第二章 逸脱編

第10話 夜道を進んで 前編

『闘気』。

 それは、命ある者の生命力を最大限に引き出す力とされている。


 闘気を発揮した者はみな生物としての限界を超えた身体能力を発揮しており、具体的には『車と同じくらいのスピードで走れる』、『自分の身長以上もある鉄の大剣を易々と振り回す』『交通事故に遭っても平気でいる』などなど……。


 およそ空想の中でしかありえなかったことが、一年前から現実になった。


 そして魔力と決定的に違うのは、機工世界の住人でもそれを習得できるという点にある。


 幻想世界が発見されて数か月後あたりから、機工世界側にも並外れた身体能力を発揮しだす人物が続々と現れ、中には一度も幻想世界に行ったことの無い者までもが闘気をまとえたという例が確認されている。


 闘気の習得における具体的な条件はまだ不明だが、強いて習得者の共通点を上げるなら、その力の存在を知っているという点にあるだろうか。


 一説には、意志の強い人物が闘気を習得しやすい傾向にあるらしく。


 それを聞いた俺は「結局のところ精神論メンタルかよ」と軽く失望したのであった。






 生ぬるい夜風が頬を撫で、虫の音がやけにうるさく聞こえる夕暮れ後。


 俺は、目の前を走る緋色の背に視線を向けた。


 先ほど彼女が発揮した、窓を格子ごとぶち破るほどの身体能力――

 それが闘気によるものじゃないかと俺は考えていた。


 というかそれ以外に考えられない。

 殴られたときの意識を失いそうになるほどの腕力だったり、二階から飛び降りた直後に何の反動も感じさせずすぐに走り出せたり……


 そして今この時点でもそうだ。

 明らかに、走るスピード速いんだよな……。


「緋色……ちょっと待って……!

