第22話 振り返れば

 身じろぎと衣擦れの音が収まったあとも彼女はしばらく口を閉ざしていた。

 透き通るような青い髪を撫でて、じっと、たき火の炎を見つめている。


「……私ね」


 やがて、ミーシャはポツリポツリと話し始めた。


「実を言うとね、この旅がすっごく楽しいんだ。

 好きなところに行って、好きなことをして、好きなように過ごす……。

 こんなに自由だって知らなかった。

 ……いつかちゃんと責任のある立場に就いたらこんなことできないしね」


 彼女は左手をたき火にかざし、ぱちり、と薪をはじけさせる。

 舞い上がった火の粉が、まばゆいほどの星空へ吸い込まれていった。


「ただ……後ろめたい気持ちも確かにあるの。

 精霊王国のみんながどうなったのか、分からないから。

 私一人だけこんな思いしてていいのかなって、ずっと悩んでるんだ」


 透き通った青い瞳が、夜の暗闇へ向けられる。

 わずかな風と虫の音だけが耳を刺激してくる環境に、彼女の静かな声はよく響いた。




 ――それから、彼女は何かを言いたそうにしていたが、

 結局言葉が見つからなかったらしい。


 口を開いては閉じ、開いては閉じ……

 それを何度か繰り返したあと、突然諦めたように息を吐いて紫色の星空を見上げた。


「この旅が終わったら私たちどうなるんだろうね。

 精霊王国が無事だったら、きっと私は戻ることになっちゃうな。

 また偉いひとたちとお茶会したり、ダンスしたりする毎日に戻らないといけないって考えると嫌だなあ」

「ああ、やっぱり王女様ともなるとそういうのがあるんだ」

「もちろん。これでも立派な王族なんです~」


 年頃の少女のように足を伸ばし、うんざりしたように口を尖らせる彼女。そんなとても王族には見えないしぐさに急に親近感が湧いてきた俺は思わず笑ってしまった。


「俺は……ああ、戻ったら勉強しないといけないかも……。

 うぇ……マジで憂鬱……」

「そんなに?」

「だってやりたくもないことを人から強制されるのって嫌でしょ?」

「それは……ちょっとそうかも」


 元の世界に戻ったあとの憂鬱を、二人で話して笑いあう。

 それは愚痴であったり、不満であったり、ささやかな怒りだったりもした。

 この大人びた少女でさえ、ごくあたりまえに不満や不安を感じるのだなと意外に思いながら相槌を打った。


 時折聞こえるたき火の音も、遠くで鳴る虫の音も、いまはとにかく心地がよかった。


「……きっと、今しか味わえないんだよね」


 ふと、目を伏せて微笑んでいるだけだったミーシャが、たき火をじっと見つめながらつぶやいた。


「自由な旅をする喜びも。将来どうなるのか分からない不安も。

 いつか数十年後になって振り返った時に

 一度きりしか味わえなかった特別な思い出として残るんだろうね。

 ……時が経てば、きっとまた別の悩みや考えでいっぱいになっちゃう気がするもん」


 伸ばしていた膝を抱きかかえた彼女が、ゆっくりと瞬きをしている。

 普段とは大きく異なる物静かな雰囲気。

 その様子に、思わず見惚れている自分がいた。


「だから、楽しいことも、辛いことも……。

 いま見られるものは、目をそらさないでちゃんと見ておきたいんだ」


 そう言って、彼女は青い瞳に焚火の炎を映していた。


「……ね、シンも何か話してよ

 わたしばっかりしゃべってたら恥ずかしいもん」

「俺?」

「そう。ここまで旅してきて、感じたこととか、考えたこととか。

 聞かせてほしいな」


 促されて、何を話そうか考えはじめた。


 ここまで旅をしてきて、感じたこと……


 感じたこと……。




「俺……あの世界に戻りたくない」


 ぱち、とたき火が弾ける音がした。

 ミーシャが困ったように顔を伏せたのには気づかず、俺は続けた。


「こっちの世界に来てからさ、毎日が面白いんだよ。

 使えると思ってなかった魔法が使えるようになったり。

 なぜか黒騎士ってやつと命がけで戦うことになったり……」


 直近では、バファという獣人の旅人と知り合いになれたことも含まれるのかもしれない。

 うつむいたまま、口元を緩めた。


「想像してたのと全然違うことが起こりまくっててさ。

 楽しくて、わくわくできて……

 何より、安心するんだ」

「安心?」

「そう。なんというか……

 ……『昨日と違うことやっても大丈夫だ』って思えるんだ」


 たき火を魔法でいじりながら、すこし煙臭い夜の空気を吸い込んだ。


 そもそもこっちの世界には自分の過去を知る人間など誰もいない。

