第15話 かくれんぼ
――子どものときによくやっていたかくれんぼを思い出す。
茂みに隠れ、息を潜め、身を隠した障害物の隙間から鬼を探す。
ゆっくり、ゆっくりと顔を上げて……。
見えた。精霊王国を駆けずり回っていた闇色の獣だ。
外見は狼に近い。まさに魔獣といった風体である。
数は四匹。
痩せた肢体でひたひたと歩き回り、ぎらついた瞳が闇の中にいくつも浮かんで見えた。荒々しい息遣いが、ここまで聞こえてくる。
俺は息をほとんど止めるようにして、相手を注視した。
子どもの遊びとは比べ物にならない緊張感だ。
スリリングだけど、こちらから一方的に相手を観察できるのが優越感を感じるから、かくれんぼは好きだと思う。
こんな時でも意外と楽しめるんだなと思って、息を潜めたまま静かに笑った。
……やがて、鼻先を地面につけて歩いていたそいつらは唐突に頭を上げて駆け出す。
ガサガサと夜の闇にはうるさすぎる騒音が遠くへ離れていき、
あたりには虫の鳴き声だけが響き始めた。
「……どう? 行った?」
後ろから緋色がささやいた。
俺は静かに手のひらを向けながら、今しばらく様子を見る。
念には念を入れて、周囲に自分たち以外の危険な生物の音が聞こえるかどうか、
耳を澄ませて気配を探った。
「……ふー、よし、大丈夫そうだ。
二人とも出てきていいよ」
俺が立ち上がるのを合図に、全員で腰丈くらいの茂みからガサガサと音を立てて外に出た。
ズボンに引っ付いた葉っぱを払い、痛みを伝え始めていた腰を伸ばして夜空を仰ぎ見た。
――三人だけでの脱出作戦が始まってから、およそ一時間半。
今のところは敵に見つかることもなく移動を続けられていた。
最初の方こそビビりまくっていたが、緋色に続きミーシャまでもがずいずい先に進むので途中から感覚が麻痺していた。
虫の鳴き声にすら足を止めていた自分がアホらしくなってくる。
そこかしこに敵が潜んでいるんじゃないかとびくびくしていたが、案外、バレないもんだなと思った。
視界はとても明るくて動きやすかった。夜なのに、意外と明るい。
遠くで昇っている戦火の炎のおかげもあるが、それより、地球のよりもはるかにデカい月が空に浮かんでいるからだろう。
月光だけでも昼とほとんど変わりがない。
ゆっくりと深く息を吸い込む。
夜に特有の涼しい空気に、かすかに鉄のような匂いが混じっていた。
身体はリラックスしたが、緊張は解けていない……もしかしてこれがトランス状態ってやつだろうか、ちょっと心地よい。
胸が広くなったような感覚を噛みしめながら『世界樹の小枝』で
このまま敵に見つからずに脱出するのは、容易に思われた。
素人の自分たちでも今のところうまくいっているし、
何より、身を隠すのに最適な場所がそこかしこにあったからだ。
精霊王国はとにかく自然が多いところだった。
それも公園のような管理された自然ではない。手つかずの大自然である。
虫がいて、野生動物がいて、そして豊かな果実や木の実が自生している大自然。
それがまったく手つかずのまま都市のすぐそばに残されているのだ。
「精霊人はね、自分でうまくコントロールできないものがあっても、
あなたたちほど気にならないみたいなの」
ミーシャはそう言って笑った。
もともとが人ではない精霊だからだろうか。
そういうスリリングな未知性を好む傾向にあるらしい。
そんな彼らの特性を反映するかのように、精霊王国は首都であっても自然との距離が近い。そこに長く暮らしている人々にすら把握しきれていない場所がいまだにたくさん残ってる。
だから、いくらでも身を隠せる。
……俺たちは周囲に危険がないことを確認して、身を隠せる領域から抜け出た。
途端に視界に広がるのは、灰色の石畳が敷かれた地面から点々と背を伸ばす草木。
原っぱと錯覚するような開けた土地。
そこにポツリと建つ、壁一面にツタが伸びた住居……。
この景観はどこか見覚えがある。あれだ。
ドラマとかゲームとかで描かれてる、大自然に浸食されかけた都市の景観だ。
荒廃した世界観、とかでよくあるやつ。
日をまたぐごとに草花が家を浸食してきて、でも人の領域としての形がまだ残っているみたいな……それに似た美しさが、いま目の前に広がっているような気がした。
「このあたりは、みんなが自由に過ごせる場所なんだよ」
柔らかい風に乗せるように優しくミーシャがつぶやいた。
「ごはんを食べたり、お昼寝したり、何も考えず一日中ぶらぶら歩いててもいい。
ちょっと悪いことを企んでても……たぶんここの人たちは許しちゃうと思う。
そのせいで嫌な思いすることはたくさんあるけどね。
でも、それでもいい。
私たちの中にある光も、闇も、ここではゆるく受け入れられてる」
月夜に照らされた淡い紫色の草地をさくさくと進みながら景色を眺める。
ここは星がよく見えるな、と思った。
遠くの森から聞こえてくるフクロウのような鳴き声とともに風が頬を撫でてきて、そんな不思議な静寂に身を沈めた。
「……良いところね! 気に入ったわ!
