第一章 はじまりの章 第9話

 テルーは結局いてもいなくても一緒だった。どこにいるのかもわからないし、滅多に会うこともなかった。サナフィーニも何故か帰されることもなく、今までと何も変わらない。誰もあれ以上何も教えてくれないし、一生この生活が続くのではないかと思われた。何より嫌なのが、サナフィーニがテルーと親しいということだった。たまに見かけるとテルーは大抵サナフィーニと一緒にいて仲良さそうにしていた。二人がどういう関係だろうと別にグロリアの知ったことではなかったが、そういう光景をいつも見ていると、何か孤独感のような、同時に、これは多分そうだと思うけれど、嫉妬心が起こるのが自分でわかった。それに気づくと彼女はそれを隠すように二人から目をそらしてしまうのだ。

 テルーに恋心を持っている訳ではない。そうではなくむしろサナフィーニへの友情の方がグロリアを悩ませていた。サナフィーニは相変わらずグロリアと仲良くしてくれるが、何だか以前のようには面白くなかった。


 このモーデレト城にまた誰かがやって来た。グロリアは一人で部屋にいて、城主の本を読んでいた。この珍しい本というものは、一冊一冊手書きで作成されていて、ハザラントのような田舎にはあまり無かった。この城には驚くほどたくさんの書物が有って、これのお陰で退屈することは無かった。彼女は公用語も古語も読めた。城主の部屋に本があったことが気になって、召使いに頼んでみると、案外簡単に貸してくれたのだ。


 さて、そのように彼女が本を簡易テーブルに広げて楽しく見入っていると、城の中が騒がしくなり、来客のせいだろうかと思っていたら、しばらくして、ばたばたと廊下を駆けてくる足音がする。突然サナフィーニが部屋に飛び込んできた。

 息を切らして入ってきた彼女の顔は真っ青で、今にも泣きそうな様子をしており、グロリアは驚いた。どうしたの、悪い知らせでも、と聞くと、サナフィーニはわっと泣きだした。

「本当に悪い知らせだわ。一体どうしたらいいの。ここがわかってしまうなんて」

 更に彼女がわんわん泣くので、グロリアは困ってなだめようとする。するとそこへテルーが入ってきた。彼はグロリアと目が合うと、困ったような様子で、失礼します、こちらのことなので、と、サナを部屋から連れ出そうとした。彼女は嫌がってグロリアにしがみつき、めそめそ泣いた。こうしてみると彼女もグロリアと同じ程度には子供っぽく見えた。

 あまりのことに「何が有ったの」と聞いても、テルーはあなたには関係がないと言って教えてくれそうもない。それではサナを庇うことも、行くように説得することもできなかった。

 またグロリアは部外者だった。テルーはこれ以上口を開こうともしない。部外者。関係ない。彼らは彼らのドラマを演じていて、そこにグロリアを参入させるつもりはない。それなのに自分を巻き込んでくる。感情をもてあそぶ。彼女はサナフィーニを振りほどきたい衝動に駆られた。

 その時、開け放してあったドアから、一人の若者が乱入してきた。随分若くて、一応成人していそうなテルーと比べると大分年下に見える。少年の域を越えたばかりの、まだ何に関しても見習いであろう、背丈はあるが細い青年だ。

