グロリアの物語

緩洲えむ

第一章 はじまりの章 第1話

 少女がいた。王国のはずれ、街道近くの森に、その少女はいた。バール家のグロリア。歳は十四歳。

 彼女は六歳の時にこの小領主の家に来た。誰も、彼女自身にも、どうしてここにいるのかわからない。どこから来たのか、どこの誰なのかもわからない。八年前の冬の夜、一人の男が彼女をここへ連れてきた。男は粗末ななりの下級の騎士に身をやつしていたが、少女は古びたマントと大人用のショールを幾重にも重ねた下に、それは見事な織りの美しい衣服を着ていた。類を見ない美しい瞳、身の丈ほどある黒髪に、白い肌、物怖じしない、おっとりとした表情をしていた。貴族の娘であることはあきらかだった。男は金貨と首飾りと、少女に「グロリア」という名だけ残して、雪の降る中一人去って行った。


 あれから八年、彼女は美しく成長した。森のそばの、この辺では一番大きな二階建ての家、古い屋敷の隅っこの、ついたてで仕切られているだけの小さな部屋に小さな藁敷ベッド、収納長椅子をひとつ、書字板をひとつ、小さな聖本を一冊もらって住んでいる。正式な養女ではなく、使用人でも無かったが、昔からそこにいるのが当然であるかのようにそこにいた。

 バール家には他に一人娘がいた。彼女はアリシアといい、グロリアより一つ年上だった。小さい頃はいつも一緒にいて、まるで姉妹のように仲良く育ったが、いつの頃からか、打ち解けて話す事もなくなった。グロリアは一人で静かにしているのを好むようになった。彼女はいつの間にか、必要のないことを話すのをやめ、必要のないことを考えることをやめていた。もうアリシアとも話さない。客の前に姿を現さない。自分の思いを伝えない。

 グロリアが一体何を考えているのか、アリシアにはわからない。そして、彼女の両親が何を思っているのかも。彼らは、グロリアにはアリシアに対するのと全く違った接し方をしていた。よそよそしく、機嫌を損ねないよう常に気を遣っているかのようだった。善良で小心者の、裕福でない小領主だった。グロリアはおそらく都の貴族の娘。近頃の政争で敗北した側の親族かもしれない、なら恐れる必要も無いはずだが、しかしあの男はいつか迎えに来ると言ったのだ。それを信じ、彼女の告げ口を恐れる程度の謙虚さがある人々だったということなのかもしれない。


 上流貴族の娘らしいとはいえ、彼女は自分を特別な存在として扱うことを言葉で要求せず、態度も高慢ではなかった。しかし、自分のおかれている状況をわきまえているかのように見せながら、ごく自然に、一定以下の扱いを受けることを拒んでいた。田舎育ちのアリシアにはよくわからないが、彼女に関わる全ての人が、みなおとなしい性質の人々であっただけに、何か物言わぬ力により彼女の地位の高さを認めさせられていたようである。それが血筋の違いというものだと知ったのは随分後になってからだ。


 いつの頃からか、アリシアはグロリアを恐れるようになった。当主の娘である彼女が、年下で、居候のグロリアに何の遠慮もする必要は無いはずだが、彼女の無表情の下に有る内心をいつも伺っていた。

 アリシアは同時に、グロリアの持つ何かに惹かれていた。また同情もしていた。彼女の孤高な精神に魅力を感じながらも、自分が当たり前のように持っている両親とのあたたかい団らんに彼女は加わらず、彼女のうち解けた光景など想像もできない。幼い頃は自分の母に甘えようとする彼女と愛情の奪い合いをしたことも有ったが、今の彼女がそのような態度を取ることはありえないように思う。凡庸を自覚しているアリシアには、そんな彼女を羨ましいとは思えないのだった。


 グロリアは愛想は悪くなかった。だがどこか表情は曖昧で、人との交流を軽く受け流そうとするところがあった。無理に理由を作って彼女と話そうとすると、作ったような穏やかな表情を動かしもせず、黙ってアリシアにつきあってくれている。それがどこか不思議でもあり、また自分とは違う高貴さを感じもした。

