第一章 はじまりの章 第7話

 しばらく物音がしなかった。しかし、確かにそこに人は立っているはずだ。グロリアは様子をうかがっている。じっと耳を澄ませ、自分の気配を闇に溶け込ませたような気持ちになっている。向こうも様子をうかがっているのだろう。しばらくすると、物音がし始めた。

 ドアが開いていたのを不審に思っているに違いなかった。不審に思われているなら仕方がない。早く次の段階に移ってほしい。グロリアはそう思った。しかしなかなか時間が動かない。あちらからも誰何されることはなかった。おとなしく、息を殺して、闇に同化していると、緊張も解けていき、何も無くなったようにさえ感じた。何も現実ではないような……。しかし、現実は現実だった。ドアが静かに閉められた。だが、ドアが閉まってもまだ、真っ暗だったはずの部屋が明るい。どうやら明かりを持っているらしい。その気配からすると、おそらくそこにいるのは男だ。歩き方や所作は乱暴ではない。テルーを想像させるものではあった。だからテルーかもしれない。でも、テルーだったら従者も一緒のはず。何か不審に思っているなら人を呼ぶはず。不安になった。やはり恐かったから、グロリアは顔を出してそちらを見ることができなかった。どうなるのだろう? どうするのだろう?


 そう思った途端、視界に人が飛び込んできた。

 驚く余裕もなくぼんやり見ていた。

 取り押さえられそうになって、ようやく気づく。目の前に刃物が見えた。

 しかし、見る間にそれは床に転がり落ち、甲高い金属音を部屋中に響かせた。耳の奥がきんとして、床に落ちた短剣がくるくる回り、その音がしばらくろうろうと響いた。

 やがてその金属音が聞こえなくなる頃、グロリアは顔を上げる。

 そこに呆然と彼女を見下ろしていたのは、何かの間違いかと思ったが、他でもない、あのシロツメクサの野原で出会った、カルレイラだった。


***

 正体がわかったので、グロリアはもう動揺していなかった。動揺していたのはカルレイラだけのようだった。彼に助け起こされると、彼女はそのまま椅子代わりにクッションを置いた敷物の上に座り込む。彼は戸惑っている。それからやっと、出窓に入り込んで窓の鎧戸を開けた。部屋は一気に明るくなった。

 どうしてここにカルレイラがいるのだろう、とグロリアは思ったが、その前に彼女は彼の様子に驚いていた。グロリアが隠れていたのを、まるで暗殺者であるかのように警戒した。彼は落ち着かない様子で何も言えずにいた。まるで立場が逆のようだ。彼の動揺を見ていると、勝手に入った事を詫びる隙がないように思えた。もしかしたら彼の方が何か良からぬ事をたくらんでいるのではないか。そんな気がしてきてしまった。ふてぶてしく彼女はカルレイラを直視し続けた。

 大人なら一言くらい謝罪があってもいいのではないか。自分は子供だからと、自分のことを棚に上げ、謝るのも、挨拶するのも放棄した。もう行ってしまおうかと思ったが、さすがにそんな雰囲気ではないので、黙って座っていた。侵入者は自分だ。この部屋の主は多分この人だ。怒られたら謝ろう。そう思って待っていた。しかし彼は咎めようとしない。


 ふと思い立って、

「テルーはどこ」

 と聞いてみた。

 すると、やっと気持ちを落ち着かせたらしい彼は、意外そうな顔をする。

「昨日帰りましたが。あなたのことを頼むと言って」

「どこへ?」

 そうか、ここはテルーの家ではないのだ。だとしたらここはどこなのだろうか。

「東の国です。何も聞いていないのですか」

 意外な答えだった。

「ここは? ここはどこ? ハザラントじゃないの?」

「ブラウエンです。西の国です」

 そう聞いて、呆然とした。確かに、バール家の有る北の国のハザラントは西の国との国境近くだが、国境を越えたのは初めてだった。そして、てっきり北の人間と思っていたテルーが、遠い東の国から来ていたとは思わなかった。確かに、言葉が少し違うから、どこかの方言なのかとは思った。

 カルレイラは彼女の側に腰掛けて、様子を窺っていた。

「公爵領でなく……ブラウエン伯爵領の?」

「そうです。私はブラウエン領主です。そしてこの城の主人で、彼からあなたのことをしばらく預かるように頼まれました」

 グロリアの反応を見ながら、ひとつひとつ確認するようにカルレイラは話す。だが、彼女はただぼんやり聞いているだけなので、彼もどのように様々な事情を説明すればよいのか迷っていた。しかし、話の根幹だけ、話さざるを得ない。

「東の王子は行方不明になっている婚約者を捜すためにここに来ていました」

「え?」

「つまり、あなたは彼の婚約者とのことです」

 驚いた。さすがにグロリアもきょとんとして、それから聞き返す。

「私、あの人のことは知らない」

「ええ、そうでしょうね。これは政略結婚ですから。会うのは初めてでしょう」

「何の事」

 言いながら、だんだん不安になってきた。グロリアはバールの生まれではない。すっかり記憶を失ってしまったが、バール家に来る前にはどこかで何らかの生い立ちを持っていたのだ。そしてテルーはそこに関わっている人間ということだ。

