第一章 はじまりの章 第11話
それからサナフィーニが来た。暗い顔つきだった。どうしたの、と聞くと、彼女は決心が付かないようだったが、ようやくグロリアの隣に座り、言った。
「あなたテルーのことを愛してるの?」
グロリアは何も言わずにじっと彼女の顔を見た。グロリアの表情からは何も読みとれなかったのだろう、戸惑った様子を見せながらサナはまた言った。
「どうなの? 愛しているの?」
グロリアは困ったが、別に、とつぶやく。
サナフィーニはあからさまに気の抜けた様子を見せたが、それから続きを言おうとしない。できれば言わなくてもわかってほしいのかもしれない。しかしグロリアは黙って彼女を見ていた。サナは仕方なく言った。
「あなたはわかってると思うけど、私はずっとテルーが好きだった。ずっと、大人になったら結婚するんだって思ってた。フレイル・セザルディーンは親同士の決めた婚約者だけど、彼は私に結婚を申し込んでくれたわ。断っても断っても。もしあなたが私だったらどうする?」
グロリアはちょっと考えてみたが、「わからない」と言う。とうてい彼女にわかるわけがなかった。
「正直ね」とサナフィーニは完全に緊張が解けたように笑った。「あなたみたいな人初めて」
それから思い出したように、
「そういえばセザルディーンがあなたにちょっかい出したんですってね。テルーがやきもきしてたわよ。あの人、ちょっと可愛い子を見るとすぐああなのよ。あなたぐらいの美人なら放っておかないわよね。でも、すぐに信用しちゃだめよ。愛してるってのが彼の口癖なんだわ」
サナは笑っていた。そんな事を言いつつ、彼のことが憎めないようである。そうやって、ふらふらしながらもずっとサナフィーニに求婚し続けたということは、いつも彼女のところへ帰ってきたのだなとグロリアは思った。
多分、今でも彼はサナフィーニを愛していて、彼女にもそれがわかっているのだろう。だが彼は彼女の為に身を引こうとし、そして、あぶれてしまったグロリアをつれていこうとした。自分がふっきれる為でもあったのかもしれない。でも、多分優しい人なのだ。グロリアをだましたわけではないと思う。本当に彼はグロリアをかわいそうだと思ってくれたのだ。
テルーはどうなのだろう。そう思うと少し心にひっかかるものが有った。サナフィーニに対して後ろめたいような。しかし、その気持ちを振り切る。
どちらにしても、サナフィーニは幸せになるだろうなと思った。
***
テルーはそれから連日グロリアの部屋を訪ねてきて、一緒に過ごすようになった。これまでより親しげで、優しい態度をとって、それまでそんなことはなかった無かったのに、ふたりきりで、サナフィーニや従者も部屋に入れることなく、一緒に食事をとった。ひとりでいることに慣れすぎて省略していた祈りの習慣を彼は彼女に身につけさせ、指導した。公用語はほぼ完璧で、読み書きもきちんとできることを知って彼は感心していたし、国教の聖典や典礼について教え、グロリアの知識の間違っていたところをひとつひとつ訂正してくれた。田舎育ちにしてはいい教師について学んだのを悟ったのだろう、あなたなら都に来ても通用すると請け合ってくれた。請け合ってくれても、グロリアにしてみれば彼の言う意味がわからない。都というのは東の国の都のことか。そんな遠くへ行くつもりなどこれっぽっちも無いのに。しかし彼はずっと年上で、子供にはわからないいろいろな考えが有るのだろうとグロリアは思った。
毎日顔を合わせると、特に深い話をしなくても相手への安心感は増す。多分彼にとっても、無口なグロリアが相手であっても、親密に感じるようになったのかもしれない、とグロリアは思った。はじめは他人である彼女に無関心そうだった目が優しくなり、厳しかった口調も和らいだ。姫、と彼女に呼びかけるのには慣れなかったが、あなたは特別、という意味でもあることを理解はして、身分の高い人なのだろうに、ずっと年下の少女を尊重する意志を見せた。
