第一章 はじまりの章 第2話
あんなことがあったから、本当は彼女ももうその野原を訪れるつもりはなかったのだけれど、どうしてか、不思議な力に引き寄せられるかのように、再びあの道を歩いていた。道々何か考えていたわけでもなく、ひたすら彼女は歩いていた。何が彼女をそこへ引っ張って行ったのか、彼女自身にはわからない。
野原につくと、やはりそこには誰もいない。木に掛けていたマントも見当たらなかった。どこの木に掛けておいたのだったか。本当にそんな出来事は起こったのだろうか? つい三日ほど前のことなのに、それさえも彼女の記憶の中であいまいになってしまった。
何故ならまるでそこには今まで誰も訪れたことが無いかのように、美しい泉が湧き、クローバーの茂る静かな草地だったから。天気はとても良い。彼女はその場に座り、花を摘んでみたり、四つ葉のクローバーを探してみたり、いつも一人でしているような他愛ない遊びで時を過ごした。日差しのせいでとても暖かく、気分はよかった。目を瞑り草の中に顔を埋めてみると、虫の羽音が優しく耳をくすぐった。春だった。透明な空。アリシアや家の事も忘れ、自分が誰かも忘れ、皆溶けて消えそうな気がした。
「何をしているのですか」
と、ふいに声がした。突然の事に、考えるより早く彼女はその場から飛び退いた。それから何が起こったのか考えた。
振り向くと、背の高い若い男がいた。大人に見えたが、それ程歳のいった大人には見えない。身なりや顔の造作など見る余裕は無かったが、とにかく優しい目、青い目をしていることだけわかった。彼は何時の間にか彼女のすぐそばまで来ていて、地べたに身を投げ出している彼女を覗きこんでいた。どうして気づかなかったのだろう! 人の気配さえ感じなかったなんて。じっと見ていると、彼は少し身を引いた。
「驚かせてすみません」
彼は静かに言う。しかしグロリアは何と言えばいいのかわからない。黙っている。彼女が無表情なので男もどうしていいかわからない様に彼女を見つめていた。不自然に長い沈黙が続いた。
グロリアは何か言おうとした。だが気が焦るばかりで何と言って良いのかわからない。若い男としゃべったことがなかったのだ。男の人と言えばバール氏と、使用人のおじさん達、祭司様、それから、家庭教師、例外は数年前まで家に来ていた最初の家庭教師で、あの人はこれくらい若かった。それ以外の男とは会わない。
それもこんな身なりのいい人間は普段ここに来ない。祭司様だってこんな。彼は小奇麗な格好をしていて、そこでようやく気付いた。初めて見る、彼は騎士階級だ、若いけれども。
何か言うにしても、不自然な沈黙の後に今更間が悪いような気がして、結局何も言えずにいた。しかし視線はしっかりと彼に捕らえられてしまい、どうしようもない。こんなにじろじろ見てくるなんてあまりに不躾だ。だがこちらから視線を逸らすことができなかった。どうしていいかわからない。こんなことは初めてだ。泣きそうになった。
彼女の心情を悟ってくれたのかどうか、彼は不意に視線を逸らした。ほっとして彼女はうつむく。しかし彼は立ち去ってはくれず、そのまま彼女のすぐ側に居座ってしまう。緊張した。焦った。
そうだ、初めてではない。人がじろじろ見てくるのは初めてではない。彼女の容貌が人目を引くのを彼女は知っていた。知らないはずがないだろう。アリシアにも言っていないけれど、だから隠れて過ごすことにしたのだ。近所のおばあさんが、目立ってはいけないよと警告してくれた。あれは、当主の娘のアリシアではなく、まだ幼いグロリアの方に婚約の申し入れがあった時だ。
「あなたの名前を教えてくれませんか」
何か唐突に彼はそう聞いてくる。グロリアは答えるのをためらい、じっと地面を見ていた。天道虫のとまった露草が揺れている。
彼女は、彼の視線がまた自分の顔に移っているのに気がつき、おそるおそる顔を上げた。意外にも、彼は根気よくじっと返事を待っているようだった。目が合う直前にまたさっと下を向き、やっと、小さな声で、グロリア、とだけ言った。
