気味悪く笑う。何を言っているのかグロリアにはわからなかった。

「テルーを知ってるの?」

「知ってるかだと」

 彼は恐ろしい顔をしてグロリアを睨んだ。

「忘れてたまるか。奴を許さないと決めている。ようやくチャンスが来たからには、ただでは済まさん。憶えておけ。あいつの許嫁がどういう目に遭わされるべきか、あいつも知っているだろう。父上がおまえをどう扱おうと、無事に都を出られると思うな」

 マーセントリウスはそう言い放つと乱暴な足音をたてて出ていった。グロリアはしばらく動けなかった。


 その後すぐ、グロリアは塔に移された。地下牢よりは大分よい待遇だった。狭いが、簡単な家具も有った。これから自分がどうなるかわからない恐怖が有ったが、あのマーセントリウスが、本来グロリアが遭わされる予定以上の酷い事態にグロリアを追い込むのではないかと思うと、ぞっとする。もとより命を落とす覚悟はできていたつもりなのだけれど。


 マーセントリウスが再びやって来た。前日と変わらぬ様子で、

「恐がってしおらしくしてるかと思ったら、案外図太いな。まるで女王のような顔して俺を見下してきやがる」

と、やはり冷笑を浮かべている。態度はあいかわらずぶっきらぼうで、目つきも態度も破壊的な感じがした。

「ああ、しまった。言葉が乱れてすまないな。外国育ちなもので。最初にここの言葉を教わった連中もろくでもない奴らだったからな。訛は雅な方々からは嫌われるだろう?」

「しらない。私も都の標準語がよく思い出せないから、あなたが気になるなら公用語で話しましょうか?」

 公用語というのは、近辺の諸外国でも通用する共通の言語で、国内でも公式文書ではこの言葉が使われる。ハザラントもそうだが田舎の村では当然、役人や聖職者しか使わない言葉だ。グロリアは教育を受けているから専門用語等の難しい言葉以外なら使える。

「それは嫌味か。深窓の令嬢にしては根性座っておられるご様子だな。私も昔は育ちの悪い餓鬼とよく言われたものだが、公式文書が読めないとなにかと不利だからな。公用語も一応知ってはいる」

 彼は標準語のままでそう言って、にやりと笑った。

「ところで父上から、おまえが王女だという証拠がないか調べてこいと言われた」

 グロリアは黙っている。これ以上口をきくのも嫌だった。

「……無視するつもりか。私には本来そんなことどうだっていいんだ。違うなら違うでいい。その時は王女として死体になってもらうかもしれないがな」

 彼は彼女を眺めるが、グロリアは完全に彼のことを無視し、目も合わせようとしなかった。

「こっちを向け。何故何も言わない。危害を加えないと思って見下しているのか」

 いらついたように肩を掴んだので、グロリアは彼を睨んだ。

 ふと、視線を留める。そのまま考え込んでしまったように見えたので、彼はどうした、と聞いた。

「前に会ったことが無かったかしら」

 グロリアは小さい声で言ってみる。

 にべも無く否定されるかと思ったら、マーセントリウスは沈黙する。やがて口を開いた。

「私がこの国へ来た時にはおまえはもうトゥルンザーベルクにいなかったし、会った事は無いはずだ。だが、私は王の若い頃に似ていると言われる。それで見覚えがあるように思うんじゃないか」

 しかし、グロリアは父親の顔を覚えていなかった。こんな人だったのだろうか。そう言われてみても、自分に父親がいたということにさえ戸惑っているグロリアは、どう反応していいかわからなかった。

 マーセントリウスはしげしげと観察して、また軽蔑したような目でふん、と笑う。

「本当におまえは弱そうな女だな。細いし、顔色も悪いし、世間はもてはやすかもしれんが、私はおまえのような女は嫌いだ。そうやってか弱く見せて同情を引きながら、腹の底では何考えてるのか知れたもんじゃない」

 彼は何気なく側に座ったが、そのとき彼女の衣服の端を手で押さえつけてしまった。ぞくりとして、身を縮めそうになり、それを彼女は表には出さなかったつもりだが、その動揺を彼は見逃さなかった。彼は一瞬にして、彼女の本人も意識していなかった弱点を見破ってしまったようだった。彼は笑った。

「なるほど。おまえ、男は怖いのか」

 そう言って彼はグロリアの片手をとった。グロリアはぎくりとして、顔を背ける。テルーにも言われたことがない。彼は気付くほどの距離に滅多に近寄らなかった。

 彼は彼女の弱点をそれと確信しますます喜び勇んで、というよりも、面白がってでもいるのだろうか、座っていた寝台の上に突き倒した。グロリアは首根っこを捕まえられた猫のように動けなくされてしまう。