誠実、という言葉が彼女の頭に浮かんだ。勤勉で真面目で誠実。王族や爵位を持つ貴族など高慢で悩みもなく生きてるのだろうと思っていた。そうでもなかったのかもしれない。彼は毎日彼女に聖典を教え、聖句を覚えさせるようになった。うんざりするほどだ。しかし彼にしてみれば、小さな城に閉じこめられた彼女が退屈しないよう懸命に気を遣い、楽しませているつもりだった。彼女がよくできたときは驚くほど喜んで、親身になってくれているのは彼女にもわかってきた。
しかし、テルーのことが好きだと言ったサナフィーニのことを思うと。テルーにほったらかされている彼女を思い出してグロリアの胸は痛む。単に彼は義務を果たそうとしてくれているだけだろうが、それでもサナは苦しい思いをしているだろう。安心させてあげたい。
グロリアはある決心をして自分からテルーを訪ねて行った。テルーが義によってグロリアを助けようとするのと、彼との関係性は別物であるべきだ。だから、グロリアの為にもめ事が起こるのは望ましくない。グロリアにはグロリアの立ち向かっていかなければならないことが有る。この平和な世界を手放したいとは思わないけれど、遠からず起きるに違いない危機から、サナフィーニを守る必要も有った。だから、今後の方針はテルーに任せきりにするのでなく、話し合って決めていかなければならない。
「相手がゼドルズ公爵だとここに隠れていても安全とは言えないのではないの?」
グロリアが言うと、
「確かにそれはそうだが、彼らも外国では騒ぎは起こせないだろう」
「もっと軍備の整った大きな城へ移れないの?」
「え?」
彼のすることに口出しをしてくると思っていなかったのか、テルーも、従者も皆驚いている。彼らからしたら女のくせに、とか思うのだろうか。テルーは従者たちを全員部屋から出した。グロリアはそれもあまり気に入らない。
「この辺りで、私を保護してくれるもっと強い人につてはないの?」
「……大事になる。外国に私のつてはない。父には頼めない」
「ブラウエン領主は? 味方なんでしょう?」
「彼も難しい立場で……国境を守っているのは彼でなく別の公爵で、仲立ちはしてもらえると思うが、何をもって交渉するか、そこからになるし。何故そんなことを?」
「ここには兵がいないじゃない。戦えなくない? あなたにも兵力は無いし、籠城の準備も無いでしょう?」
「……今は隠れてるだけでいい。戦える相手じゃないから。私個人の領地まで行けば多少安全だが、ここからだと北の国を通らないといけないし、東の都より遠い。今配下を呼び寄せているところだから、折を見て移ったほうがいいとは思っている」
しかし、東の王子が北の王女を匿っているのを知られたら非難され、返還を要求される。事が公になると、テルーはおそらく東の王の命令で王女を差し出さねばならなくなる。王も大国を相手にしたくないのだ。本当のことをいうと彼一人で対処できることではなかったのだ。
「サナフィーニのことをどう思っているの」
突然彼女がそう言うので、テルーは不意を突かれて驚いていた。女性なのに男の領分に口出しをして、突飛なことを言い出すと思ったら、今度はそんなつまらないことを、と内心苦々しく思う。サナフィーニに何か言われたのか、と尋ねた。
「彼女が私に何を望んでいるかは知っている。彼女にはすまないと思うが、その気持ちに応えてやるわけにはいかない」
グロリアはじっと彼を見つめながら、
「何故。私が現れたせい?」
「そういうことになるかもしれない」
グロリアはそれを聞いて青くなった。どういう意味だろう。いや、自分はどういうつもりで聞いたのだろう。
だが彼女が言葉に表そうとしないから、テルーは理解に苦しんだ。
「何か誤解してるんじゃないか? 私は何も、過去に一時期婚約者だった人に会ったからと言って、それだけの理由で自分の気持ちまでは変えたりしない。確かに、以前は、いずれサナの気持ちに応えてもいいかもしれないと思っていたけれど」
テルーは言葉を選ぶようにして一旦口をつぐむ。それから、
「私の気持ちはわかっているはずだ」
わからないが、わからないと言ってはいけないような空気を感じた。
「サナに同情するのはやめるんだ。あなたがいなくなったところで代わりに彼女を愛せるわけじゃない。あなたを手放したくないと思う」