声を出してしまうと少し心に余裕ができ、気持ちが落ち着いてきた。そして同時にまた、後悔した。自分の浅はかさを後悔した。知らない人に名前を言うなんて。しかし、この程度の自由すら制限されることへの反抗心のようなものが、また、自分を浅はかと思い込まされることへの苛立ちが募る。
「グロリア」と彼はつぶやいた。そしてまた黙った。自分の名前が他人の声によって透明に響くのを初めて感じ、彼女の心臓はずきずき痛んだ。涙が出そうになった。しばらく二人は沈黙した。快い沈黙ではあった。
しかし男は急にその沈黙を破った。
「私はカルレイラといいます。また明日、この場所で会えますね?」
そう言うと、返事をする間も、そして驚く間も与えずに、彼はさっと彼女の手を取り、その手の中に何か小さな固い物を投げ込み、そのままあっけなく去って行ってしまった。
いつのまにか夕方だった。彼の姿が見えなくなってもグロリアはじっと右手を握り締めて、行ってしまったその方向を見ていた。
彼女の手の中には、約束のしるしらしい、青い石のついた指輪が入っていた。
***
次の日、ためらいながらも彼女はまた来た。すると彼が泉のそばにいて、こちらに背を向けて水面を見ているのがすぐに見つかった。水音に気配を消されて、彼女の存在はまだ彼に気づかれていないようだ。その上彼は考え事をしているようでもある。
彼女は側に寄るのをためらい、来てしまったのを後悔していた。数歩歩み寄ったものの、思い返して、自然に彼女は引き返しはじめた。
すると突如男が立ち上がったような気配がし、ぎょっとして、グロリアは手近な木の裏に身を潜めた。足音はこちらに近づいてくる。どうしよう、逃げようかと彼女は思った。しかし、逃げるのを諦めた。彼はもう、すぐそばにいて、こちらの様子を覗っていた。
しばらくそうしていたが、そのままあまりに長い時間何の変化も無いので、そっと覗いて見る。顔を出した途端彼と目が合った。彼も慌てたように目を逸らした。そしてまた振りかえって、泉の方に歩き出した。
グロリアは何故か、木の裏から飛び出し、少し離れてついていってしまった。そして彼はまた泉のそばに腰を下ろし、水面を見ている。グロリアは少し離れた所に座り、しばらくカルレイラの様子を見ていたが、そのうち草花に関心を移し、まるで彼に関心が無いかのように草を繋ぐ遊びを始めた。そうして熱中していたので、彼が泉に映る彼女の姿をじっと見つめているのには気がつかなかった。
カルレイラは急に振りかえり、何か言いかけてじっとグロリアを見つめた。
しかし一言もしゃべらずに彼女を見つめている。
グロリアはどうしていいかわからずに、顔をこわばらせ固まったように見つめ返した。この時初めて彼をよく観察した。
こんな顔だったのか、と見入る。とても美しい青年だった。線が細く、女性的で、どうかするときつく見えそうな薄青の瞳と、額にかかる茶がかった薄い色の髪。彼はそのまま、ずっとそこにいて、逡巡している様子を見せる。何かをグロリアに伝えようとしているのだろうか。言おうか言うまいか迷っているのだろうか。
グロリアは泣きそうになりながら、何故か目をそらすこともできず、彼の表情が何を示しているのかはわからないが、はっきりと緊張感が有って、それが余計に彼女を不安にさせた。
しかし、どういうわけか、彼女は彼の瞳に、ためらいと緊張の間に一瞬映った、得体の知れないものを見逃さなかった。あっ、と思った。それが何だったのかはわからない。何だろう、少なくとも彼女の経験の中には見たことの無いようなものだったので、それがいいものなのか悪いものなのか、判断がつかなかった。それから急に恐ろしくなった。このやさしげな青年が、とても恐ろしくなった。
気がつくと彼女は立ち上がり、走り出していた。怖い。ただそれだけしかわからない。後も見ず、彼女は走った。しかし何故か後ろから捕まえられるような気はしなかった。ただただ、彼女は走った。
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