第一章 はじまりの章 第4話
それからグロリアはカルレイラに会うことができなかった。あれはもうずいぶん前の出来事のように感じる。二週間は経つ、それだけの日数会えずに過ごしたということは、この先ももう会うことはできないのだとも考えられた。
彼女は毎日野原へ通った。アリシアは彼女を心配してついて行こうとしたが、グロリアがそれを喜ばないとすぐに悟って、それ以上しつこく干渉できなかった。家の人達は皆彼女の日々の習慣の変化を見てみぬふりしているような気がした。それとも、彼らから見るとグロリアの様子は普段と何も変わらないのだろうか?
そうに違いない。手鏡を見ると、外見は何も変わっていない。相変わらず青白い顔で、可愛げの無い、扱いづらそうな子供がいる。これがグロリアだ。バール夫妻もどんなにか扱いに困っているだろう。グロリアがこの家に来た時、大金がこのバール家に納められたことを、グロリアも噂で聞いている。だから養ってもらっている。それだけの関係だと思うと、ここは甘えていい場所とは思えなかった。情だけで養ってもらえるほど世間が甘くないことは彼女もまだよく知らない。金を払っている分肩身の狭い思いをしなくて済んだのだ。ただ自分が可愛くない性格であることを自覚しているから、この家の人々が彼女に対して良い印象を持っていないだろうと思ったし、そういう自分をどうしようもなく感じて、自己嫌悪に陥らずにいられない。
或る日、彼女がいつものように森へ行き、細い道を通っていつもの野原に来て見ると、人の気配がした。
見ると誰かが草の中に横たわっている。感情が揺り動かされた訳ではないが、彼と予想して、近づくと、すぐにそれが若い男だとわかった。しかし、それはカルレイラではなかった。
カルレイラではない。それだけだった。この男に対してそれ以上の関心はもう持たなかった。しかし彼女はそこに座り、一応男の顔を覗いてみた。たったひとりで、眠っているようだ。カルレイラではない。
ふいに男が目を開けた。
彼はすぐにグロリアに気付き、驚いた様子で彼女を見つめた。そして起きあがり、しばらく何も言わずにグロリアの方を見ていた。
こういう場合、グロリアが何か言うのが普通なのかもしれなかった。しかし彼女には何も言えない。彼女はまったく社交的な人間ではなかった。だが彼の方も、何かに心を奪われたかのようにじっと彼女を見ていた。
「あなたは、」
と彼は何か言いかける。グロリアは黙っている。
その人はグロリアより随分大人のように思われた。実際はまだ成人していないが、十四のグロリアから見たら充分大人の男だ。グロリアが見たことの無いような豪華な宝石の装飾を付けているので、たぶん金持ちだ。そしてカルレイラみたいに、騎士階級。身なりは良い。金持ちが、供も連れずにこんなところに一人で、何かあったらどうするのか。
しばらくしてから男は落ち着いた口調で、
「あなたは誰ですか?」
と丁寧に問い直した。彼女は答えずにうつむいた。彼は不思議そうに覗き込む。
グロリアは顔を隠すようにして立ちあがり、帰ってしまおうとした。しかしとっさに男も立ちあがって、驚いたことに彼女の前に立ちふさがった。
「出て行くことはない」
彼は、何故かそう言う。すると彼女は、実は特に何の意図も無いのだが、言われた通りに非常にあっさりと再びそこに座り、また黙り込んだ。
彼は内心少女の態度に動揺していた。予想外の反応に、それ以上声をかけていいのかわからず、話をする気にはなれなかった。そして彼は少し彼女を観察した。もちろん彼女もそれがわかっていたが、もう顔を隠したりもせず、既に彼に構わずに四つ葉のクローバーを探す作業に戻っていた。
彼女があまり普通の少女のようでないのを彼も感じ始めていた。口がきけないのかもしれないとも思った。しかし、とても美しい。彼女はやっと見つけたらしい四つ葉のクローバーを摘まないまま、じっと見つめている。
彼はそれ以上彼女に構わないことにし、そのまま場所を譲り渡すようにして、草を食べさせていた馬に声をかけ、そのまま帰って行った。
それから毎日、グロリアがその野原へ行くと、あの男は同じ場所に現れた。彼もカルレイラも、グロリアが来たけものみちとは反対側の道からやって来ていたらしい。そちらの方向は大きな街道が通っている。彼らが来るのは街道から直接この野原へ通じる道なのだと思われた。
二人は毎日顔を合わせはしたが、一言も口はきかなかった。男はなぜかいつもひとりで、近辺に何か用事があるらしく、ここの泉に休憩に来ているようだった。だからそれほど長い時間いるわけではないし、来る時間もまちまちだった。荷物が少ないのでおそらく、近くの家に滞在している人で、従者たちと別行動をとっている。軽装だが帯剣はしていて、それだけが少し怖い、と思った。
それでもグロリアはグロリアで彼のことを考えるのは放棄し、花を摘んだり、延々と考え事をして自分の世界に浸ったり、いつも通り好きに過ごしていた。時間を潰すように。
時間を潰す。そう、彼女はここで何かを待っていた。この男ではない、誰か? それとももっと別のものなのか。彼女自身、確信が持てなかった。
