第一章 はじまりの章 第6話
気がつくとベッドに横になっていた。部屋は暗かったが、窓の隙間から明るい光が差し込んでくる。そこは全く見知らぬ部屋だった。頭がぼうっとして、昨日のことがよく思い出せなかった。起きあがる元気は無く、じっとしていたが、間もなくドアが開いて、誰かが様子をうかがっているのがわかった。身じろぎすると人が入ってきた。使用人のようだ。その人は一旦出て行ったが、しばらくして誰かが来た。あの若者だった。
彼は枕元を覗きこんで、グロリアが起きているのを確かめると、窓を開けた。まぶしくて目がくらんだ。目をつぶるとそっと額に手が触れる。目を開けると若者と目が合った。彼はいつものようにどことなく不機嫌そうな表情を動かさず、そのまま彼女から離れて、椅子に掛けた。
「熱は下がったようだ。怪我も心配無い」
怪我。倒れたときに打ったようで、腿が痛い。肘も痛い。
彼は黙ってグロリアをじっと見ていたようだが、グロリアはそちらを見る気力も無かった。ふと、彼が彼女の髪を見ているのに気付いた。長い髪は頭の上の方にとぐろを巻いている。着物は昨日のままだった。それがなんとなく心地悪い。ふと泣きたくなったがこらえた。このそばにいる男はまったく優しくない。いかにも、こんなつまらない子供に何故自分が手間をかけさせられているのか、という態度を取るので、この時ばかりは彼女も心細かった。誰かに優しくしてもらいたかった。理不尽を感じているのはグロリアの方だ。何故自分がこのような目に遭っているのかわからなかった。
「ここはどこ?」
やっと聞くと、彼は視線を髪から彼女の顔に移した様子だった。しばらく黙っていたが、男は答えない。代わりに、
「あなたは八年ほど前、あの辺りの家の養女になったのではないか?」
と聞いてくる。グロリアはまた不安になった。八年前の事など憶えていない。
幼い頃の記憶が全く無いというのも確かに不思議なことだった。だが、彼女には六歳以前の記憶が無いのだ。この男はグロリアのそれ以前を知っているのだろうか。見たところ、それ程まではグロリアと歳も離れていないように見えるのだが……。
グロリアはふと、自分がいつも持ち歩いているペンダントのことを思い出した。これは確かに、記憶に有る範囲ではずっと持っていたものだ。誰かがくれたものと思っていたが、誰がくれたのかはわからない。幼い頃このペンダントを見た確かな記憶と共に、ふいにグロリアは心の中で何かを見た。ほんの一場面、言葉で説明しようとすればふと消えてしまうような場面で、何か懐かしさとも言えそうな感覚がした。昔のことを全部一瞬の間に思い出して、また忘れてしまった。その一瞬は本当に短かったが、長かったような気もした。しかしその感じはすぐに薄れてきた。
少し気になったので、のろのろとペンダントに手を遣った。体に力が入らなかったのでつらかったが、ようやく首から外すと、調べてみた。作りは上等らしく、細工が細かかった。ロケットになっていて、開けようとしてみたが、開かない。これまでも何度か試してはみたのだが、壊すのも嫌で、成功したことは無かった。何か入っているのだろうか。
グロリアがあまりに懸命にペンダントをいじっているので、見かねて男がそれを奪い取った。途端に彼女はカッとなった。大事なものを粗末に扱われたような気がして、取り返そうと起き上がる。しかし、眩暈がしてまた倒れそうになった。頬が熱い。熱が上がったのだろうか。
男は意外に親切だった。丁重に彼女を横たわらせ、毛布を喉元まで掛けて寝かしつける。しかし大事なペンダントを取られて黙っていられず、グロリアはまた起き上がろうとした。
「返すから待て」
ようやく彼も不承不承口を開く。
「ゆうべから熱が出ていたんだ。安静にして。興奮しないで」
「返して」
「わかった、ほら」
