第一章 はじまりの章 第10話

 その夜、珍しくテルーが部屋に訪ねてきた。考えてみたらほとんど彼と二人で会ったことが無いのでグロリアは戸惑った。しかも彼はあまり機嫌が良さそうではない。

 何を言うかと思ったら、

「あまりああいう男に近寄るんじゃない」

 と唐突に言う。グロリアは黙っていた。そのことを言われるという予想はしないでもなかった。

「あなたは情に脆すぎる。ちょっと優しくされたくらいで簡単に気を許すんじゃない。彼はつい最近までサナフィーニに執着していたんだ。そういう男なんだ。わからないのか」

 グロリアはしばらく彼を見ていたが、

「あなたには関係ないでしょう」

と言って、顔を背けた。テルーはやはり気を悪くしたらしいが、心配しているんだ、と言う。

 しかしグロリアはその言葉を聞くとかっとなった。

「あなたに心配されるいわれなんて無い。放っておいてよ。私もうここにはいたくない。家に帰るわ」

 努めて平静を装って言ったが、声は自分のものと思われない程ぴりぴりとして怒気を孕んでいた。それに呼応するかのようにテルーの機嫌も悪くなった。

「勝手なことを言わないでくれ。全てあなたの為じゃないか。こちらだって巻き込まれて大変な思いをしているんだ。サナフィーニだって……」

 だが彼は言いかけて途中でやめてしまった。サナフィーニだって? 彼女も迷惑してるというのか。

「あなたにはサナフィーニがいるから私が邪魔だっていうのね。だったら私を追い出せばいいじゃない。どんな義務が有るって言うのよ。それでいて人の個人的なことにまで口を出して」

「では、あなたは彼を愛してるとでも? 彼の何処を? 本気で結婚するつもりなのか?」

 グロリアは一瞬ひるんだが、構わなかった。

「いずれにしてもあなたには関係ない。いちいち構わないで。私があの暗殺者に殺されたってあなたの知ったことじゃないでしょう! こんな風に縛られるのはもう嫌! あなたのやってることは全部迷惑よ」


 言ってしまってから彼女は自分で驚いていた。こんなに言いたいことを言ってしまう人間だとは自分で思っていなかった。そう気付くと、戸惑って、それ以上何も言えなくなってしまった。謝ることもできず、どうしていいかわからずに、座っていた。これまで一度も人に対して何かを言い返したり、怒鳴りつけたり、反抗したりしたことは無かったし、そんな気にもならなかった。いつも流されるだけ流されて、本当のことは自分一人が知っていればいいと思っていた。しかし今日はどうしてかいつものようにいかない。自分が自分の思い通りにならなかった。

 自分は冷静でいなければならない。なのに。思い通りにならない。そんなことを認めるのは嫌だった。何とかその感覚を追い払いたかった。どうかしている。自分の考えで自分を抑えなければならないとは。

 いや、この自分の考えというのは、冷静でいなければならないというのは、周囲の意志によって出来たものだったのかもしれない。大人しくて、無口で、慎み深く、おっとりして、というような、他人が今まで見てきたグロリアを、長所も短所もひっくるめて全部自分らしさと思い、それに従うのを自分の美学としてしまってはいないだろうか? そして何故自分はそれがわかっていながら改めようとしないのだろう。何故かこの「自分」を、今更捨て去ることができない。現に今も少しの動揺も見せずに無表情でじっとこうしているのだ。

 テルーに酷いことを言った。だが、謝ることができない。どうしても本心から謝りたいという感情が湧かなかった。早くもここで自分のやりかたの欠点に突き当たった。一体、この世に申し訳ないとかいう感情があるのだろうか。自分は自分のことで喜んだり悲しんだりはできても、他人に対して心をかけるということができないのではないか。世の中にあるすべての善いものの、全てが偽善のような気がした。本当に他人のことを思いやれないのに、言葉だけ謝るということをしてはいけないように感じた。そして開き直っている!

 無表情、無感動、どうして自分はそれに執着するのか。自分を、自分にも他人にも隠す。そうなのだ。どうして隠さねばならない?

