第一章 はじまりの章 第5話
バール家は、グロリアの住む北の国と、隣の西の国の国境近く、ハザラントという地方の森のそばに有った。かなり古い家柄らしいが、近年は領地も減り、財産も減り、昔の権勢は跡形も無かった。しかしそれでも生活できないほど困っていた訳ではなく、一人娘アリシアは深い愛情をもって育てられた。だが田舎で、人付き合いも少なく、アリシアには友達がいなかった。そこへやってきたグロリアは当然この家の雰囲気を変えたし、アリシアには彼女が唯一の友達となった。
バール夫妻は育ちのいい、穏やかで親切な性質の人々だったのでグロリアを大事にし、アリシアと同じように物を与え教育も施した。使用人達も、愛らしく聡明なグロリアを可愛がった。アリシアにはそんな彼女が幸せそうに見えていた。当時彼女も七歳で、誰も何もいわないものだから、グロリアが来た事情を考える事も無く、自然に彼女のいるこの状況を受け入れていた。グロリアはといえば更に幼かったし、自分がどういう定めを負った人間なのかということも考えていなかったのだろう。当時彼女はとても明るかったし、元気で屈託が無く、何不自由無く育てられた貴族の娘に有りがちなわがままや怒りっぽさも持ち合わせていた。しかし同時に自信家の人間が持っている独特の魅力で周囲を振りまわし、誰にでも愛された。不思議なことに、過去も本当の両親のことも忘れてしまった様子で、環境の変化を気にもとめず、いつもにこにこしてかわいらしい少女だった。
グロリアはアリシアと仲が良く、内気な彼女をいつも引っ張りまわし、男の子たちをも手下にして森や野原を駆け回った。大人になったらどんなに美しくなることかと人々は噂したし、人々はアリシアよりもグロリアに期待をかけているようだった。それでもアリシアは元来性格が良かったし、彼女に嫉妬することは無かった。それはおそらく、両親だけは何が有ってもアリシアを一番に愛していたからだ。
いつの頃からか、アリシアにはグロリアが見えなくなった。少しずつ、いつ変わり始めていつ変わり終わったのかわからない、まるで彼女全体に一枚ずつ薄い薄い蜘蛛の巣で作ったようなベールがかかっていくように、グロリアは変化した。気付いてみると今の彼女は全くの別人のようだ。
それでいて、以前から変わらないところが有るような気がする。というより、以前はそうではないように思っていたがもとからそうだったのだと思わせる、埋もれていた何かが表面に露出してきたようにも思える。それをアリシアは「孤独」と捉えてみたが、まだ何か違うような気もして、断定はできなかった。結局彼女の心の中にどういう変化が起こったのか、アリシアにはわからない。
最近のグロリアは少し怖ろしくも感じられた。アリシアには彼女がわからなかった。彼女に惹かれる気持ちは出会った時からずっと変わらなかったけれど。
アリシアは不安を覚えるようになった。何も根拠は無かったが、グロリアがどこかへ行ってしまうような気がした。今から何か状況に変化が有るとしたらそれしか考え付かないのだ。
彼女が窓を開けた時、部屋から出てきた時、また入ってきた時、そんな時に一瞬空気が変わる。静かだったグロリアの周りの空気が波立ち、ぼんやりとした瞳はきらりと光り、ともすると少女、ではなく一人の女性にがらりと表情を変える瞬間が有った。それがこの十五の少女の見紛いででもあるだろうか。この少女はグロリアの真の姿を見出したのか。アリシアはグロリアの人生において大きな意味を持つ存在ではないのかもしれないが、彼女は確かにこの時誰よりもグロリアを知っていたかもしれない。グロリアが自分自身の変化を自覚できなかったにもかかわらず。それぞれの認識のあいまいなまま、少女達の春は過ぎてゆく。
***
もう春も終わりだった。いつも野原で会っていた男は来なかった。だがグロリアはいつも同じ時間にあの野原へ行った。これはもう習慣のようになっていて、何が起こることも期待していなかったし、逆に予想もしていなかった。とにかくあの場所が今の彼女の居場所の一つだった。バール家にいるよりもむしろ居心地の良い。