渡そうとして、彼は動きを止める。彼はペンダントを見ていた。返しかけたそれを目の前に持っていった。そして黙っている。
そこには紋章が入っていた。グロリアはそれが何の紋章か知らなかった。しかし彼にはすぐにわかった。百合の花を象った美しい紋章。擦り切れていても間違い無い。グロリアが住んでいた、北の国の王家の紋章だった。
彼は何も言わず、ペンダントを返した。そして、
「どこの家にいたんだ」
「え?」
「養親は誰だ?」
「バール」
「わかった」
それから何か説明してくれるのかと思ったが、彼は黙って席を立った。そして行ってしまおうとするので、グロリアは呼び止める。呼ぼうとして、何と呼べばいいかわからず困った。ねえ、と声を掛けると振り返った。
「あなた、誰」
彼は一度も名乗っていない。彼は少し考えていたが、めずらしくやや困惑した表情を見せた。彼がこんな風に表情を見せるのは初めてのことだった。そしてつぶやくように「テルーと呼ばれている」と言って、出ていってしまった。
***
午後には疲れも回復し、もう熱は上がらなかったが横になって過ごした。あの戦士が何だったのか少し考えたが、考えてわかるものではないので考えるのを留保した。次の日には起きられるようになっていた。その間テルーは一度も彼女の所に来なかった。しかしグロリアは戦士の事が気に掛かったし、また家のことも気になった。さすがに心配されていると思う。だが、多分ここなら再びあの男に襲われる心配もなく、安全なのだと思う。だからテルーは彼女をここに連れてきてくれたのだろう。しかし、テルーが何を考えているのかわからないので、安心はできない。
誘拐同然に連れてきたくせにテルーは何故何も教えてくれようとしないのだろう。世話をしてくれる年輩の女性は驚くほど口が堅く、必要なこと以外は一切口をきいてくれなかった。
いくらのんびりしたグロリアでも、このままじっとしていられる訳がない。思い立ちさえすれば即行動はする。彼女は部屋を出た。
廊下は薄暗かった。それほど広くはないが、立派な建物だった。天井は高く、床は石造りだ。こんな大きな家は見たことが無い。壁には燭台が一定の間隔で備え付けられ、その間には小さな窓が有った。それらは全部開けられていたが、こちらは太陽と反対の方向だったので、廊下は暗かった。部屋の窓から見た景色と変わらないが、外は森が広がっているようだ。ここがどこなのかはわからない。馬で数時間の距離だろうし家からそれほど遠く離れているとは思えなかった。
真っ白な壁の廊下を彼女はそっと踏み出した。
これは明らかに普通の状況ではない。用意してもらった着替えは彼女のよそ行きよりも豪華な生地だったし、食べ物も新鮮、銀の食器で出され、この家の持ち主は金持ちだとわかる。あの若者はここの息子なのだろうか? 彼女は優遇されているらしかった。
それにしても、誰もいない。誰かに咎められるかもしれないという恐れは有ったが、誰もいないので、だんだんに堂々と歩くようになった。どこへ行けばいいかわからなかったが、とにかくテルーに会えればよいのだ。誰かがいれば、テルーの居場所も聞けるだろうと思った。しかし、人の気配がしない。
歩き回っていると、意外に広い建物らしかった。バールの屋敷とは規模が違う。まるで城のようだ。城? そんなところに行った記憶はないはずだが。上に行く階段も下へ行く階段も有ったし、ドアがたくさん有ったので、この中にたくさん人がいてもおかしくないと思う。だが、手当たり次第ノックしてみるのも恐かった。中に恐ろしい人が潜んでいたりしたら……。
しかし、誰も彼女に禁忌を与えはしなかった。無口な使用人も、テルーも、部屋から出るなとは言わなかったし、他の部屋を覗いてはいけないとも言わなかった。もしかしたら、グロリアと同じようにあちこちから集められた少女が一つ一つの部屋に潜んでいるとか? それにしては静か過ぎたけれど。好奇心に勝てず、グロリアは手近な部屋のノブにそっと手を掛け、おそるおそる手前に引いてみた。開かない。押しても、開かない。