 レッテルも、評価も、あっちに置きっぱなしだ。


 だから身の丈に合わないことをいくら試みたって、誰もそれを咎めない。

 いきなり昨日と違うことを言い出してもいいし、思いがけなく習得した魔法で無双してもきっと構わない。

 いきなり、突拍子もないことを試みたっていい。


 それでなにか精神的な安息が脅かされるわけでもない。


 人目が気になって思うように動けなかった自分にとってこの環境は何にも代えがたいものだった。


「戻りたくないっていうか……

 もう元の自分には戻れねーなあって思っちゃう」


 頭の後ろをかきながら笑いだした。


 そこで俺はふと、機工世界にいたときのかつての自分の姿を思い出していた。


「今になって振り返るとさ、俺ってやっぱりすごい臆病だったんだと思うよ。

 自意識過剰だったんだろうな。

 狭い教室の中で、馬鹿みたいに周りの顔色うかがってさ……

 ……もしかしたら、俺と同じように不安を感じながら過ごしてたやつが、

 一人や二人くらいはいたのかもしれないのに……」


 以前の俺は、周りを見る余裕なんてなかったんだと思う。


 もし、ほんのちょっとでも顔を上げていられたら。

 なにか共有できるものをひとつでも、身近な人たちのなかに見つけられていたら。


 元の世界でも、あんなにビクビクする必要はなかったのかもしれない。




 ……そういえば、ミーシャはどうなんだろうか。


 なにしろ彼女は王族だ。

 俺なんかとは違って立場という重いものを背負っている。

 言いたくても言えないことの一つや二つあったっておかしくないだろう。


 思い立ったが吉日、というやつだ。

 ここまで来たのなら、まずは、目の前にいる相手に目を向けてみようと思った。


「ミーシャ。俺の前では人目とか気にしなくていいからな。

 それこそ『精霊王国のみんなに悪いー』とかさ……。

 もちろん、罪悪感が抜けないのならずっと気にしてたってかまわない。キミにも立場があるだろうし。

 でも、どうせ一度っきりの旅路なんだ。

 少しくらい好きに振舞ってたって、だれも文句言わないさ」


「……うん。

 そう言ってもらえると、救われるな」


 静かに弱く笑ったミーシャが、女の子っぽい仕草でゆったりと青い髪を耳にかけた。




「……わたし、飛行機に乗ってみたい」


 飛行機?


 ああ、そういえば、そんな話も以前したっけな。

 精霊王国で、初めてミーシャと会ったときに、飛行機から見た夕焼けがとても綺きれいだったって話を……。


「ああ、約束だ。

 機工世界に着いたら責任もって案内するよ」


 胸を張ってそう答えると彼女は「ありがとう」と小さくつぶやいた。




 ――それから少しして、彼女は、話ができて良かった、と言って腰を浮かせた。


 俺の方はまだ見張りの時間が残っているはずだったので、たき火の前に座りながらミーシャが荷馬車に戻っていくのを見送る。


 その後、暖かい炎に向き直って、にやにやしながら明日のことを考えた。


 明日はなにをしようか。


 まだ移動は続くだろうし、バファと親交を深めるのもいいかもしれない。

 探知魔法をもっと極めるのも悪くないし。

 いや、もしかしたら何か思いがけないことが起こるかも。


「……さて、そろそろ交代かな」


 今日の夜も気分よく眠れそうだ。

 土に手をついて立ち上がろうとし、振り返ったときだった。







 ――寝ていたはずのミーシャが、唇を重ねてきた。




 ぱち、と薪の弾ける音が響く。


 視界に収まりきらない距離で、淡い青の髪色が映っていて。


 彼女の長いまつ毛が目の前で揺れていて。


 温かい息が肌に触れている……。


 ――そして、彼女が離れた途端に感じる夜の冷気が、自分の顔を痺れさせるのが分かった。


 何が起こったのかも分からないまま、目をしばたたかせる。


 俺の目の前で、腕を抱きかかえるようにして立っていたミーシャが、その色白な頬だけ真っ赤に染めて顔をそらし…………逃げるように、たたた、と走って自分の寝床に戻っていくのを、呆気に取られて見ていた。




 ……。


 え、今のって……キ――


 ……………………。




(……もう少し、見張りしていくか)




 星空が変わらず、頭上で変わらず瞬いている星空を見上げる。







 すべてが終わってから振り返ると、この旅の途中でミーシャがこんなことをしてきたのは、後にも先にも、この一夜だけだった――……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る