第一章 はじまりの章 第3話
今度こそもう行くまいとグロリアは思った。もう会わない方がいいのだと思った。彼がどういう目的であの場所にいたのかわからないけれど、嫌な予感、という程でもない違和感が拭えず、これ以上つきつめて考えたくないような気がした。悪いことなどあってほしくない、というのが正直な気持ちかもしれなかった。一日中部屋に閉じこもっているので、隣にいるアリシアもどうやら心配しているようだった。何をする気にもなれず、しかしそうしているとどうしてもカルレイラのことが思い出されて、何だか知らないがそんな自分が不愉快だった。
いつも感情を動かしたりせず、動かしたとしても人前でそれを見せることも無く、彼女はやってこれたはずだった。冷静だとばかり思っていた自分が何故こんなに感情的になっているのか、不思議だった。逆にそれが嬉しいような気も起こったが、やはり苛立たしさは収まらない。
次の日も、その次の日も彼女はあの野原へ行かなかった。一日中部屋に閉じこもって、食事には顔を出したが食欲もなく、いつも通りに黙っていたのだが、とても不機嫌だった。
しかしそれでも、数日経つと彼女も落ち着いてきて、やっと自分を振りかえって見るようになった。あの時嫌な気持ちになったのはどうしてだろう。もしかして、自分の弱さを初めて人前に暴かれそうになって、慌ててしまったのかもしれない。それであれ程慌てて逃げ出してしまったのかもしれない。だとしたら、彼に対して反感を持つのは間違っているような気がする。いや、もともと、反感だったのだろうか。そこまでの不快感や恐怖ははじめから無かったような気もする。どうだっただろう……。
いろいろ考えてみたが彼女にはわからなかった。近寄らないのが安全な気もした。しかし、それでも何か、惹かれるものが有って、二度あの場所を訪れてしまったのには違いなかった。あの男の人のことが? もう顔も覚えていないのにどうしたことだろう……。あの薄青の目が思い出される。
彼はもうあの場所へは来てくれないかもしれない。そう思った途端、自分でぎょっとする程の喪失感を味わった。そうだ。もう二度と会わないかもしれない。でもいいではないか……。いいはずなのに。あの人のことが? いや、多分違う。興味を持つほども話していない。
何故自分があそこへ行かないのか、と考えてみると答えが出ない。そしてどうして行く必要があるのかと考えると、なおさらだった。
何もかもが夢だったような気がしてきて、あの男は本当にいて、そしてあの場所は本当にあそこに有ったのかということさえあやふやな気がした。
***
また数日後の午後、彼女はようやく家から出た。思い立ってみると、もう遅いのではないかという焦りのようなものを感じ、少し早足であの野原へ向かっていた。
やっとその場所へ着くと、そこには誰もいなかった。
少しほっとして、それから落胆して、しばらく突っ立っていたが、ゆっくり草の中に入っていき、シロツメクサの上に横たわった。
草の香り。のどかだった。泉の水が湧く音も、ひばりの声も、セキレイの声も、ますます心地よく、暖かい日の光の中に蝶がひらひらと浮いている気配がして、そして何てこの世は美しいのかと思ってみる。
じっと見上げると、今まで一色だとばかり思っていた空が、さまざまな濃淡を持つのを見つけたりする。
……しかし、それが何だと言うのだろうか。彼女は自分に問いかけてみた。
空がいつもと違う色だったからと言って、それがなんだというのか。自分にはどんな感銘にも及ばない。
こんなものが、きれいなものや美しいものや、暖かい日光や、甘い香りは、今一時の気休めにしかなりはしない。
ここを離れたらもう何も残るものは無いし、無いだろうし、それらの起こした火の、残り火を心の奥まで覗いて掘り起こして探す気にもなれない。探したところで見つからないだろうもの、を追い求めるだけの値打ちがあるものと見なすことが、どういうことだかわからなかった。
わからない。もう二度とこのようなこと、あのような心を動かされることに出会わないだろうと彼女は思った。あれも思い過ごし。ただ、今はこの一時の休憩所で、この優しい自然に埋もれ、抱きしめられながら、彼女は目を閉じ、眠る。
***
目を開くと、誰かがじっと覗きこんでいる。彼女の意識はまだ朦朧としていた。彼女は半分夢の中でしばらくもどかしい思いをしながらまばたきをした。起きあがってやっと状況を理解する。
いつ彼は来たのだろうか。彼女を起こしもしないで、どれくらいの間こうしていたのだろう。彼は彼女がゆっくりと髪を直し、衣服を整え終わるまでじっと待っている。
グロリアはそのままうつむいて、長い髪についた草を何度も何度も払った。彼は何か言いたげな様子である。だが彼女は彼を見ない。
彼は注意を引くように何か言いかけたが、言葉を続けなかった。
そのまま彼を無視して、グロリアは四つ葉のクローバーを探し始めた。
彼女の髪は身の丈ほども有った。それが肩から背中を流れ、草の上に落ちかかる様子は実に美しかった。しかししつこく手元に落ちかかってくる様子は少しうっとうしそうで、その少女らしいしぐさがほほえましく、髪を払ってやろうと思わず彼は手を伸ばしそうになるが、思い直して立ちあがり、泉の方に歩いて行った。
彼は泉のほとりに腰掛け、空を写すその水面を眺めていた。穏やかな風が小さな水面に緩く波を作った。ふと彼の目の端に何かが映った。見ると、水面に映ったグロリアの姿だった。
しばらく二人は水面を通して見つめ合っていた。
「カルレイラ」
と、彼女が言った。
彼が振り向くと、彼女はもっと彼の側に近寄って来て、黙って右手を差し出した。見ると、彼女の手には、一本の四つ葉のクローバーが握られていた。
彼は視線を彼女に戻した。彼女は無表情だったが、少しうつむいて、伏し目がちに、ちらりと彼を見ながら、早く取ってくれとでも言っているようである。そしてその時急に、何か気おくれしはじめ、心許なげな気持ちでいる彼女の気持ちがはっきりと見えた気がした。
彼女がだんだん彼の様子を不審に思い始めたらしいので、彼はゆっくりと手を伸ばす。
この時彼の心にはある計画による思惑が潜んでいたようなのだが、それと別にまたはっきりしない、高潔な優しさ、とも言い切れないがある種の気遣いもあった。無言でいる彼女の心を覆い隠すベールを彼は経験として知っている、あるいはそのような気がする。それだけのことだが。
そして、どうしてそうしてしまったのか彼自身にもその時はっきりわからなかったのだが、彼はその手で彼女の手首を軽くつかんだ。折れそうな程細い手だった。
彼女は表情を変えてはいなかった。動揺すらする余裕も無い程、目の前で起きていることに思考が着いていっていなかったのだ。ぼんやりと彼の顔に視線を向けた。その途端、カルレイラはその手を引いた。
彼女は彼の腕の中に倒れこんでしまった。彼は素早く、軽々と彼女を抱き寄せた。
彼女はじっとしていた。そうするより他になかった。
彼女の認識を裏切ることはそこに発生しえなかった。二人ともそのまま動かなかった。顔を見合わせることはなかった。
やがて彼はグロリアを放し、そのまま顔を背け、何も言わず去って行った。二度と振りかえりはしなかった。ほんのつかの間の出来事であった。
彼女はいつまでも、彼の行ってしまった方向を見つめていた。
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