 ……しかし、ここで止まってしまう。自分は本当の自分がわかってはいけない。他人は私を知ってはいけない。何故なのか? それでも私はそれをやめることができない。


 グロリアは絶望しそうになって、急に目の前のテルーの腕を掴んだ。そこで突然、それまでの、何かをぶちまけたい気持ちが収まった。

 信じられないくらい心が静まった。当然のことながら、テルーはグロリアの心が先程からどう変化していって、どこに陥ったかわからなかった。

 グロリアは彼の腕を掴んでしまったままじっと彼を見つめている。いつもだったら、テルーも随分年上なのだし、少しくらいこの少女の混乱を思いやって優しくしてやれたのかもしれない。しかし、今の彼にはそんな気持ちになれなかった。彼もまた若かったし、繊細で傷つきやすい人間の心に敏感ではなかった。彼はそのまま部屋を出ていってしまった。


***

 テルーは礼節を保とうと最大限の努力をしているつもりだった。彼女を王女として扱わねばならない。馴れ馴れしくしてはいけない。しかし、まだ幼げなので、保護者として最大限のことをしてやらなければならない。男が寄ってきたら追い払ってやらねばならない。

 彼女に心配をかけてはいけない。命を狙われていると言って恐れさせてはいけない。父王も国も通していない。彼が個人の意志で彼女を保護することにした。子供の頃許嫁だったからだ。幼い頃の幼い考えとはいえ、顔も知らずに、一生北の王女を守り、決して裏切らないと誓いを立てたからだ。彼女と結婚する予定は消滅してしまったが、他に彼女に頼れる者がいない今、自分が彼女を守るしかない。責任を感じている。しかし、彼女には何も義務は無い。変に下心を持っているように見せては彼女も不快だろうから、できるだけ他人行儀をつらぬく。彼にしてみれば一貫して筋が通っている。うまくできていなかっただけだ。


 その後、またテルーがグロリアのところを訪ねてきた。あまり先日のことにはこだわっていない様子だったけれど、彼も考えを改めたようだった。もうあなたにも説明した方がいいと思う、と彼は言った。

「あなたを誘拐しようとした男は、あなたの国の者だ。北の国が今どういう状況か、少しは知っていると思うけれど」

 ええ、と言いつつ、実はよく知らないし、自分の事に関係すると思ったことは無かった、王都の政争のことを彼は話し始めた。

「北の国の王はあなたの父上だけれど、政治の実権を握っているのは王の兄、ゼドルズ公爵だ。彼は前王に嫌われて王位につき損なったが、日々王位を奪う隙を窺っていた」

「知らなかったわ」

 突然そんな話をされても、困る。まず自分が王の娘なんてことから、初めて彼に言われた。いきなり言われても信じられないし、信じられるわけがない。彼が憶測でものをいってるようにしか思えなかった。バール氏だってそんなことは一度も言ったことがない。

「そうか。王には子供があなた一人しかいない。病弱な王妃にもう子供が産めないとわかって、隠居していた前王が、彼の信頼する巫女の予言であなたを次の王位継承者にしようとした。ゼドルズ公爵は当然反対して、自分の権利を主張した」

 東の王子であるテルーと北の王女グロリアの将来の婚姻が両国の間で決められていたが、それもまた公爵が王女を国外へ出し王位継承権を剥奪する目的の婚約だったという。身を乗り出してきて、テルーは彼女に向き合った。

「東の国は、あなたの国からしてみれば弱小国だ。強大な力を持つ北の国に逆らうことはできない」

 グロリアが反応しなくても、一度言葉を切って、続ける。

「東は利用されるだけ利用されるしかなかった。つまり、後になってわかったんだが、公爵には隠し子がいた。そういう算段だったんだ。突然公爵の息子が外国から呼び戻されたのはあなたが失踪して三年程経ってからだ。言っていることがわかるか」

「うん」

「当時は、北の国の都で凄惨な争いが有ったんだ。城の内外、派閥に別れて、暗殺も日常茶飯事だったという。勢力が単純に二分されていたわけでもなくて、毎日いろいろな立場の者がいろいろな理由で争い、殺しあい、そしてついに、あなたにまで害が及ぼされようとして。あなたを庇った王妃が命を落とされた」