「え……どうして」
「あなたにこそわかって欲しい。許嫁と言ってもあなたは世間では亡くなったと言われている。婚約もとうに無効だ。無視していい。でも私はできればそうしたくない。私の希望は全部言った。それであなたはどうなんだ」
どういうわけか、彼は責めるような口調になっていた。睨むようにグロリアを見て、少し興奮していた。恐ろしくなって、目を背けてしまう。だが彼はしつこかった。
「いずれ結婚したいと思ってる。初めは他にあなたを助ける人がいないから、私にできることだけはしてあげたいと思っていた。ただそれだけだった。今は違う」
「……」
何か言うべきだろう。しかし、戸惑って、どうしていいかわからない。
「今すぐということではない。あなたはまだ若いし、劣情でこんなことを言ってるわけではない。それは誤解しないでほしい」
「……だって、私のこと愛してもないのに」
グロリアがやっとそう言うと、テルーはとうとう感情を抑えきれなくなって、
「何故? 愛してる。こんなことははじめてだ」
もちろん、彼は言うつもりなど無かった。育ちも良く、分別もあったし、こんなにも若い少女に向かって、いくら見たことのないような、輝くような白い肌の、高貴な黒髪の、神秘的な黒い瞳の、絶世の美女とはいえ、愛の告白など常識的でない。しかし、彼もまだ十八で、わき上がる情熱は激しく、それを胸に秘めておけるほど大人ではなかった。
「あなたが野原で眠っているのを、はじめて見たときから多分、いくら否定しても、あなたの姿が頭から消えなかった」
「……」
言葉が出ない。望んでいた言葉ではなかったのか。しかし、まさか、と思う。信じられない。
「でも、全然あなた、私に何も言わないでいたし、関わりたくないみたいだった」
「私の気持ちが信じられないか。どうなんだ。それでも出ていきたいのか? サナもセザルディーンも関係ない。私が大事なのはあなたなんだ。それでも私よりセザルディーンの方がいいのか?!」
「そんなこと信じられないし……」
「どうしたら信じる? セザルディーンのようにしたらいいのか?! そんなことであなたは愛を測るのか?! そんなに言うなら、命だって差し出せる! ここまで言わせて、あなたはどうなんだ!」
怒鳴りつけられて、グロリアは生まれて初めて泣きそうなまでに怯えた。気付くと半分立ち上がり、後ずさっていた。愛しているなどと言われたのは初めてだったが、こんなに恐ろしいことだとは知らなかった!
逃げ出すように部屋を出てきたが、それから自分の部屋へ帰り、一人泣いていた。彼の言葉を思い出しながらずっと泣いていた。
***
或る午後。夏至も近いというのに肌寒かった。外は風が有るみたいで、ごうごうという音が森に響いている。雨でも降り出しそうだった。時折雨戸がぎしぎしと音を立て、不気味な感じがした。
グロリアは一人で部屋にいたが、息が詰まってしかたなくなり、これならばいっそのこと外の嵐にでも当たっていた方がよい、とさえ思って、部屋を抜け出した。
テルーはサナフィーニを選ぶとばかり思っていたのに。彼はグロリアのことなど何も知らないのに。それなのに何故。テルーの気持ちは本当のことと思えなかった。単に彼が自分でそう思い込んでいるだけなのではないか、とか、しばらくしたら彼も軽はずみな発言を後悔するかもしれないとか、様々なことを考え、庭を歩き回っていた。
その時、城の裏手から女の悲鳴のような声が聞こえた。聞き違いかと風の中に耳を澄ませたが、もう何も聞こえない。少し胸騒ぎがして、辺りを見回した。木陰に身を潜めて、様子を窺ってみる。あの声は誰だろう? 聞き間違いなら良いのだけれど。彼女はそのままじっとしていた。相変わらず雲行きが怪しく、辺りは薄暗くなっていた。雨が来そう、と思った。するとその時、煉瓦の塀に穴があけられているのに気づく。
城から人が出てくるのが見えた。よく見ると、辺りを窺うように出てきた赤い覆面の男の後に、仲間と思われる一団がぞろぞろ現れ、合図しあいながら行ってしまおうとする。そして彼らは、気を失った女を抱えている。それがサナフィーニだと気付いて、仰天した。思わずグロリアは物陰から飛び出していた。