 お前やっぱ闘気持ってね……!?」


 俺は息も絶え絶えに緋色を呼び止める。

 脇腹のあたりが吊りそうになるくらい痛い。こんなに走ったのは久しぶりだ。

 ひざに手を当てながら顔を上げると、緋色は腰に手を当てて怪訝そうに振り返った。


「何よ、闘気って」

「身体能力が限界超えて底上げされる力のことだよ……。

 さっきだって窓ぶっ壊してただろ? もう人間卒業しちゃってるようなもんなんだからちょっとくらいこっちにも気使ってくれ……。

 今はまだ走んの追いつけない程度だからいいけど、下手したらいつか本当に人殺すぞ……」


 少しも息切れしてない様子の彼女に若干の戦慄を憶えながら、俺は息を整えようとする。


 やはり物事には良い面と悪い面があるのか、闘気の習得による弊害もあったりするのだ。


 今みたいに普通の人間と闘気習得者とで超えられない壁のような物が可視化されるパターンが一番ありがちだが、行き過ぎると本当に人命が損なわれることがある。


 力を認識しないまま暴力を振るって意図せず人を殺めてしまう事件とか、闘気習得者による凶悪犯罪だとか……。




 ああ、あと野生動物が闘気を得て人を襲うパターンもある。


 あれはかなり衝撃的だった。


 半年くらい前だったか、日本で闘気をまとったクマが街に現れて

 人を食い殺す大事件が起きた。


 猟銃どころか軍用のライフルですら仕留めきれず、結局、闘気習得者による退治で事なきを得た。

 市が民間に討伐依頼を出してから完了されるまでの流れはまさしくゲームか何かの光景のようで、すごい時代になったなと息をついた覚えがある。


 結局その後は、こちらの世界でも冒険者ギルドのシステムが用いられることになった。

 今でも自然が近い田舎町には本物の冒険者ギルドが経っていて、剣や槍や弓を持った人たちが派遣されてくる。


 話がかなり脱線したが、闘気とはそれくらい強力なものなのだ。

 下手をすれば人命が損なわれるというのもあながち間違いじゃない。


 そうした一連の話を伝えると、彼女は今までの横柄な態度を嘘のように引っ込めた。


「ご、ごめんなさい。気をつけるわ」


 唐突な態度の軟化に驚きつつ、とりあえず転移門への移動を再開。


 相変わらず吊るような痛みを発してくる脇腹に苦心しながら足を動かしていると、こちらに合わせてくれていた緋色が横からチラチラと視線を送ってくるのに気が付いた。


「……ねぇ、お腹大丈夫?」

「腹? なんで?」


 脇腹の痛みのことか? と思ったが、どうやら違うようだった。


「さっき殴っちゃったから……」


 ああ、部屋にいたときの件か。

 カイトがやたらと怯えた顔をしている映像がありありと浮かんできたが、今は別にそちらの痛みは無い。むしろ全力疾走による横隔膜の酷使の方がキツイくらいだ。


 特に問題はないことを伝えると、緋色は「何か変に感じたらすぐ言ってよ」と不安そうな表情を浮かべる。え、急に優しいじゃん、どうしたの。


 困惑しつつ、頭の中でひょっとしたら一番混乱しているのは彼女自身なのかもしれないと思った。

 あれだけ急激な身体能力の変化だ。最初から力加減が完璧に分かるはずもない。

 習得時の自覚症状が無いのならなおさらだ。


 ネットさえあれば慣れるまでの対応策や体験談などを調べられるかもしれないが、残念ながらここは幻想世界。向こうに戻るまでは念入りに情報収集もできないだろう。


「まあ、きっとすぐに慣れるさ。

 闘気持ってるやつなんかたくさんいるだろ? 緋色だけじゃない。

 ちょっと気を付けてさえいれば何も問題ないって」

「そう……よね。

 ……他の人たちも普通に暮らしてるんだし、たぶん私も大丈夫よね」


 彼女は活を入れるように自分の頬をバチりと叩いた。


「悩むのはおしまい! せっかくなら楽しまなくちゃ!」と表情を明るくした緋色は、


 唐突に、服を買いに行こうと提案してきた。


 学生服のままでは幻想世界では目立ってしまうだろうとのことだった。


「金は?」

「ある!」


 緋色は少しだけこっちの世界での通貨を両替していたらしい。

 ボロっちくてやたらと金属臭のする銀貨を何枚か握って閉店間際の服屋に滑り込み、言葉が通じないためジェスチャーを多用しながら最安の外套を二人分購入。


 俺のはちょっと暗めの、緋色のは赤みがかったものだ。

 これで所持金はゼロ。

 素人の値切り交渉でギリギリ足りたのは幸運だった。


 ……そういえば転移門通る時に金とか要らないよな………と不安になりながら店を出ると、あたりにはもう闇が広がっていた。


「慎也。ほら」

「おおサンキュ」


 俺は緋色から受け取った全身を覆いつくすほどのマント――こういうのってマントって言い方で合ってるんだろうか。背中だけ包むやつとは違って全身を包み込むような服なんだけど……とにかくその外套を受け取り、学生服の上に羽織る。

 首元のボタンで留めるだけの分かりやすい作りなのが個人的にポイントが高い。


 見れば、緋色はすでに赤みがかった外套をブレザーの上に着込んでいた。


 年頃の少女のように手首を上げて自分の身なりを確認し、「うん、なかなかいい感じね」と満足げに頷いている。

 サイズが合っていないのかマントの端が地面に少しついているような気もするが、本人は気にした様子でもない。

 俺たちは互いに準備が終わったのを確認して、また走り出した。


 星は異様にきれいだった。

 外は涼しく、月明かりが強いおかげで夜でもぼんやりと明るい。

 立ち並ぶ住居群の輪郭をかすかに捉えながら、二人で人気のいない路頭に足音を響かせる。


 暗闇の冷えた空気を吸い、煙突や窓の隙間からただよってくる食べたことのない夕食のにおいとすれ違い、マントと学生服の内側に夜の肌寒さを取り込みながら走った。


 幻想世界の美しい街並みの下、ほとんど誰もいない通りを駆け抜けていくのは楽しかった。

 息をきらし、全身から熱を生み出し、でも夜だからかひっそりと抑えるように呼吸し、周囲には自分たち以外に音を発する者はなく、世界を独り占めしたかのような優越に気分をひたし尽くした。


「こっちよ」

「ああ、確かこんな道だったな」


 俺は緋色についていく。


「ここは左よ。

 そうすれば近道になるわ」

「……あー、こんな道あったんだ」


 俺は緋色に従っていく。


「そっちは行ったらダメよ。

 衛兵の詰め所みたいなところにつながってるから」

「……詳しすぎない?」


 俺は緋色に物申す。

 さすがに聞かずにはいられなかった。

 多少は地図に目を通してきたらしいが、それでこんな裏道まで覚えきれるだろうか。


「だって! 早くこっちの世界に移りたいんだもの!!

 日本での戸籍とか人間関係とかそういうのもうどうでもいいから今すぐこっちで暮らし始めたいの!

 あっちの世界に未練なんかないわ!!」

「そこまで言っちゃう!?」

「それに……」

「……それに?」


 彼女は口を尖らせた。


「……あんたが行きたがってたから……」


 尻すぼみだったその言葉は、ちゃんと聞こえなかった。


 なんと言ったのかしつこく問いただしていると、

 みるみるうちに緋色の頬が赤くなっていく。


「あーもう! だから嫌いなのよ!

 記憶消しなさい! 今すぐ!!」

「んな無茶な!」


 そんな会話をやいのやいのと続けていると、不意に、前方の街角から人影が現れた。


 あまり目立つといけない。

 声を抑えていこうとした時……違和感に気が付いた。




「……あれ……?」


 その男は、不自然に立ち止まってこちらをじっと見ているようだった。


 思わず足を止めて、行く手を阻む謎の男を観察する。


 口と鼻を隠す黒い布に、頭部のほとんどを覆うフード。


 身動きの取りやすそうなピチっとした暗めの衣服を上下に着込み、極めつけにブーツに、手袋と……。


 とにかく肌の露出を極端に抑えた、見るからに怪しそうな風貌である。


 さらに、暗がりでよくは見えなかったが、その手に、ナイフのようなものが握られている気がして――。


「…………」

「どうしたのよ? 早く行くわよ」

「待った、道を変えよう」


 俺は緋色の手を掴んで路地裏に入り込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る