ほっとして、しかしがっかりして、次の部屋のドアにとりかかる。押しても引いても開かなかった。次のドアを開けようとするが、やはり無駄だった。
諦めて先へ進むことにした。上の階へ続く階段が有ったので登ってみた。薄暗かったが太陽の光はどこからかしきりと降ってきて、上へ上へ上がっていくにつれ明るくなった。随分長い階段だった。磨かれた手すりにつかまってしばらく休むと、自分の呼吸と心臓の音しか聞こえない。本当に静かだったから、くすぐったいような感じがした。
ずっと上の方に小さな窓が開いていて、そこから光が入ってきていた。
上の階も下と同じようだったが、廊下の窓は閉まっていた。しかし奥の方が明るい。グロリアは明るい方へ行ってみた。一カ所だけ窓が開いている。風が入ってくる。
外を見ると、やはり森が見えた。下の方まで覗いてみると、ここは建物の随分上の方らしかった。そして下は崖になっていて、地上が随分下に見える。この建物全体を見ることは出来なかったが、小規模な、しかし何家族か人が住めそうな城のようだ。それなのに、こんなに人がいないなんて。
グロリアはまた廊下を見る。ふと、開いている窓の向かい側の部屋のドアがどこかしら他と違うような気がした。どこが違うのだろう、作りは他と同じだったのだけれど。それに、ここだけ窓が開いているということは、もしかしたらここに誰かがいるのかもしれない。そう思って彼女はそっとドアに近寄り、ノブに手を掛けた。
かたり、と音を立ててドアが開いた。グロリアは動作を止める。人がいたらどうしよう。そう思って、そのまま一応ノックしてみるが、返事は無かった。しばらく立ちつくしていたが、何の音も聞こえないので、だんだん大胆な気持ちになってきた。開けかけたドアをゆっくり押す。ドアは滑らかに開いた。
中は真っ暗だった。目が慣れてきてから、中に入った。人の気配はしない。
机の上に大きな本が無造作に置いてあったが、埃もかかっていない。他には天蓋付きベッドと、壁際にいくつかチェストのような物があり、閉じられた暖炉の隙間から風の音がする。この部屋の床には高級そうな敷物が敷かれている。空気はひんやりして、それはバール家に有ったような生活感の希薄な空間であった。だが、誰かがここで暮らしているという形跡だけが有った。不思議な寂しさを感じた。
もしかしてテルーはここに住んでいるのだろうか。こんな人の気配のしない、ただっ広い城に、一人で。
そう考えていた時、ふと遠くから物音が聞こえた。
人の足音だ。それに気づいてどきりとした。今出ていけば見つかる。しかし、足音はこの部屋に向かってきているのかもしれない。階段の方から足音がする。少し考えたが、ここに勝手に入ってしまったことは咎められるかもしれないものの、相手がテルーだったら、それ程恐くは無かった。何も教えてくれずに自分を放っておいた彼も悪いのだから。だが何となく不安でもあり、念のため、最悪の事態に備えて、ベッドの陰に身を潜めた。足音は不気味にこちらに向かってくる。得体の知れない城で、確実に安全ということは考えられなかった。もしテルーでなかったら?
彼女はだんだん他の可能性を考えるようになった。もしかしたら、あの時グロリアを襲った男が追いかけて来たのかもしれない。そうだとしたら、絶体絶命だった。部屋のドアは開け放したままだ。もう廊下の人物は閉まっていたはずのドアが開いていることに気づいているに違いなかった。どうしようもない。その人物と対峙する他無かった。いよいよ足音は近づいてくる。
ドアの前で、足音が止まった。
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