強盗達は一斉に振り向き、彼女の方を見た。
「その子を放して!」
グロリアが駆け寄ろうとすると、いつの間にか現れていたテルーに捕まえられた。振りほどいてサナの所へ行こうとするが、彼は放さない。
「行くわ。その子を傷付けないで」
「姫、逃げるんだ」
テルーは何かグロリアに向かって必死に喋り掛けていたが、彼女は聞いていなかった。そうこうしているうちに取り囲まれてしまう。後から来たテルーの従者たちは完全に後れをとっていた。テルーが剣を抜いたのがわかったが、相手は十人はいて、到底太刀打ちできないだろう。その上覆面の男はサナフィーニの喉に短刀を突きつけ、それ以上抵抗することは不可能だった。このためにグロリアを守りきれないテルーの悔しさは一生彼についてまわっただろう。どうにもできなくなった彼に向かって、一人が斬りかかってきた。応戦はしたものの、サナフィーニの命と引き替えにグロリアを渡すわけにもいかず、葛藤の最中彼は斬りつけられる。その血飛沫を見た途端、グロリアの中で何かが弾け飛んだ。
「その子を放せ!」
グロリアは命令するように言った。
「その子ではない。今すぐ放さないと私はこの場で死ぬ!」
出てきた言葉は北の国の王都トゥルンザーベルクで話される標準語だった。彼女は覆面の男を睨みつけた。そこにいた誰もが一瞬動けなくなった。
彼女は頭の中で何を考えていたわけでもなかった。まったく賢いことも言ってない。しかし恐れはなく、ただ自分のすべき事をそのまましたに過ぎない。男を睨みながら、一歩一歩近づいていった。
一体、これがあの人なのだろうかと、テルーは我が目を疑った。強がって演技しているようではない。背筋を伸ばし、恐れるどころか悠然と、優雅にすら見える足取りで進むその様は、まさに生まれながらの王族、こんな少女がまさか持っていると思わない、高潔さと威厳で、一瞬確かにその場の人間は皆圧倒された。
テルーも傷は決して浅くなかった。だがまだグロリアを止めようとする。しかし立ち上がることもできず、直ぐにも意識を失いそうだった。
覆面の男がサナフィーニを放すと同時に、グロリアは捉えられた。
私のことは忘れていい、と彼女は言った。彼女の目はテルーを見ていたが、もうその目は固い決意を秘め、テルーのもとへは戻ってこない。そういう目だった。
グロリアはすぐに彼に背を向けた。
同時に、彼は崩れるように倒れた。
長い悪夢の末テルーは目を覚ます。しかし、そこには更なる悪夢が有ることを、テルーは目覚める前から知っていた。
左腕に激痛を感じ、気付くと寝台にいた。サナフィーニが泣きながら抱きついてくる。姫は、という言葉が自然に口をついて出る。彼女は泣きはらしたような目できっと睨みつけ、怒鳴る。
「どういうことなのよ。あなた死にかけたのよ。どうしてグロリアのせいであなたがこんな目に」
サナが助かったことにほっとしつつも、彼らには事情が話せない。ただ大丈夫だと慰める。妹のような子を危険な目に遭わせてしまった。王に知られたくないばっかりに、ここに引き留めて滞在させたのは自分だ。
自分の考えがすべて甘すぎたとわかった。ぼんやりした頭で従者たちを呼び寄せ、話を聞くと、彼が金を出して雇っていた傭兵部隊は殲滅、テルーの領地から呼んだ兵も間に合わなかったのを知る。
見ると腕にはぐるぐると包帯が巻かれていた。指を動かすだけで腕全体に激痛が走る。その上、全身が熱っぽくて、だるかった。
彼女を助けられなかったのだ。彼女を一人で行かせてしまったことに絶望しそうだった。
「死ぬかと思ったわ……本当に。あなたが死んだら私」
サナは怒りを忘れて泣き出した。
グロリアが死んだら自分はどうするだろうか。いや、このまま終わらせはしない、と彼は考える。必ず助けるのだと誓った。何を失っても、自分が殺されることになっても、それでも。自分は彼女を助けるのだと。命を懸けて。
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