あたしここに住みたい!」
「ほんと!? 嬉しいな、ヒイロちゃんが近くにいてくれたらきっと楽しいもの。
そうだ。もし無事に戻ってこれたらお父さんに話をしておこっか?
ひょっとしたら移住しやすくなるかもしれないし」
おおっ、こりゃすごい強力なツテだぞ。
口約束とはいえ王女様のお言葉だ。
これはさしもの緋色も嬉しいだろうと思って見てみると、本人はなぜか顔を曇らせて何かを悩んでいた。
「……ん~……ん~…………!
……いいえ! そこまでしてもらう必要はないわ」
「そ、そう?
いいんだよ? さすがにお父さんも何かご褒美くらいはすると思うし」
「いえ、あたしは……スゥ――……
単にあの真っ黒な連中が気に食わないから一緒に来てるだけよ!
褒美なんて用意しなくていいわ!」
半ば投げやりに言い切った緋色は、そこでがっしりとミーシャの細い肩を掴んだ。
「だから、ミーシャはいま自分のことだけ考えてなさい。
いいわね?」
それだけ伝え終えた緋色は、パッと手を離して先に進んでいく……。
シビれた。
あれだけ幻想世界に移りたがってたのに、それを投げうってまで相手を気遣おうなんて。
俺は小走りで彼女に追いつき、友好的に声をかけようとして……びっくりした。
緋色は泣きそうになっていた。
目じりに涙を溜め、こぶしを握り、不愉快そうにずんずん歩き続けていた。
「……え、緋色、だいじょ……」
「うるさい」
「……もしかして、さっきの内心かなり後悔して……」
「うるさい!
いいでしょ別に!?
あたしだってなんでああ言ったのか分からないんだもの!」
眉間にしわを寄せてうーうー唸ったかと思うと、緋色は突然こちらを向いてきた。
「何かをやりたいと思う理由はなんとなくだけで十分なんでしょ!?
ほら、早く先に進むわよ!」
そう言い捨てて緋色は早歩きで行ってしまう。
呆気に取られた俺は、とりあえずミーシャがついてきているのを確認しつつ、
置いていかれないように後に続いた。
それから、しばらく無言で歩き続けた。
なんとなく気まずい沈黙の中で足を動かしながら、
頭の中でとりとめもないことを考えた。
あ、いつの間にか街に入ってたんだな、とか。
街並みのところどころに豊かな緑があるのがファンタジー街っぽくていいな、とか。
昼間だったらここはどんな匂いや活気にあふれているんだろう、とか。
そうやって想像を膨らませている、そんな時だった。
すぐ横の茂みから、ガサガサと音が響き、
反射的に振り返る。
――涎にまみれた獣の生温かい口腔が、既に自分に向かって広げられていた。
身体中が無音のまま裏返るような鳥肌。
声も発せず腰を抜かしたのがむしろ功を奏したのか、
その獣の口は自分の目の前でばくんと虚空を切った。
細い四肢で軽やかに着地したそいつと数秒間、命を懸けたにらめっこをして――
突然、そいつは茂みの奥に消えていった。
「――はぁっ! はっ……!」
俺はやっとの思いで息を吐き出した。
たかが犬程度だと思ってた。違った。
たった今襲ってきたのは、自分よりも遥かに強力な
気を抜いてたら本当に命を奪われるのだ。
「慎也! 早く立ちなさい!」
見れば、緋色はすでに斧を構えていた。
いつの間に腰を抜かして倒れていたのか。
見上げた彼女の背中が大きく見える。
俺は急いで立ち上がり、ミーシャをかばって『世界樹の小枝』を力強く握る。
すぐ向こうからは、自分たちを取り囲むように影が蠢いていた。
やばい、呼吸が整わない。
だれが狙われてる?
危機を目前にして現れる、無数の『死』の未来。
ほんの刹那の直後にこうやって死んでいるんじゃないか、ああやって死んでいるんじゃないかという鮮やかなイメージが、何百通りと脳になだれ込んでくる。
……今までにないほど、五感が研ぎ澄まされていた。
視界が開け、耳が冴え渡り、肌に触れるとげとげしい空気に敏感になった。
「――ふっ!」
緋色の姿がブレた。
直後、彼女は機工斧を振りぬいた姿勢で静止しており、
気が付いたら獣の一匹がすでに夜の彼方へとぶっ飛んでいった。
うぇ!? もう一匹やったの!?
