出会い

 横浜の南部に氷取沢という所があり、雑多な街道を少しそれて山中に入ると、急に風景が一変し一面木々に覆われ緑豊かな里山となる。『沢』と付くので小さな川が流れ、その脇には歩道が整備され市民の森公園として横浜市で管理している。足を運び辛い場所であることや子供の遊具なんて物は全く無いので訪れる人は少ない。

 ひとりの男が歩道の脇に設置された簡単な屋根のついたベンチの脇に立って、川を挟んだ森を眺めていた。頭髪はほとんどが白く自然な感じで横に分けてある。銀縁の薄い眼鏡の奥の目は真っ直ぐ前の森から離れず間隔的なまばたき以外が目玉一つとっても挙動が全く感じられなかった。

 しばらくして、「ここじゃぁない・・・・・・」

そう呟くとベンチに腰を下ろした。そして大きくため息をひとつついた。


 僕は相変わらず仕事とパチンコ店を行ったり来たする生活を送っていた。収支は全くのマイナス。たまに勝ち続けて財布が膨らむと、呑み食いし高い肉だの寿司だの贅沢に使ってしまうので金が貯まる事はない。

 季節はまもなく十一月、しっかりした厚い上着を物置の奥から引っ張りだした頃のこと。職場に4人の研修生がやってきた。今年の春にうちの会社に入社した若い男女。男が2人、女が2人。今までは本社で研修を受けていたそうだが、この秋から色々な現場で実践的な現場研修を受けるカリキュラムが組まれているそうだ。そういえば2年前にも同じようなことがあったなと思い出した。もっともその時は男ばかりで、教育を担当した同僚によれば正社員という立場から高圧的な態度で、教えてやってやるこっちが腹が立って仕方がなかったと言っていた事を思い出した。

 現場の管理者から4人の紹介があり、今日から2週間夕方からの作業班と共に作業してもらうよう指示が出た。簡単な挨拶をして早速仕事にあたる。僕はひとりの女性を担当することになった。研修生4人に対して僕ら作業班が1名づつ付いて2人1組で作業するようにとの事だ。生意気そうな男たちじゃなくて良かった。僕についた子は、細身で背も低い、髪は細く少し明るい色をしていた。

「チサキです。よろしくお願いします」

声は見た目より低音でハスキーな感じ。聞き取りやすく音量も不快な感じがしない程度に大きい。正面に立って向かい合った、化粧は控えめだが眉だけはしっかり濃く整えられていた。目が大きく見える。上手に化粧をするんだな。

「×××です。お願いします」

 彼女の声に対して、僕の声はなんと貧相なことか・・・・・・。まあ、日々誰かと会話をする機会が多くない僕にとって声帯を使う事自体頻度が低いので仕方かないと諦めて恥ずかしさを紛らわす。

 しばらく一緒に働いて驚いた。現場研修はここが初めてでは無い事は聞かされていたが、仕事が何でも出来てしまう。しかも早く正確に。どうしたものか教える事がひとつも無い。重い荷だって軽々運んでしまう。華奢な身体からは想像出来ない安定した運び方でこの仕事をしていれば、素人で無い事は一目でわかる。同期の男達の方が弱々しく見える。

 会話という会話は特に無いまま休憩時間となった。チサキと名乗る彼女は、汗ひとつかかず身体を捻ってストレッチなんかを行っている。他の3人は座り込み下を向いて動かない。

 大したものだ。一回り近く年の離れた女性を数時間で尊敬してしまった。きっといい大学で陸上だの激しくも爽やかなサークルで身体を鍛え、勉強に恋にさぞ全力で取り組まれてきたんだろな。そうに違いない。喫煙所の曇ったガラス越しに彼女を眺めながら、いらん想像を巡らせていた。

 休憩の後も彼女はキメの細かい作業から、大型の荷物搬出までを一通りこなしていった。一言二言話すだけで完璧に、自分が頼んだ事以上にこなしてしまう。帰りの引継書まで書こうとするので、流石に止めた。初日からそんなことまでさせたら、誰に何を言われるかわからない。

「時間です。お疲れ様でした」

「はい、お疲れ様した。今日は色々ありがとうございました」

彼女は深々と頭を下げてそう言って事務所へ他の同僚3人と帰って行った。身体は疲れは無いが、気持ちが疲れた。気疲れかな。ーーもう何が何だか。嫉妬かな。


 その帰り西荻窪駅を出て自宅に帰る途中。タバコ屋の角でいつものように一服していた。

 チサキーー。研修生の事がなかなか頭から離れない。

 立場は違うし、頭の出来も違う。それはすぐにわかった。そもそも性別だって違うし、育ってきた環境だって。どういう生活を送っているのかなと興味が湧いた。

 タバコを消して家に向かって歩き始めると、道路の傍にうずくまって動かない人がいる事に気付いた。街灯もなく、ともすれば気づかないかもしれない。ただそれは確実に人である。おそらく年配の男性だ。白髪の頭部がこちらに向いている。