 彼は青ざめて、何か興奮しているようにも見える。憤っているようにも見える。悲しそうにも見える。

「ローデルライン様」

 彼はテルーに向かって言う。

「一体どういうことなんですか」

 何がどういうことなのだろうか。それから彼はサナフィーニの方を見る。彼女はきっと睨み返した。

「何しに来たの。私は帰らないわよ」

 今度は彼はテルーの方を見る。テルーはグロリアの事をしきりと気にして何か言いたそうだったが、仕方なく口を開く。

「サナが勝手に来たんだ。どうしてもと言うからここにいる」

「お二人が駆け落ちしたのだと」

「フレイル!」

 サナフィーニが怒ったような声を出した。テルーは冷静を保っていた。

「そうじゃない。兄妹のようなものじゃないか。遊びに来たそうだ。それだけだ」

「どう考えてもそれだけのはずがないでしょう」

「彼女はゼンロークの息子に付き添われて来た。一応公的な用事を持ってきてはいる」

「それは、令嬢がひとりで旅をするわけにいきませんからね。お従兄弟を隠れ蓑に、こんなに堂々と不義を企まれるとは。王子ともあろうお方が」

「何を言ってる。サナは、まだ子供じゃないか。そういった疑いをかけるのもどうかと思う」

「子供ですって。サナは髪上げの儀式も済ませた大人ですよ。それで宮廷に上がったんじゃないですか」

 サナフィーニはもう十五で、早ければ結婚する子もいる年齢だが、人によっては幼さの残る年齢でもあった。グロリアと違ってサナフィーニは大人びていて、背も高く、体型も大人の人のようだ。テルーは眉をひそめ、ため息を付いた。

「君は彼女と同年代だし、彼女を一人の女性として見るのかもしれないが、世の中の人間誰しもそう思うわけじゃない。君の感情を否定するわけじゃないが、私には関係のない話だ。つっかかるのはやめてくれないか」

 ようやくフレイルと呼ばれた男も自分を恥じたようで、赤くなって、それからようやく冷静さを取り戻し、少し目の色が変わった気がする。取り乱してご無礼をいたしました、申し訳有りません、と彼は言う。テルーは言う。

「これは君達の問題なのだから、二人でよく話し合って解決してほしい。ここは外国の、余所の城なのだし、騒ぎを起こさないでくれ。どこか別室へ……」

 テルーがそう言いかけると、サナフィーニが遮る。

「テルーは来てくれないの?」

「だから、私には関係ないだろう? 全くどうして君はそうなんだ。勝手な真似ばかりして……」

 そこへフレイルが口を挟んだ。

「では、サナフィーニを連れて帰ってもいいのですね?」

 サナとテルーが同時に意義を唱えた。

「それは困る。とりあえず君だけ帰ってくれないか」

 それを聞いて再びフレイルの顔色が変わった。なんなんですか、それは、彼女は自分の許嫁なのにと、再び彼が興奮しそうになるので、サナが怒って、小さい頃の口約束だ、親たちがいいと言ったのは本気じゃない、社交的なその場限りの返事だと彼にどなりつける。そんな風に、いつまでもてんやわんやでもめていた。

「やはり二人はそういう関係だったんですね。私は王子に逆らうつもりはありません。相手があなただったのがせめてもの救いです。あなた方が本当に愛し合っているのなら」

「いいからとにかく今は一度出ていけ」

 馬鹿馬鹿しい茶番にそろそろテルーも本気で切れかかって、グロリアの方を気にしながら、ゼンロークの息子はどこへ行った、おまえの従者はどこだと大人を呼び、フレイルを追い出そうとしている。どうやら彼にグロリアの存在を知られたくないのだろう。

「サナフィーニ……」

 何か言いかけながら、フレイルは彼女の方を見た。そして突然言葉を切った。3人の他に誰かいるということに今初めて気が付いた様子だった。興奮していて何も目に入らなかったのだろう。



 フレイルは彼女がどういった人間だか判断がつかず、戸惑った。若い侍女か、サナフィーニの友達だろうかと一瞬考えたが、彼女と目が合ってぎょっとした。どきりとした、というのを通り越して圧倒され、心臓が跳ね上がった。しばらく言葉を失う。

