最近、会いたくない人と会った

脳内で嗅覚を処理する部位と記憶を司る海馬は密接に関わっている。匂いという刺激はそれに関連した記憶を呼び起こしやすいそうだ。良くも悪くも。

数多あるわたしの黒歴史はこれまでいくつかの因縁を織り成してきた。

お呼びじゃねぇが、縁というだけあってあれも" さだめ "というやつだったのかもしれない。社食で偶然たまたまばったり因縁と相見えた。

ほのかに香った独特の香水。気付いた時には遅かった。


本題とは全く関係ないため、此度の相手、どこがどう因縁かは伏せる。そもそも書き起こすために想起するのを指が拒むほどには、まだ自分の中で消化できていない。あの瞬間は、こう、どろっとした、苦い、嫌な、なんかこう、みたいな感じだ。怒りともつかぬ悔しさともつかぬしかしそのどちらでもあり、ともすれば代替品でいいから殴り飛ばしたい衝動が付属する感情。その本体に染み付いていた香水もまたクセのあるものだった。故になかなか記憶を上書き出来ずにいる。

量販店の、万人にウケるようなやつを使ってくれてたら良かったのに。似た香りに出くわす度に上記の感情と衝動が押し寄せるのは、なかなかしんどい。

だが今回は、久しぶりに嗅いだその匂いが何だったか思い出すのに一拍遅れた。それほどには当該の場面を頭の隅に追いやることに成功して健やかに過ごせていたというのにあんちきしょう。あの日を思い出す羽目になり、昼休みが台無しだ。返せ。


いつも通りの休憩時間、仮眠のために顔を伏せていた。タイマーをセットして握りしめていたのもいつも通りだ。普段ならそれが鳴るまでピクリとも起きられない。

それがこの日は違った。ふと目が開いた。そして訪れる出処不明の不快感。

寝起きはすこぶる悪い方で、瞬きというには遅すぎる瞼の上下運動を数度繰り返した。なんだっけ、この匂い。

体の筋を伸ばすと同時に息を大きく吸い込み顔を上げた。上げてしまった。

いた。そこにいた、本体が。向かいの席でスマホを熱心にいじっている。だからまだ見つかっていない。大丈夫だ。大丈夫か?くそう、やられた。いやまだ何も起きていないが。脳裏をあの日の光景がザザァっと走り抜ける。不快感。

どう、どうする。体感5分の、ほんの数秒の後わたしは再び顔を伏せた。何事も無かったかのように。

そしてぎゅっと目を瞑った。慌ててはいけない。悟られてはならない。

そのまま狸寝入りをかますしかなかった。何故なら彼奴は、わたしに拳を向けられているなんぞ恐らく露ほども思っていない。少なくともわたしにはそう感じられる。つまりわたしの存在に気付けば話しかけてくると予想される。大人数が行き交う空間に見知った相手を発見すれば当然の反応だ。まして目の前の席なら。


しかしお呼びじゃねぇのですよ、ほんとに。申し訳ないのだが頼まれたって寄り付きたくない。己の精神衛生のために。わたしの中の彼奴との交流は是非、件の日を最後とさせてほしい。更新したくない。増やしたくない、記憶を。

と、まぁ失礼もいいとこな思考をぐるぐる働かせていたら、あろうことか手の中でアラームが鳴った。動揺して止め忘れていたタイマーだ。報せてくれなくったって、こっちの眠気なんかとうに吹っ飛んでいるが!?ちょ、音止まんないやばいまずいばれた…!


ええいままよと意を決して顔を上げれば、なんとそこは空席だった。


なんだ悪夢だったのかと錯覚しそうになったが、香りが残っている。どうやら現実だったらしい。

俯き強く目を閉じて、どうか何事も無くと唱えた念願が叶いほっとしたのも束の間、だんだん理不尽な苛立ちが湧いてきた。わたしの貴重な睡眠時間をどうしてくれる。

弁解をする訳ではないが、普段のわたしはこんな些細なことで苛立ったりしない。多分。絶対そう。彼奴のせいである。彼奴がわたしをそうさせるのである。

なんだ、それもそれで腹が立つな。何がどうあっても彼奴に関しては修復が不可能である。

いかん午後に差し支える。深呼吸、転換しよう。


わたしの危機回避能力が優秀であると証明されたのだと考えよう。

おかげで顔を合わせても尚、気付かれず、何も無かったことに出来た。逃げるが勝ちだ、こういうのは。

会ったのではない。「会いたくない人を目撃した。」が正しいしそれで済ますことが出来た。万々歳だ。

夜にはスーパーなカップを本能への褒美として摂取しようそうしよう。同じ部署にならないことを祈りながら。


異動の春が近い。

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