この日もいつものように家を出た。森の木々の美しい葉も、その葉が風が吹く度にざわめき、地面に木漏れ日を揺らすのも、木に緑の目立たない花が咲いているのも、全てがいつも通りだった。
いつもの細い道を歩いていると、ふと背後に何か気配を感じた。ここまで来ると、先の野原までいつもは誰にも会わなかった。獣だろうか? この辺りは昼間は狼など出ない。害の無い小動物にならよく出くわす。どうせそんなものだろうと、子供らしい根拠のない恐れ知らずの習慣で、たかをくくっていたのだが、すぐに馬の足音を聞き取った。悪い予感がした。これはどういったわけだろう。
こういった不安は以前にも感じたことが有るような気がした。その不安は、そこにいるものそのものよりも、何かもっと恐ろしい現実に対する不安だったような気もした。しかし、現実問題今そこにいる存在に気持ちが引き戻される。足音が草を無理矢理かきわけてこちらへ向かって来ていた。
彼女は先を歩き続けた。まるで何も気付いていないかのように歩調も乱れなかった。自分でも意外な程に冷静を保っていた。しかし、足音はどんどん彼女との距離を縮めているようだ。やっと彼女は今の状況を考え始める。
森の誰も通らない場所で、助けてくれる人はいない。この先へ行っても誰もいない。このままでは危険なのではないか。しかし、いくら落ち着いてみてもこの場合どうすることもできない。彼女は思わず足を速めた。どうするあても無かったが、彼女はどんどん早足になる。するとそれ以上に後ろの足音は速度を増した。馬なので、向こうの方が速い。
いつのまにか彼女は駆けて、あの野原の近くまで来ていたが、限界を感じ、彼女は一本の木の幹にぶつかるようにして背後を振り返った。
驚いたことに、兜で顔の見えない戦士が一人地面に降りたっていた。背が高く、異様に堂々として見える。がっしりとした体躯に鎖帷子、その上にサーコートを着て、絵で見たような……違う、一瞬記憶が蘇った。彼女はこのような光景を実際に見たことがある。
走ったせいで息が苦しくてどうしようもなかったが、観察すると、その男は数十メートル程の距離をおいてこちらを向いて立っている。
しばらくすると、男はこちらに向かって歩み寄った。顔はわからないが、気配がただならなかった。この人は人を殺すことのできる人だ。長い剣を所有している。
彼は着実に近寄ってきた。どんどん距離は近くなり、とうとうわずか数メートル程のところまで来た時、思わずその歩みを止めようと彼女は声を出していた。
「誰?」
男は立ち止まる。彼女の声は落ち着いていた。すぐにこの場で殺されることは無いように思えたし、どこかで会ったことが有るはずだ。どこで? まさかバールの親類や、地元の人間とは思えない。それでは一体どこで?
もう少し行けばあの野原だ。もしあの若者が運良く来ていたら、助けてもらえるかもしれない。そう思って男から目をそらした瞬間、腕を捕まれ、ふわりとした感覚がした。腕に痛みが走り、ふりほどこうとすると、よろけて倒れそうになった。
「生きていたのか」
頭の上から低い声がした。声。低い声。
それから何が起こったのか、ものすごい音がしたようにも感じ、また逆に一瞬にして全ての音が消えたような気がした。また、目の前が真っ暗になったような気もし、真っ白になったようにも感じた。何もかもが動きを止め、彼女の思考が止まった。
頭の底から轟音が響いているような錯覚に陥りそうなほど、静かだった。真っ黒い大きな物体が右と左から全身を押しつぶそうとして、苦しい。
そしてその時彼女は目の前に女の姿を見た気がした。美しく憂わしい、一人の若い女。グロリアは彼女を知っていた。突如として、彼女の目の前にひどく残忍な光景が繰り広げられた。深紅の血が目を塞ぐ。世界が真っ赤になった。
それから? それから?