驚いたのも束の間、恐れを知らぬ獣たちがさらに緋色めがけて飛び込んでいく。
そのたびに、彼女の健康的な白く細い両腕に手繰られた凶悪な三日月状の刃が、
理不尽な速度で敵に叩きつけられていく。
半身をばねのようにひねり、赤い髪をなびかせ……。
まるでダンスでも踊っているかのように、機工斧による蹂躙が繰り返された。
「ヒ、ヒイロちゃん、もしかして戦士の家系の人なのかな……?」
「そう……かもしれないなぁ……これは……」
一匹の獣が、死角から緋色に襲いかかる。
彼女は、いったいそれをどうやって知覚したのだろうか。
即座に振り向いてカウンターを決めていた。
圧巻だった。
闘気によるアドバンテージだけじゃない。
何か末恐ろしい才能のようなものを感じて、俺は勝手に身震いしていた。
「慎也!!」
「えっ?」
なんでいきなり名前を、と思って――
俺は反射で杖を構えなおした。
すでに、一匹の獣が自分に向かってきている。
今にも飛びかかってくるように見えた。
凶悪に裂けた口から溢れる涎が、生理的な恐怖を搔き立ててくる。
うまく働かない頭と体で、とっさに魔力を杖に纏わせることだけは思い付き、
そのまま『世界樹の小枝』を突き出した。
スローモーションで流れる景色。
その時、ねじれた杖の先端部に触れたそいつが。
真っ二つに切り裂かれていくのを目撃した。
「うぉ……!?」
まるでバターでも切っているみたいに、
ず、ず、と生々しい抵抗感が伝わってくる。
驚愕に目を見開いたのも束の間。
そいつは自分の勢いを殺しきれぬままドサリと地に落ちた。
いつの間にか荒くなっていた息を吐き、杖を下ろす。
「もういないわよね……?」
俺は駆け寄ってきていた緋色とともに、周囲を見渡した。
あたりはすでに以前のような静寂を取り戻しており、
自分たちのほかに動くものはないように思えた。
ミーシャと緋色に怪我がないことを確認し、ほっと息をつく。
全員、無事だ。
「シン……それ『魔導剣』の初級だよ?
どうやって覚えたの?」
「え?」
言われて俺は『世界樹の小枝』の先端部を凝視する。
――美しい青の刃が、槍の穂先みたいに浮かんでいた。
これが魔力の色なのだろうか。
思わず目を奪われるような群青色の輝きが、淡い輪郭に収まっていた。
「何年も練習してようやく纏わせられるものなのに……」
「ふ、ふぅん……?」
ちょっと頬がにやけそうになった。
もしかして自分にも才能みたいなものがあったんだろうか。
心地の良い優越感を感じて、いや、それどころじゃないと首を振った。
「とにかく、今すぐここから――」
ぞわり、と。
意味不明の寒気が、全身を支配した。
「……え……?」
突然、全身が麻痺したかのように動かない。
虫や、風の音が、ことさらに響いて聞こえる。
……あれ、なんで、こんな喉渇いてんだ……?
「――獣の雑兵をけしかけてみたのだが」
背後から聞こえてきたのは、くぐもった男の声。
精霊人の兵士や、護衛隊長の人とは異なり、
明らかに、危険な重みを孕んでいた。
「なかなかどうして、やるではないか。
機工世界の者よ」
俺は金縛りにあったような不自由な身体をやっとの思いで動かし、
背後から現れたその男を、視界に収めた。
――まるで闇そのもののような、どす黒い重鎧。
二メートルはゆうに超えていそうな巨体がそれを纏い、
一切表情を伺えない兜を付け、明確な敵意とともに近づいてくる。
がしゃり、がしゃり、と鎧が土を踏む音が、
死へ向かって残酷に時を進める針の音みたいで、
俺は、氷のように冷たい汗が流れるのを自覚しながら、渇いた喉で問いかけた。
「誰だ」
「我が名は『ダビデ』。
黒騎士ダビデ。
……目当ての物を探している」
がしゃ、と鎧の揺れる音が止まった。
――ほんのわずかな挙動ですら相手に殺される理由になり得る。
そんな直感が、全身を支配した。
指一本すら、動かせない。
「この精霊王国の、幼い王女だ」
後頭部の上のほうから重圧で抑えつけるような低い声が響いて、
俺は視界のすみに映る、青髪の少女を意識した。
彼女もまた、目を見開いて、固まっている。
……心臓発作でも起きてるんじゃないかと思うくらい、嫌な拍動がばくばくと胸の内側で響いて、不快だった。
「貴様ら……何か知っているのではないか?」
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