 グロリアの人並み外れた美貌が更に彼女を孤高の存在にしているようにも思えた。恐れつつ、憧れている。アリシアには、グロリアという少女は謎に満ちた存在であった。


***

 或る時、グロリアは一人で屋敷を出て、森へ向かった。小さな頃から慣れ親しんできた、明るい森である。一度アリシアと二人で森の奥に迷い込んでしまい、雨の降る中洞穴で夜を明かしたことが有った。その時でさえ、彼女は森が恐いとは思わなかった。彼女から見ると、森は優しかったし、そこにいると綺麗な親しい存在に包まれているような安心感があった。

 それでも当然、森をよく知っていた訳ではない。蛇や獣、毒虫、毒草の危険をさほど知っていた訳ではない。知らないから恐れなかったのだ。安全な地域だから彼女は守られていたに過ぎない。しかし、ひとりになれる安全な場所は彼女にはどうしても必要だった。彼女は時々森を歩く時間を求めた。

 歩くたびに、いつも必ず何らかの発見がある。珍しい花が咲いていたり、鳥の雛が落ちていたり、突風に襲われたり、空から大きな羽のついた種が落ちてきたり、いつも新鮮で、おもしろく、彼女はこういう散歩をなんとなく好んでいた。

 その日発見したのは、一つの道だった。

 もう十年近くこの森に育ったのに、知らなかった。少し大きくなって近所の子供達と遊ぶのを禁じられてから、森へは頻繁に行かないし、森のことを教えてくれる人もいなくなった。これまで一度も気づかなかった道が、大きな岩のそばの、茂みの奥に潜んでいるのを知ったのは、走り出てきたリスを追いかけて茂みの中を覗いて見たからである。

 人が一人やっと通れるくらいの幅で、もうずっと誰も通っていないのではないかと思われるほど雑草で覆われていて、敷いてあった石が辛うじて道の存在を残していた。

 最近誰か通ったのだろうか? 誰かの足に踏み固められているようにも見えなくなかった。その道の方へ出てみると、その先は緩やかな下り斜面になっていて、また森が続いていた。

 またしばらく行くと、急に森が途切れた。森の終わりかと思ったら、そこは木が生えておらず小さな広場のようになっていて、空がぽっかりと開いている。一面クローバー畑になっていた。ぼんやりと辺りを見回してみる。誰もいない。ちろちろと音が聞こえ、そちらを見ると、小さな泉が石の間から湧いていた。静かだった。とてもいい天気で、春の土の匂いがしっとりとかぐわしく、いい気分になった。彼女はそこへ座り、四つ葉のクローバーを探し始めた。彼女はただただ草をかき分けていた。今はそれ以外になんの目的も、感傷も無く。聞こえるのは風の音と、鳥の声、そして泉の湧く音。

 彼女はいつしか眠気を覚え、そこに横たわった。草は柔らかい。去年の枯れ草の上に、生い茂るクローバーの葉の柔らかいことといったら……。


 彼女が眠り込んでしまってから、そこへ一人の若い騎士がやって来た。彼は窺うようにゆっくりと、眠っているグロリアの側へ来て、それが眠っているだけの少女だと知ると、ほっとしたようだ。そして次に、彼女の美しさに驚くのだった。身の丈程もある長い黒髪を、無造作に草の中に投げ出して、長いまつげはぴたりと下を向いて、まだ幼げなくちもとや喉、細い腕、全てが美しく、輝かしい光景を作っていた。見慣れた宮廷の人々に比べ簡素な身なりで、飾り気の無い田舎の少女だったが、その神聖とも言える美しさに、騎士はしばらく見入っていた。

 やがて、やや冷たい風に我に返り、彼は天を仰ぐ。天気の良い日とはいえ、まだ春も浅く、風は少し冷たい。しばらく思案してから思い切って、彼は自分のマントを彼女の上にかけてやった。

 そのまま騎士はそっとその場を離れた。


 しばらくして目覚めた少女は、自分の上に掛けられたマントを不審に思い、すぐに投げ捨てた。だがすぐにそれが誰かの親切な行為であったことに思い至って、しばらく悩んだが、このようなものを家へ持って帰ることも憚られ、近くにあった低木の枝にひっかけておいた。

 誰も来そうにない場所だと思ったのに、誰かが眠っているグロリアのそばまで来たのだと思うと少し恐かった。だからもうここへは来るまいと思った……。

 彼女は家に帰った。普段からあまり家の人とは会話をしないが、その日は殊に、誰にも有ったことを話したくないように感じて、何となくいつもより秘密めいた気持ちがし、興奮して、なかなか寝付けなかった。

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