 しかし、それでは一体……。

 カルレイラも、状況が飲み込めずにいるグロリアに、どこまで話してよいのか見当もつかない。しかし、話さないでいるわけにもいかず、テルーが説明を放棄して国に帰ってしまったからには、カルレイラが話すしかなかった。もう数週間もすれば戻ってくるのはわかっていたけれど、それまでグロリアをこのまま放っておこうというテルーの気持ちが彼にはわからない。おそらく、婚約のことはテルーにしてもいい迷惑なのだろうとは思うけれども……。

「もちろん、あなたは幼い頃行方不明になっているので、婚約は正式には無効でしょう。どこまで話が進んでいたのかもわからない。でも、彼はあなたに対しての義務を果たすつもりのようです。だからこそ、あなたを守るために探し出して、連れて来たのでしょう。詳しい話は私も聞いていませんが」

「初めから話して。私は誰なの。私の両親はどこにいるの」

 それを聞きたかった。しかし、彼は首を横に振った。どういうことか? 死んでしまったのか? もう? そう聞くと、

「いいえ、お父上はご健在です」

 思いも寄らない事実に驚いた。自分に実の親がいるなんて?でも。父上は、ということは、母上は?

 全て聞きたかった。しかし、彼は話すことに迷いが生じたらしく、それ以上話そうとしない。「あとはテルーに聞いて下さい」と言う。しかし、テルーが話してくれるような気がしなかった。何も言わずに行ってしまったではないか。彼に聞くのは嫌だった。それに、すぐに知りたいのに。


 それは、本当に自分だったのだろうかと彼女は思った。彼らが言っている人物……そう、何とか姫とテルーが言っていた、その人物がグロリアの事なのかどうか、それも確かとは言えないのに。

 思い出して、グロリアはペンダントを触ってみた。それを外してよく見てみる。カルレイラはそれに気づき、見せてくれというので、見て貰うと、やっと彼も納得したようだった。

「これは、北の王家の紋章です。あなたも小さい頃のことを少しくらい憶えていませんか」

 彼はそう言うが、憶えていない。首を横に振った。それは一体どういうことなのだろう。じっと彼を見ていると、彼はやっと、仕方無さそうに微笑んで、彼女が思わずその笑顔に見入っていると、急に彼女の前に跪き、その手を取ると、最敬礼をしてみせた。気の毒な人だと彼は思った。


***

 グロリアは彼の部屋に無断で立ち入ったことを詫びるのを忘れて部屋を出てきてしまったが、もう彼女の心はカルレイラから離れていた。部屋へ帰る気にならない。一人になってみると静かすぎた。どこへ行くともなく城の中を歩き回ってみた。疲れたような気持ちはずっと胸にこびりついたままだった。グロリアは北の王の娘なのだという。その許嫁だったテルー、東の王子は、事情が有って彼女を捜し出し、ここへ連れてきた。そしてテルーが協力を頼んだのは、ハザラントに近いブラウエンの領主。それも、ここを選んだ理由はおそらくそれだけではない。カルレイラが身分の有る人物であるということは彼の様子から明らかだった。あんなに若いのに領主というのも多分訳がある。高貴な人は若いときから一つ二つ所領をもらっていたりする。

 訳あって隠棲しているーー病気療養の為と称して都を離れた西の王の長男の噂は、ハザラントでも有名だったので、グロリアも知っていたのだ。グロリアの気持ちは暗くなった。彼は都から追い出された西の王族で、グロリアも……多分同じようなものということ。少なくとも幸せな身の上ではない。


 気が付くといつの間にか最上階に来ていた。たくさん部屋が有るのにこの城に人は少ない。このフロアは全く使われていない様子で、窓も開けられず薄暗い。どこもかしこも薄暗い。そっと窓の一つを開いてみると、意外に抵抗無くすっと開く。すると光線が真っ直ぐ廊下に入り込んできて、そのきらきらした直線が余計に静かさを強調しているように感じた。

 外を見ると、ずっと遠くまで森は続いている。東の方へ街道が通っているのが見える。道は遙か遠くへ続いているらしく森の中へ消えていく。風が吹く度に揺れ動く森の枝々、薄い水色の空をこちらへ向かってくる真っ白な雲。

 それら全てはグロリアの人生の大きく動き出す時でさえ、全くいつもと変わらなかった。ただそれが今の彼女にはあまりにも遠すぎるものになってしまっただけなのだ。今、こんな時でさえ、彼女の心を知っていながら(彼女はそう思っていた)、そんなものには目もくれず、通り過ぎてゆく風や雲。そして向こうを向いて揺れる木々。

 この世の全てのものが、彼女から去っていったような気がした。不思議な寂しさが胸を締め付けてやまず、それを味わうようにしばらくの間外を眺めていた。

 時間がやけに長く感じられた。もうすぐ何かが起こるとわかっていながら、今彼女はそのことをじっと待っていなければならないのだった。

 グロリアは静かに窓の鎧戸を閉めた。

 また中はしんとして、薄暗い空間に戻った。

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