 気づいてしまったのが運の尽き、そのまま通り過ぎる事は出来ない。交番まで走って行ってもいいが、とりあえず腹に力を入れて声だけ掛けることにした。死んでないよな・・・・・・。

「あのーー。大丈夫ですか?」

反応は無し。

「大丈夫ですか?」

少し大きめな声で言った。

近づいてみると、身なりは綺麗である。白髪も自然に分けてあり、着ている服も傷んでいるところもなく浮浪者ではなさそうだ。

 メガネが横に落ちている。荷物は見えないが腹の前に抱えているのかもしれない。

 思い切って肩を揺すってみた。

「すみません、大丈夫ですか?」

揺すっても身体の芯がしっかりしているようで倒れない。死んではいない。少しほっとした。

何度も声を掛けたが反応がない。

 諦めて交番に向かおうとした時、男の手がゆっくり上がった。

「大丈夫ですかー、救急車呼びますか?」

 弱々しく上がった手が横にふらふら揺れる。

「救急車は、呼ばないでいいですね?」

どうして良いのか分からない。

「何かありますか?」

動かない。

 しばらくして、また手がゆっくりこいこいっと手招きしているようにうごいた動いた。

「どうしました?」

少し顔を近づけると、ボソボソと何か言っている。

「えっ?ごめんなさい。聞こえません」

・・・・・・みず・・・・・・。

「みず、水ですね。ちょっと待っててください」

先の喫煙所にある自動販売機まで走って水を買いにいった。若いやつがひとり携帯をいじりながらふかしている。こちらに気付いているのかいないのか。戻ってくると、男は膝の上で手を組んでその上に顎をのせて正面をぼぉーっと見たまま固まっていた。メガネもきちんと掛けている。

 ペットボトルのキャップを外して手渡した。

「はい、水です」

男は目玉だけギョロリと動かしてペットボトル、そして僕の顔を確認した。目が合うと急に竦んでしまった。薄明かりの中でも分かるほど迫力のある目をしていた。

「どうもありがとう」

男はゆっくり水を口に運び、目を閉じて少しづつ喉の奥に入れていった。美味そうに飲むなーー。

 一呼吸おいて男は立ちあがろうと膝に力を入れた。

 慌てて肩を貸してなんとか立つ事ができた。

「ご迷惑かけました。だいぶ楽になりました」

先ほどまでの弱々しい声色に比べたら張りのある声でそう言った。

「大丈夫ですか?」

「はい、もう大丈夫。落ち着きましたから」

お腹に抱えていたセカンドバックから財布を取り出して千円札を抜いてこちらに差し出した。

 結構です。手を振って断った。

「そういう訳にいきません、受け取ってください」

強引に渡そうとするが断り続けた。100円で買った水がものの数分で1000円になるは道理が通らない。

「もらい過ぎです」「持ち合せがこれしかないんです」

押し問答がしばらく続いたが、「頑固な人だ」そういって男が折れた。

 男はすっかり元気を取り戻した様子だ。

 一緒に喫煙所まで歩いた。

 あっ、いけない。ポケットを叩く。

 どうぞ、タバコを一本取り出して渡し、火を付けてやった。

「申し訳ない、ありがとう」

男の話を聞くと、どこか身体に悪いところがあって突発的に動けなくなる事があるらしい。いつ起こるか分からず、一年何もなければ、一月に2、3回起こる事もあるそうで大変困っているそうだ。

 改めてお礼をしたいと言われたがこれも断った。

じゃあこれで。そう言って帰ろうとすると、待って待ってと握手を求められた。

「本当に助かりました。私は井上かいじと言います。吉祥寺の東急ホテルにしばらくいます。何かあれば連絡をください。フロントには良く言っておきますから」

「はあ・・・・・・。僕は、×××です」

悪い人では無さそうなので僕からも名を告げた。

「ああ、ランドマークみたいないい名前です」

自分の名前をこんなふうに言われたのは初めてだった。

 頭を軽く下げて帰る事にした。

「連絡をください。まだひと月はこのあたりにいますから」

男は手を振って笑顔で見送ってくれた。喫煙所にいた若いやつもいつの間にかいなくなってる。

 すっかり元気になったんだな。安心した。もう一度頭を下げて家路についた。時刻は午前1時を回っていた。

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