「そちらの方は……」

「彼女は関係ない! サナフィーニ、彼を連れていけ」

 テルーはどうにか彼を追い出そうと試みたが、彼はグロリアを見て立ち去りかねているようだった。テルーが必死に目配せをしているのに気付き、グロリアは部屋を出た。


「……どなたですか。やんごとないご身分の方のように見受けましたが」

 フレイルがすっかり気をそがれたように言うのを、グロリアは扉の外で聞いていた。

 テルーは黙っていたが、何を思ったかサナフィーニが口を開いた。

「北の国のグロリア・レーテルアル王女様よ」

 サナ、とテルーが慌てて遮ったが、後の祭り、フレイルの耳に入ってしまった。

「王子の許嫁の?! 生きておられたのですか?!」

 テルーは言葉に詰まる。


***

 テルーに口止めされ、事実を知ってしまったためにしばらくこの城に逗留することになったフレイルは、混乱したまま部屋を出て来たが、そこにグロリアがいるのを見つけて驚いた。

 一方のグロリアも驚いて、かあっと頭に血が上り、思わず走って逃げた。立ち聞きをしていたのを知られてとても恥ずかしかったのだ。

 フレイルはだが追いかけてきた。声をかけられて彼女はようやく立ち止まった。

「ごめんなさい、怪しい者ではありません。フレイル・セザルディーンという者です。東の国の……」

 彼はそう言いかけたが、グロリアはまともに聞いていなかった。自分でもよくわからない感情の波が襲ってきて、とうとう涙が出てくる。どうして自分が泣いているのかさっぱりわからなかった。彼女は自分の感情というものに慣れていない。恥ずかしさとわけのわからない興奮で目眩がした。

 フレイルは驚いて黙ってしまった。同時に、グロリアのあまりの美しさにみとれていた。こんな女性は都でも見たことがない。彼の崇拝するサナフィーニよりもずっとグロリアは美しかった。その彼女が泣いている姿は彼の心を打った。


 彼はじっと彼女が泣きやむのを待った。薄暗い廊下だったが、窓が開いていて、涼しい風が吹き込み、彼女の頬を細い髪の毛が撫でた。

 一瞬興奮しただけなのだろうか、彼女はすぐに泣きやんで、そっと顔を上げた。目が合って、フレイルは心臓を突かれたように感じた。それから彼女の目の美しさに引き込まれ、我を忘れた。なんて美しい人なのだろうと思った。涙がまつげにかかり、きらきら光った。すぐに彼女は目を伏せてしまった。その様子がとても痛々しく感じられた。


 グロリアは自分でもどうして涙が出るのかわからなかった。こんなに泣くのは初めてで、心中は悲しみよりもむしろ涙の出てしまうことへの焦りで一杯だった。もしかして自分はテルーに恋をしてるのだろうかと考えてもみたが、実感としてまったくそんなことはない。テルーに恋人がいるのは悲しくない。それよりも、サナフィーニ、大好きなサナフィーニが自分の方を見てくれない。泣きついてきたはずなのに、彼女はグロリアには目もくれなかった。あの場で彼女はずっと皆に無視されていた。サナはグロリアを頼ってきてくれたのではなく、他に逃げ場がなかったから来ただけなのだ。テルーにしても、グロリアには関係ないと言った。よそよそしい態度を崩さなかった。本当に、グロリアには何一つ関係なかった。サナは仲良しだと思っていたが、彼女には都へ帰ればもっと仲の良い友達がたくさんいるに違いない。テルーとグロリアの仲を疑って心を痛めたりもしているのではないかと心配してみたことも有ったのに、サナにとってそんなこと一切問題じゃなかったのだ。グロリアなど問題じゃなかったのだ!  そう思うと、再び涙がこみ上げてきた。


 幼い考えにとらわれてしばらく泣き、ふと気付くと、すぐそこにフレイル・セザルディーンが、まだ心配そうに立っていた。グロリアはようやく頭がすっきりして、涙をぬぐった。彼があまりに優しそうな目でそっと彼女を見ているので、彼女は恥ずかしくなってきた。

「お部屋までお送りしましょう」

 彼はそう言うが、グロリアは大丈夫と言って、慌てて背を向けた。泣いているのを見られてしまった恥ずかしさがまたこみ上げてきた。

 彼女の去っていく後ろ姿を、フレイルはじっと見送っていた。


***

 それ以来、フレイルは度々グロリアのご機嫌伺いに来るようになった。グロリアはサナフィーニとはあまり顔を合わせなくなったが、それはグロリアが彼女に近づくことに対して臆病になってしまったからかもしれない。だが会えば二人とも以前のように仲良く話したり、一緒に食事をしたりした。