グロリアはもがいていた。頭の中を流れて行ってしまおうとする一瞬一瞬をもどかしく思いながら、手を伸ばしてそれらを留め、よく見ようとした。
***
頬に風が当たるのを感じ、彼女は目をゆっくり開いた。誰かがのぞき込んでいるようだが、すぐにそれがあの人だとわかった。誰かは知らないけれど、あの野原でよく会った人だ。にこりともせずじっと見ている。そういえば名前も知らない。
「大丈夫か」
彼がそう言った途端、頭に痛みを感じた。同時に恐ろしいめまいがした。そして、自分の意識がはっきり戻ったのに気が付いた。あの戦士に脅されて、気を失ったのだ。混乱した。何が起こったのだろうと考えたが、あの男は近くにいないらしく、代わりにこの若者が介抱してくれている。つまり助けてくれたのだろうか。しかし若者は何も言おうとしないし、何も聞こうとしない。だが彼女にも今そんな事を考える余裕は無い。何故か頭が痛くてたまらない。つらい記憶を思い出しそうになって、彼女の心身はそれを押しとどめようとしている。泣きそうだった。
ふと気が付くともう夕方だった。またしばらく意識が無かったらしい。頭痛もめまいもやわらいでいた。ようやく気持ちも落ち着いて、周りを見ると、自分がマントにくるまれて、若者に抱えられているのがわかった。彼はあいかわらず表情を見せなかったが、グロリアが目を覚ましたのに気づくと、不思議なことを言う。
「あなたがレーテルアル姫だったのか」
グロリアはしばらくぼんやりしながら首を横に振る。何を言っているのか理解できなかった。
「グロリア・レーテルアル姫はあなたなのか」
グロリアはまた首を横に振ろうとして思い直した。半分はあっているからだ。
「私はグロリア……」言いかけて、何と名乗ればいいか迷った。グロリア・バール、と言うのをためらっていると、何を思ったか、いきなり彼はグロリアを立たせようとした。しかし、まだ立つのはつらかった。彼女の顔色が悪く、足下がおぼつかないのを見て、彼は突然勝手に彼女を抱え上げ、そしてどこかへ連れて行こうとする。グロリアもこれには驚き、違うと言って降ろさせようとしたが、ふりきれるわけもない。されるがままにするしかなかった。
彼は一言もしゃべらなかった。何か怒っているようにも見えた。よく見ると彼の従者が数名合流して何か話している。「気を失って倒れてたんだ」と説明していた。そうなのだろうか。それならどうして戦士は彼女に何もせずに去ったのか。この人が助けてくれたんじゃないのか? 若者は彼女の通ったことのない、西の方へ続く道を行こうとする。
彼女は振り返ろうとしたが、彼は構わず歩き続けた。少し行くと、予想はしたが馬がたくさん繋いであった。それに乗せられ、男も飛び乗ってくる。不安になって「どこへ行くの」と声をかけたが、返事はない。馬は走り出した。家とは逆の方向だ。それともこの道を遠回りしてバール家へ帰れるのだろうか?
彼女が待っていたのは何だったのだろう。それは彼女自身にもわからなかった。あのシロツメクサの野原で、幸せな美しい世界の中で、待つことを必要以上に愛していた。何かが迎えに来たのも気づかず、いきなりここから引き離され、拉致された。この先に何があるのだろう。そして、彼女は行くべきなのだろうか。選ぶ前に、彼女は連れ去られていた。もう待てない、と何か大きな流れに促されるようにして。
若者は何も言わなかった。馬が恐かったし、風があたって寒かったし、辺りが暗くなっていくのに帰れる気配がないのに落胆して、グロリアはいつもらしく強気になれなかった。進んでいく度に、忘れていた不安が高まっていった。
「家に帰して」
気が付くと彼女の口から弱々しい声が出ていた。彼が何か言ったようだが、よく聞こえなかった。ただ遠くから馬の蹄の音と、風の音が絶え間なく聞こえてくる。
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