第一章 はじまりの章 第8話
何もせずにしばらく経った。その間身の回りの世話をしてくれる女性以外誰とも会わなかった。カルレイラはいるのかいないのかわからないくらい気配を絶っているし、テルーも帰ってこない。他に物音がしないので、だんだん召使い達の声を覚えてきて、意外と楽しく働いている声や歌が庭から聞こえる。いつも豚を焼くいい匂いがする。今頃、本当だったら家庭教師が来て公用語、古語を教わっているはずだった。南方語も習い始めたばかりなのに、教わったことも忘れそうだ。
自分が黙って家を出てそれきり連絡もできていないことをようやく真剣に考えて、手紙を出したい旨を城主に伝えてもらうと、使用人を通して説明があった。どうやってバール家を知ったのか、彼女が頼む前に城主がわざわざ使いを出してくれていたそうで、確認したところ既にテルーの方から家に連絡がいっているとのことだった。
それで? と聞くと、手紙を出したいなら城主が人を遣って届けてくれるとのこと。家からは何と? と聞いたが特に何も聞いていないという。あちらからは特にグロリアに手紙も伝言も無く、あちらに連絡がいっている、ということしかわからない。特に心配もしていないし、迎えもよこさないし、もう後のことは知らないということだろうか。別にそれで構わないのだけれど。それならこちらから手紙を書く必要も無いような気がした。だいたい、いつ帰れるのか、今生の別れなのか、それすらグロリアにもわからないのに、何と手紙を書けばいいのか。バール氏や奥方や、アリシアの顔を思い浮かべ、面倒を見てくれた召使いのことを思いだし、あれこれ考えながらぼんやりしていると、外が騒がしくなった。
不思議に思い部屋から出てみると、軽い足取りで誰かが階段を上がってきた。見ると若い女の子で、グロリアと同じ位の年代に見えた。少女は薄い緑色のドレスを着て、くるくるした茶色い髪は背中のあたりまで垂らしてある。服装からして未婚の子だ。サテンのリボン飾りや本物の宝石が華やかで、貴婦人のような短いマントを肩に掛ける姿は見たことのない程可愛らしくて、驚いた。きっと都会の子だ。黙っていてもはつらつとして見え、存在感の有る娘だったが、おとなしくて品が良く、育ちが良いのだとわかる。
彼女はグロリアを見つけると、微笑みながら近寄ってきた。戸惑っていると、
「ごきげんよう。あなたがレーテルアル姫ね?」
と実に愛想良く話しかけてきた。同じ言葉……でも、テルーと同じ方言のようなので多分、東の国の人だ。話し方は大人びていた。多分、宮廷の人だ。同じ言葉でも、グロリアの話すのはハザラント方言だった。
「テルーに聞いて来たのよ。レーテルアル姫でしょう?」
そういえばそんな名前をテルーが口にしていたような気がして、無意識にうなずいてしまった。しかし急いで首を横に振り、
「グロリア」
と言った。少女は、
「私はサナ。サナフィーニよ。テルーの親戚なの。また後でね」
そう言って変わった会釈をし、踊るようにターンして、彼女の侍女と一緒に行ってしまった。
こんな所に来客が有るとは思わなかったので、グロリアは驚いていた。ここは隠れ家ではなかったのか。
しかし同時に今までの憂鬱が嘘だったように消え、逆に、今慌しくサナフィーニがやって来て、去って行ったことの方が夢だったようにも感じた。いつのまにか、またこの城は静寂を取り戻していたからだ。
しばらくして、グロリアの部屋にサナフィーニが尋ねてきた。この子もこの部屋に寝泊まりするのかと思ったら、部屋が余っているからと別に部屋を用意されたらしい。今のグロリアの部屋だって、一家族が悠々泊まれそうなほど広いのに、バール家での生活を考えると贅沢な話だ。グロリアが何を話したらいいのかわからずにまごまごしていると、あいかわらず屈託の無い様子でサナフィーニがドレスがどうの、お花がどうのと話しかけてきて、前からの友達であるかのように親しげに近寄ってくる。グロリアは非常に戸惑った。これまで一度も人にそのように接してこられたことはないし、それにどうやって答えればいいのかわからない。
多分、この子は宮廷育ちで、未婚だけれど公の場に出ることのできる人、たとえば王妃様のお側づかえをするような人なのだ。宮廷ではその宮廷の作法があり、場に合わせた会話をし、ふさわしい服装をする。宮廷はグロリアには未知の世界で、これまで読んだことのある物語には、そこでどのようにすればいいかといった知識は書いていなかった。
グロリアはサナフィーニに好感を持つには持ったが、接し方がわからない。こちらの態度があまりに無愛想になってしまって、それをどうとられるかということが心配だった。つまらない人だと思われるのではないかと思うと、焦って余計にどういう風にしたらいいかわからない。言葉を相手に合わせられないから、公用語という、知識階級ならどこでも通用する言葉で話した方がいいのかと思うけれど、気取っていると思われたくない。