しかし、この男には、グロリアのようによく顔を合わせる人間に対して全く関心を持たず、ともすれば存在を忘れるなどということは不可能だったので、彼はやはり彼女の存在を気に掛けて、様子をうかがっていた。そういった間隔を保ちながら、二人はそこにいた。
***
そんな或る日の事、男はまたいつものように泉に水を飲みに来た。いつものように少女がいる。だがふと視線を感じ、思わず振りかえった。
彼は驚いた。彼女が自分を見ていた。そして目が合ったのだ。それだけの事なのに、彼は動揺した。
彼女とはっきり目が合ったのは初めてだった。だからこんなにおかしな感覚がするのかと思った。そこにいる少女が、今まで見ていた少女と全くの別人のようにさえ感じ、恐ろしくなった。どうしたことだろう! こんな少女に見つめられて動揺するなんて。
彼もあまり普段感情を外に出したりする人間では無かったのだが、それでもこの時だけは動揺を顔に出てしまったような気がして、彼は即座に目を逸らした。
しかし彼女は緩慢な、いや違う、宮廷の貴婦人でもそうそうしないような、焦るということを知らない優雅な足取りで近寄って来て、そして彼のすぐ側に座り、じっと彼を見ている。その様子は驚くほど無遠慮である。
彼は彼女の関心が彼のどこに向けられているのかをようやく悟った。
「これは」
彼女は半ば呆然とした感じでつぶやいた。彼女は彼の羽織っていたマントにそっと触れる。少し独特の色合いで、そしてマントを留めるのに使っていた紋章入りの留め金。これらを彼女は見ているのだ。ようやく彼は、以前眠っている彼女にこのマントをかけてやったことを思い出した。
彼女が何をどう思って今どのような心境なのか、彼には全くわからなかったが、これまで彼女がぼんやりした目をしていたのを思い出した。彼女はこの時まで彼を見ようともしていなかった。望むもの以外、何も見ようとしていなかった。だが今は、彼女は情熱の全てを彼に傾けているのかとさえ思われるほど、強い視線を彼に送っていた。
彼はこの変化をよく理解しきれず、非常にとまどった。いつのまにか自分の視線が彼女の顔に戻っているのを知った。
今更彼も、自分があの時眠っている彼女のそばに近づいたのを隠すような気にもなれない。だがだからと言って、あの時は彼女に対してどういうつもりも無かったと思う。無礼なことをしたという認識も無かった。だからこの状況にかなり戸惑っていた。
「あなたは誰なの?」
彼女は言った。何故突然その質問が出てくるのか彼にはわからなかった。紋章に心当たりがあるのか? 外国の、こんな田舎の村の少女に。しばらくためらった後、結局彼は名乗らなかった。
彼はすっかり驚いていて、それから意識を改めた。彼こそが、この少女をみくびっていたのだった。
彼の初めて見た時からの彼女に対する感情は、ただ美しいものを見ただけのようなものだとずっと思っていた。彼女はそれ程美しかったのだ。見つめることに後ろめたさを感じるほどに。大輪の花のような鮮やかなところは無く、ただ真っ白い色のような印象の美しさを彼女は持っていた。しかもそれは輝く星のような白ではなく、例えば、ここにたくさん咲いているシロツメクサのような。素朴、と言いたいのではない。純粋。しかし生命を持つ美しさ。その印象は更に強まり、そして今はその深い深い、そしてどこか強く、凛としていて、それでいて弱々しい、不思議な瞳が、彼の心に自然に焼き付いた。
しばらく二人とも一言もしゃべらなかった。彼は彼女の行動の普通でないのを、何か有るのだと思いはしたが、今それを追究する気にはならなかった。その必要はどこにも無かったのだ。彼は合理的な人間だった。あるいは融通の利かない人間だった。彼の目的の対象が彼女でない以上関わらない方がいい、と考えた。
「訳あって身分を明かせない。あなたのことも聞かない」
そう言うと彼女の瞳はまた別のものになっていた。どこか表情が有るようだ。気分を害しただろうか? よくわからない。
「人を捜している。この辺りは既に大分聞いて回った。あなたより少し年上だと思う。ブロンドの女性で、あなたではないと思う。知らないだろうか?」
この辺りにブロンドの若い女性がいるとは聞いたことがない。もとより地元の人の噂は彼女の耳には入らない。全く関心がない。彼女に聞いても無駄だと彼がはじめから思っていたのは正解だった。
黙って首を横に振る。役に立たなくても彼は別に落胆もしていない様子だった。
「ここは人が来ないけれど、少し向こうは街道だし、良くない人間も森へ来る。一人で出歩かない方がいいと思う。地元の人間ならわかってると思うが、若い女性が一人でいない方がいいと思う」
彼の方が余所者で、この少女の方が地元のことは知っているはずで、それを思うと自分の忠告は余計なことだし、お節介のだったかもしれない。しかし、相手は本当に人間なのだろうかと、彼はふとあやふやな気持ちがした。
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