「おまえはローデルラインの女だ。やつのしたことの責任をとってもらおうじゃないか」

「何の事よ」

 グロリアは訳もわからずこんな無礼をはたらかれたことにカッとなった。

 テルーの過去などグロリアにとってはどうでもいいことだった。彼が何か言おうとして一瞬油断した隙に、飛び起き、そして平手で思いきり頬を張り飛ばした。それから彼があっけにとられている間に飛ぶようにして逃げ、椅子を投げつける。手近な物はそれほど多くなかったが、手当たり次第投げつけると、意外に命中し、マーセントリウスがひるんだ隙に、部屋から逃げ出そうとした。すると陶器の割れる音やら酷い物音に気付いた番兵達がどやどやとやってきてしまった。

 思わぬ騒ぎになってマーセントリウスもばつが悪かったのか、落ち着いた様子で人々を退出させた。彼が中にいるからには鍵は掛かっていないだろうと思ったが、それ以上暴れて逃げ出そうとしても無駄なことを感じ、居直った。どうとでもしてみろという思いで彼を見ると、彼は苦々しい顔で、しかし笑っていた。

「見かけによらず勇敢なんだな。というよりも無謀だな。外に見張りはいるに決まってる」

「殺すなら殺しなさいよ!」

「潔いのはいいが、あまり得にはならん。だが、悪くないな」

 グロリアは情けなくなってきた。ぶつけようとした感情がかわされてしまったように感じ、気が萎えてしまった。すると何やら考え込んでいた彼は、ぶしつけにこんなことを言い出した。

「殺すには惜しくなってきた。よし決めた。おまえを私の女にしてやる。どうだ」

 さも良いことを考えついたかのように彼は言うが、グロリアは眉をひそめて首を横に振った。何という馬鹿な自信家、何を考えているのだろうといろいろと想像してみたが、良いことは全く無いように思えた。

「好きな男がいるからか」

 グロリアはまた首を横に振る。そして小さい声で、しかしきっぱり言った。

「あなたが嫌いだからよ。殺された方がましだわ」

 マーセントリウスは笑い出した。何がおかしいのだろうと訝っていたが、彼はそれはいい、と言い、

「こんな威勢のいい女とは思わなかった。まあいいだろう。おまえは私の館へ連れて行く。よし、すぐ行こう。父上達もおまえの扱いをめぐって揉めているようだし」

 そう言って彼は彼女の手を掴んで引っ張っていった。


***

 王宮にも劣らぬ贅を尽くした一室で、その男は垂れ幕の半分下りた天蓋の下、ゆうゆうと玉座に似せた椅子に座っている。部屋には彼とその息子以外誰もいない。誰もが恐れるその人物を、恐れるどころか、どこか軽蔑した態度を見せる息子に対して、いかにも寛容な様子で、その男は座っている。

 息子は父の作り出した偽物の威厳をわざと意に介さない。まるで自室にでもいるかのように、その辺に飾ってある新しい鎧甲や盾、武器類を夢中で物色している。気に入った物があればそれは自分の物だとでもいうように。

 しかし、父に呼びかけられて、すぐに彼は視線を戻す。一段高いところにいる父を見る。彼はたった一段高いところにいるだけに過ぎない。だが息子は、この段上に上がったことは無かった。

「王女を連れ出したそうだな」

 父親は言う。息子は美しい剣の掛けてある壁際から離れないまま、ええ、と言う。

「殺すわけにもいかないでしょう。それなら私が預かっておきます」

「王女であることは間違いないのか」

「おそらくそうでしょう」

 そう言いつつ、ろくに調べたわけではなかった。

「前王が死ぬ間際、遺言を残した」

「知ってます。レーテルアル王女に王位を継がせろ、ってやつでしょう。そんなことは黙っていればいいじゃないですか」

「黙っていたはずなのに、何故そなたが知っておる」

は、なるほどとマーセントリウスは笑った。ちょっと調べればわかることだ。自分でさえそう苦労せずにその情報を入手した。他に陰謀を企んでいる奴らが知らないはずがない。

「でも、こうなって今更堂々と殺すわけにもいかないでしょう」

 再び言う。うむ、と父ゼドルズは不機嫌そうにうなずく。

「子供の時に殺し損ねて面倒なことになりましたね」

 息子がそう言うと、さすがにゼドルズ公は声を荒げる。

「王妃を殺したのはわしではない!」

 それからふたりとも黙る。何か、全てに対するむなしさのようなものが二人の間に走った。彼らがそれぞれに持っている虚構。だがふたりとも敢えてそこからは目をそらす。今言っても仕方のないことだ。このむなしさに取り憑かれたらどうなるかわかっていた。王兄ゼドルズは、占いの結果、なんぞの理由で不当に奪われた長男としての権利を奪い返す。それは当然のことだからするまでである。