 はっとした。淡々と話すから、聞き逃すところだった。グロリアはテルーを見る。本当のことだと彼の目を見てわかった。そして突然彼女の脳裏に、様々な光景が蘇った。

 グロリアは思い出していた。しかし、あの時何が有ったのか理解できなかった。ただ自分が、血飛沫を一身に浴びたのを思い出した。その前後の記憶は無い。

 しかし、失われていた日々の光景の断片を一瞬にして見た。確かに彼女には母親がいた。王女だったかどうかはわからないが、姫と呼ばれ人々に大切にされた。何故これまで思い出せなかったのかわからない。そして、彼女の母は彼女の目の前で。

 そこで、彼女は頭を抱え込んでしまった。もう思い出せない。思い出せない。

 肩を叩かれて、目を開けると、全身が重く、頭痛がした。今日はもう話すのをやめると彼が言ったが、グロリアは首を横に振った。

 大丈夫だ、自分はきっと大丈夫、と自分に確認した。

「心配しないでいい。必ずあなたを守るから」

 テルーは今日は優しかった。涙が出そうだった。


***

「あなたは命を狙われて、王妃の死後召使い達によって王宮から連れ出され、たまたま通りかかったバール家へ託されたらしい。あなたに付き従っていた者達は追っ手や吹雪のために皆散り散りに。それから争いも収まった。だが、最近になって、病気で隠居していた前王が亡くなられ、その際次期王位継承はレーテルアル王女に、と言い残した。彼女はまだ生きている、と。また争いが起きようとしている」

「私のせい」

「違う。あなたは利用されているだけだ。だから、あなたがそこに巻き込まれるのを阻止したい」

「私は殺されるの?」

「それは無いと思う。あなたを狙った男は多分ゼドルズ公爵の手の者だ。殺そうとしなかった。連れ戻すのが目的だろう」

 そしてゼドルズ公の息子と結婚させられるのだろうか。

「だがあなたを渡しはしない。どうあろうと、あなたは私の許婚なのだから、私が守る」


 守る、と彼は言った。しかしそれは、彼がとても責任感の有る人間だからだと思われた。彼は本当はこんなことに巻き込まれたくなかったと言っていたし、サナフィーニにまで害が及ばないとも限らない。それなら、グロリアとしてはテルーに頼ることがためらわれた。東の国の人々は北の国の内紛に巻き込まれることを嫌うだろう。だからテルーは東の国ではなくここへグロリアを隠したに違いなかった。彼は親切な人なんだろうけれど、おそらく非常に真面目で、どういう形であれ婚約者だった女性に対して筋を通そうとしている。

 しかし、ただのわがままなこだわりだとわかっているけれど。本当は、義務だから、ではなく、グロリアだからと言って欲しかったと、自分で認めざるを得ない。間違ってもよく知らない男に自分に恋して欲しいのではない。ただ大事な子だから、と言ってほしい。ただそれだけの言葉の為に、他の何が失われても構わないような気持ちがした。

 しかし一方で、自分がそれだけの価値の有る人間であるとも思えなかった。テルーはサナフィーニの大事な人であり、サナフィーニはテルーの大事な人だった。グロリアは何でもなかった。はじきだされてしまった気がした。

「あなたに迷惑をかけたくない」

とグロリアは言った。

「サナを守ってあげて。私はいいから。だって、これはあなたの国には関わりの無いことだわ」

 努めて好ましそうな口調で、ゆっくりと言った。大分気持ちも落ち着いていた。今まで良くしてくれたことを彼に感謝する気持ちにさえなっていた。わずかに笑いかけようとしたら、彼は驚いたような、次いで痛ましそうな顔をした。

 彼は首を横に振り、何か伝えようとした。それから黙ったまま手を伸ばし、彼女の手を取って、じっと見下ろした。寂しそうな目をしていた。その目にどきりとして、見つめていると、彼はそれ以上どうするでもなく、彼女の頬を撫でた。長いことそうしていた。ふと、あの野原で気を失って、テルーに抱きかかえられていた時のことを思い出した。今更どきりとした。彼の目はいとおしげにグロリアを見ていた。

 しばらくそうしていて、そんなはずはないとうち消そうと思っても、彼がこれまでにない感情を彼女に対して向けているように感じられてならなかった。

 それから、外には出ないようにと言って、彼は部屋を出ていった。

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