するとふと、どう思われても構わないと思い始める。大体、どうして自分が向こうに合わせないといけないのか。なら、相手が宮廷語でも、自分はハザラント語で話そうと決めた。
***
「きれいな髪ね」
サナフィーニはうっとりした目つきをして言う。
「あなたのお母様はブロンドだったんでしょう。だから、レーテルアル姫もブロンドだとテルーが言ってたのよ。最初。それでなかなか見つからなかったのね。黒い髪はリメルティータの血ね」
グロリアは首をかしげる。ああ、とサナフィーニは笑って、
「テルーは随分前からあなたを探していたのよ。ブロンドにこだわってなかなか見つけ出せなかったなんて彼らしいわ」
彼女はぺらぺらしゃべっているが、グロリアは話についていけずに、聞いている。リメルティータ家というのは北の国の王家のことだった。それにしても彼女は随分テルーと親しそうだ。何故そこまで知っているのだろう、と彼女を見つめていると、サナフィーニはグロリアの気持ちに気付いたのか、話題を改め、口調もゆったりとしたものになった。
「私はテルーのおじい様、前の王の血筋を引くの。だから、歳は離れているけどテルーとは幼なじみなの。だから……テルーはまだあっちで用事が有るみたいだったから先に来てしまったんだけど、彼の許婚を一度見てみたくて……」
彼女はちらっとグロリアの顔を窺い見る。しかし、グロリアからは何の反応も得られなかったので、戸惑った。サナは慌てたように、
「テルーとは兄妹みたいに育ったから、それでちょっと、どんな人かなあと思ったのよ。それだけよ。テルーには秘密で来ちゃったの。思ったより近かったわ」
グロリアは黙ってうなずく。
「どうしてか知らないけど、レーテルアル姫が今ここにいることは他の人には絶対言うなと言われたの。私以外誰も知らないわ。誰にも言わないわ。私も特別に教えてもらったわけじゃなくて、テルーの密談を知らずに聞いちゃっただけなのよ」<BR>
サナが一生懸命しゃべっても、グロリアの反応は薄かった。特に怒ってもいない様子なので、もともとひねくれたところの無いサナフィーニは少し安心したものの、しゃべりすぎてしまったかもしれないと焦った。そして、「ずっと仲良くしてね」と心から言うのだった。
しかし、グロリアは複雑な思いだ。テルーでなくその幼なじみからそんな話をされて、少し嫌な気持ちになった。サナフィーニのことがあまり好きではないのだろうか。自分でも不思議だった。だからといって部屋から追い出せもしない。サナフィーニは人の良さ丸出しに愛想がよかった。冷たい態度をとればこちらの方が罪悪感を感じるだろう。
しかしそうこうしているうちに、サナフィーニは立ち上がって、そろそろ部屋に戻って休むと言い出した。グロリアはほっとしつつ、彼女がにこやかに、何の心残りも無さそうな顔で行ってしまい、廊下で彼女の連れてきた侍女と楽しそうに話す声が聞こえると、今度は何だか無性に悲しくなった。
それから毎日のようにサナフィーニはグロリアの所に来てくれた。サナフィーニの邪魔をするんじゃないかと思うと自分の方からなかなか彼女の所に遊びに行く気にならなかったし、行ったところで何を話せばよいのかわからない。
サナはいつもとりとめのない話をした。彼女は東の国の王宮に住んでいて、そこでの日常生活、彼女の仕事、王妃様がきちんとした立派な方だということ、女性たちの序列について、今流行っている刺繍について、いくらでもしゃべった。グロリアにとってはそれ程面白い話ではなかったが、彼女は親切のつもりなのか事細かに、楽しそうに、熱心に、グロリアだけの為に説明してくれるので、彼女はサナと過ごす時間がくるのをいつも待っていた。それで一緒に散歩したり、都で流行っているんだというゲームを教えて貰って一緒に遊んだりもした。詩は作るけれど、本は読まないらしかった。グロリアは本は読むけれど詩作はできない。
サナはよくしゃべり、明るい声で笑った。人生がいかにも楽しいものであるかのように。それがグロリアには眩しかった。幼い頃はアリシアともじゃれあって遊んだが、近頃では初めて仲良くできる友達だった。
だが、グロリアのサナフィーニに対する気持ちは決してそれだけではなかった。まだ漠然として、はっきりとはグロリア自身にもわからなかったが、良いものだけでないのは確かだった。サナがグロリアの事を大事な友人、今一番の仲良し、と言ってくれるのに対し、もやもやした思いが彼女の中にわき起こる。会ったばかりで、私のことなんて何も知らないくせに、どうしてそんな無責任なことが言えるのだろう、と。それでも彼女はサナが自分のところから去ってしまうのを恐れていた。そして誰にもその思いを知られたくなかった。
***
テルーが来たと知らせを受けて、その時グロリアの部屋に一緒にいたサナフィーニはいそいそと立ち上がった。
「やっと来たのね。何をしていたのかしら」
サナフィーニはそう言って部屋を出ていこうとしたが、グロリアがついて来ようとしないので、行ってみましょうと促した。しかしグロリアは立ち上がったものの、どうしても行く気がしない。サナは不思議に思ったが、慎み深いのだと思い、無理に誘ったりはしなかった。代わりに、