 フレイル・セザルディーンは若くて親切で、たくさん話をしてくれた。彼によると、セザルディーンとサナフィーニはやはり親の決めた(口約束とサナフィーニは言っていたが)許嫁で、サナが大人になったら、できれば再来年くらいには結婚したいと思っていたのだという。まだサナも若すぎるくらいだけれど、それでもセザルディーンにとってはこの人と決めた相手で、ずっと求愛し続けていたらしいが、彼女はテルーに夢中だったのだという。

 いろいろ話をしているうちに、初めはいつも不機嫌に、返事もろくにしなかったグロリアの心も解けていった。男は皆テルーのようなのかと思っていたが、そうではなく、こんなに親切で楽しい人もいるのだと、そして自分に構ってくれる彼の存在を嬉しく思うようになった。


 それからしばらく経った頃、或る時セザルディーンは、ローデルライン様の事が忘れられそうにないかとグロリアに聞いた。

「愛しているんでしょう?」

 そう言われると戸惑った。そうなんだろうかと改めて考えてみたが、それはやはり違うような気がして、でも彼女には愛するということがわからず、否定も肯定もできなかった。ただ首を横に振ってみたり、手を組んでみたり、落ち着かない様子でうつむいていると、彼はグロリアのすぐ側に寄ってくる。二人は庭の片隅の花壇の所にいた。人は誰も来ないし、とても静かで気候も良い午後だった。

 彼はグロリアの手を取ると、

「私と一緒に来ませんか」

と言う。じっと彼女を見つめる。

 えっと言って、それでも、男の人に優しくしてもらうことなどこれまでなかったので、気にかけてもらえることが嬉しくて、どうしてか無碍にできなかった。

「すぐに、と言うわけではないです。あなたもまだだいぶ若いんでしょうし、そういう、下心ではないんです。うちでも余裕がない訳ではないですし、どなたかの家の養女になって、教養を身につけたり、そうだ宮廷に上がってもいいのでは、それで、いつか、あなたに適した時期に、私を結婚相手に選んでもらえたら」

「でも」

 それは、グロリアが彼に選ばれたという意味だ。絶対にサナフィーニよりも人に愛されるはずがないと思ったのに。嬉しさを感じると同時に少し焦った。

「私もそろそろ国へ帰ろうかと思うのですが。寂しそうなあなたを放っておけないのです。私にはあなたの寂しさが理解できるような気がするし、多分あなたも少しは私に同情してくれるのでは。こういう形の愛があってもいいのではないですか」

 そんなことを言われたのは初めてだった。動揺して身を引こうとしたが、彼の優しい目を見ているうちに、つい気が緩んでしまって、わけもわからず涙が出てきた。また焦って身を引こうとするが、彼は手を離さない。そのまま抱き寄せられた。彼は背が高く、グロリアは小柄だったので、すっぽりと包まれるように彼の腕に収まった。抵抗しなかった。しかし、震えた。こんなに感情を見せてしまうことは初めてだった。恐かった。自分より大きい存在が有るということを思い知らされるような、自分の弱さを思い知らされるような、そんな恐怖だった。普通の人が知っていることを、自分は今まで信じなかったような気がする。いや、自分でも気付かなかったけれど、こんな気持ちになったことが有ったような気もした。

 その時庭園の木の陰から出てきた人物にグロリアは目を留めた。しかし目をそらしてしまう。セザルディーンは気が付かない様子だ。そのままその人は元来た道を引き返して行った。グロリアは動けない。そのうち、セザルディーンが彼女に視線を戻したので、急に我に返り、彼を押しのけた。そして彼の手を振りほどき、その場を飛び出した。心臓が激しく鼓動している。何処へ行くあてもなく、必死で走った。

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