 二人は話の向きを変えた。利害が一致したのでグロリアはしばらくマーセントリウスのもとに置くということに話が決まり(決まらなくても彼はそうするつもりだったが)、それ以上の父親の陰謀への荷担はきっぱりと拒否し、息子は父の館を辞した。


***

 マーセントリウスは自分の館に帰ってくると、すぐにグロリアのいる部屋へ行く。部屋は殺風景で、粗末ではないが決して快適な場所には見えない。女性の部屋らしくカーテンを新調するなり、良いタペストリーを持ってくるなり、何とかするべきかと思いつつ、グロリアが全く気にしていない様子だったのでそのままにしてしまっていた。だが彼の部屋も似たようなものだ。

 グロリアは落ち着いた様子で部屋に居座っていて、特にどのようなポーズを取るでもなかったが、ごく自然に自分の居場所を作って落ち着いてしまう才能があるようだった。もうずっと前からここにいるかのように。彼女は自分達とは違う、と彼は感じた。

 しばらく彼女を見ていたが、マーセントリウスは言う。

「部屋に閉じこもってるからそんなに顔色が悪いんだな。ちょっと来い。外に出る」

 彼がさっさと出ていくので、彼女は大人しくついていった。


***

 久しぶりに外に出た。外は晴れていて、空気が澄んで気持ちよかった。ゆるやかな風が吹いてくる。髪が風に吹かれて揺れるのを感じる。ハザラントから地理的に少し北上し気候も違うのだろう。

 館はとても大きく、白く塗られ、見たこともない程立派だった。そして外は手入れされた古式の庭園が有り、その区画は細かい。その外はどこまでも続くかと思われる草地で、畑があって、まだ先もあるが塀も見えない。ひとつの村なのではないかと思うほど広々として、丘や小川が有り、近くに森が有った。敷地の中に丘や川が有るのではなく、一帯を切り取って自分の敷地にしたにすぎない、それも前の住人の館をそのまま使ってるだけ、と彼は言う。畑は村から人が来て耕しているのだという。

 随分と金持ちで、若いのに独り立ちした権力者なのだなあとグロリアは驚いた。こうして見るとマーセントリウスも普通の人なのだけれど。


「ここはどこなの?」

「どこ、とは」

「何の説明も受けてない。都の近く?」

「ここは東トゥルンザーベルクだ。王宮は西トゥルンザーベルクにある。馬で行けば一日かからないな」

「家族と住まないの?」

「父はこの近くに住んでいる。母は死んだ」

 グロリアはちょっと驚いた。彼にも母親がいないのか。そういえば変な噂を聞いたような気がするのだが。思い出せないでいると、彼が自分で言い出した。

「隠し子と言われるが、母は正妻だった。体が弱かったから、外国の実家へ戻って、私を生んですぐ死んだ。そのまま私は母の実家で育ったんだ」

 彼はずっと南の方角を指して、

「うっすらと、見えるか、あれがシュルンの山脈だ。あの向こうが南の国だ。私はあの向こうで育った」

 確かに山が見えた。ということは、その手前、右の方の森の中にハザラントがあるのだろうか。グロリアの育ったハザラント。一瞬懐かしさが胸をよぎる。しかし同時に、そこで一生を終えるかもしれなかったことを思うと少しうんざりした気持ちになる。それはあの地が彼女にとって「通過点」となってしまったからだろうか。いや、そう思うのは傲慢ではないか。


 丘の上を風が吹いていく。草木がざわめく音しか聞こえない。ふと心細くなる。大きな、とても大きすぎて立ち向かえないものの中に一人で取り残されたような気がする。マーセントリウスと自分の他に誰もいない。しかし、彼もまた彼女の身内でも味方でもない。だから彼女は一人ぼっちだった。

「おまえ、強くなれよ」

 彼はふいにそう言った。意味がわからず、伺うようにその顔を見る。眉間に皺。不機嫌そうで、感じが悪い。しかし目に悪意が籠もっているわけでもなく、むしろ、案外真面目で、純粋そうな目をしている、とグロリアは思った。

「弱いのを売り物にする女は嫌いだ」

 彼はそう言って、また歩き出した。

 グロリアは急いでついていった。

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