「私は従兄弟に頼んで秘密で来ちゃったでしょ、従兄弟が怒られるかもしれないし、ああ従兄弟は役職もあってテルーより年上なんだけれどね。でもちょっと行ってきた方がいいと思うの。後でいらっしゃいよ」
そう言うと急いで出ていってしまった。
グロリアは腰をおろしたが、また立ち上がった。しばらく迷っていたが、少しだけ、と思って廊下に出てみた。廊下から階下をのぞくと、旅行着姿のテルーとサナフィーニが何やらしゃべっていた。話はよく聞こえなかったがサナフィーニの高い声がきらきらして聞こえる。その様子を見ていて、どきりとした。以前から漠然と感じていたおかしな感情が少し具体化されたような気がし、慌てて部屋へ駆け戻った。
グロリアが自分の部屋に戻ってぼんやり座っていると、廊下をばたばたと駆けてくる足音がした。ぼんやりし過ぎて足音の方をあまり気に留めていなかったので、ドアが突然凄い勢いで開かれたのに驚いた。
サナフィーニかとはじめ思ったが、そこにいたのはテルーだった。再び驚いて、じっとそちらを見る。
彼は息せき切って入ってきたが、それでもきちんと非礼を詫びてから、
「何か話を聞きましたか」
と焦ったように尋ねた。
話ってなんだろうと考えていると、じれったそうに彼は、
「サナフィーニに、あなたの知らなかったこととか、いろいろ話を聞いてしまった?」
「ええ……とても具体的に、いろいろ。でも、あの、西の王子もいろいろ教えてくれたし……」
テルーは眉をひそめて黙り込んでしまった。
それからしばらく考え込んでいる様子だった。一体どうしたというんだろう。グロリアには訳が分からなかったが、自分が責められているような気がしてきてしまって、居心地が悪かった。
ようやく彼は目を上げて彼女を見る。初めて目が合ったかのようにどきりとした。
「あなたは、何も心配しなくていい。私はあなたに対して責任の有る立場だし、全てこちらでなんとかするから。あなたは余計なことは考えず、ここで大人しくしていてくれないだろうか。これからどうなるかわからないけれど、個人的に必要な支援はする。あくまで個人的に」
「別に、あなたに頼るつもりはありません。家に帰してください」
そう言いつつ、彼がなんとかすると言っている「全て」というのが何を指すのかさっぱりわからなかった。
すると、彼はあなたは何もわかってないんだとでも言いたそうに、
「それができないからここに連れてきたんです。あの時あなたは危ない目に遭ったじゃないか。だから」
だんだんグロリアも気分が悪くなってきた。この男は何を言っているのだろう。何も教えてくれないくせに、彼に従わないからと言って分からず屋扱いするのだろうか。
「あの男の人は誰なの」
グロリアは言ってみる。
「どうして家に帰ってはいけないの。それに、どうして私があなたの探している人だとわかったの。全部話してよ」
テルーはしゃべりそうになかった。ただ、
「時期が来たら話します。政治に関わることだから、あなたも無事問題が片づいたらバール家へ帰すつもりでした。だから出来る限り何も知らせたくなかった。今話すことはそれだけです」
それだけ言って出ていこうとした。
だが彼も、若い子に冷たいことを言い過ぎたかと少し思い直して、振り返る。見るとグロリアは目を伏せてじっとしていた。しかし無表情だったので、どう思っているのか彼にはわからなかった。それで、彼なりに気を遣って、黙っていて申し訳ない、と言う。
「今は詳しく言えないけれど、聞いているなら大体わかってるでしょう、あなたは私の許嫁だった。北の王の一人娘で、王位継承にも関わっている程の立場の方だ。マスコルド王に敵対する勢力があなたを争奪にきたら、あなたは苦しい立場に立たされることになる。だから私にはあなたを守って差し上げる義務が有る。
……幼い頃行方不明になったあなたが田舎に隠れて生きていたこと、そしてそれを政敵側にも知られたと、北の王の忠臣が知らせにきた。私の父は反対するのがわかっているし、ならば王太子である私にと懇願されて、それを引き受けた」
なら、はじめからどうしてその説明をしなかったのか、グロリアにはわからない。子供だから、女だから理解できないと思い、何も言わなくても男である自分の指示に従うと思い込んでいるのだ。
「私利私欲のためにあなたに近づくつもりもないし、あなたの立場を尊重するので、心配しないで頂きたい」
そして対外的に、また自国内での自分の立場を正当に保つために、誤解されそうな言動は一切とらないつもりということだ。彼もまた東の国の王位を継ぐ予定の人間なので、冷酷な打算によって動いているところがあるのだった。彼はもめ事を起こしたい訳ではない。それ以上質問される前に、すばやく部屋を出ていった。しかし、彼女はもう話しかける気分にはなっていなかった。
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