Cigarette

七沢ななせ

cigarette 【最後まで読んでね】

「火、くれない?」


 それが、彼女との出会いだった。長い艶やかな黒髪を夕風に揺らし、深い紫の瞳をまっすぐに俺に向けていた。


 陸軍の制服であるモスグリーンの戦闘服を着こなした、メリハリのある身体つきは世の女性の理想を体現している。その人間離れした美貌も相まって、彼女は兵隊ではなく、夜の女王のように謎めいて見えた。


 呆気に取られて目の前の美女を見上げているうちに、彼女がそうか、と気づく。

 バイオレット・グレイス。陸軍唯一の女性兵で、しかも志願兵だという。どういった経緯で入隊したのかはわからないが、その実力は確かなものらしい。夜な夜な彼女が眠るテントに侵入し犯そうとした男を返り討ちにした、というのは有名な話だ。

 とてつもない美貌の持ち主だ、ということは噂で聞いていたものの、どうせ大したことはないとたかを括っていた。しかし、実物を目にすると釘付けになってしまった。引き込まれるような魅力が溢れ、陶器のような白い肌と桃色の唇が、茜色の夕陽に照らされている。


 細く長い巻き煙草をすらりとした人差し指と中指に挟み、彼女は俺の返事を待っている。銘柄はギャロップで、その名の通り、比較的ライトで吸いやすい。軽くまろやかな味わいが特徴である。


 俺は困惑に眉を寄せながらも胸元のポケットに手を突っ込み、古ぼけたガスライターを取り出した。バイオレットに渡すと、彼女は軽く手の中でライターを弾ませた。

「ありがとう」

 そう言って、ライターに火をつける。わずかに顔を傾け、火を手で覆うようにしながら、明るく揺れる火を咥えた煙草に近づけた。その一連の動作は手慣れていて、水流のようになめらかだった。

 口先から細い紫煙が燻り始め、彼女はライターを俺に返した。バイオレットにつられて、俺も腰のポケットを探る。端の潰れた紙箱を引っ張り出し、一本だけ手に取る。ライターで火をつけ口に咥えると、深く煙を吸い込んだ。肺の隅々までを刺激する重さを感じる。クロウは労働者階級の男が好んで吸う。美味さで言えばとてもギャロップに敵わないが、その代わり安く大量に手に入る。


 バイオレットは無言で煙を吐き出し、浅く吸い込むことを繰り返している。会話はなかった。日が沈み、夜が訪れ始めた野営地。煮炊きの煙や人の話し声が、風になって微かに届く。明日はまた、北に向けて行軍を続けなければならない。

 

 陸軍とは名ばかりで、市民だけで構成された脆い軍隊だ。ただ国境で肉壁となり、そしてあっけなく打破されるだろう。時間稼ぎのための道具だ。きっと俺も、そこで死ぬ。


 薄紫の光に照らし出されたバイオレットの横顔。うっすらと彼女を取り巻く煙の効果も相まって、バイオレットは怪しい美しさを放っていた。宝石のようなバイオレットの瞳は、どこか遠くを見つめている。

 やがて煙草が灰になり、煙が空へ溶けていくまで、俺とバイオレットはそこに佇んでいた。


※※※


 翌日は、重い鉄の雲が垂れ込めた朝になった。


 陸軍は野営地を離れ、北への進軍を続けた。数羽の烏が鳴き交わしながら、だらだらと続くありの行列のような俺たちを尻目に飛び去っていく。重い銃を担ぎ、鉄のヘルメット、おまけにガスマスクを首にかけた軍勢は、まるで子供が遊ぶロボットのように機械的に歩みを進める。


 長い間対立を繰り返しながらも、仮初の均衡を保っていた北方の大国。国境沿いでの小競り合いをきっかけに、争いは一気に戦争へと発展した。雲霞の群れのごとく、北方軍がこの国に雪崩れ込んだ。血が血を呼び、殺戮が殺戮を呼び、もはやなんのための争いなのかさえ見えなくなっている。戦争は底なしの泥沼と化していた。 


 重い鋲付きのブーツを引きずるように歩きながら、俺は汗の浮かんだ顔をあげた。数メートル先に、バイオレットがいる。彼女も同じように銃を肩にかけ、ただひたすらに前を向いて歩き続けていた。他の男たちと同じく、その顔に余裕はなかった。

 少ない食料と、わずかしか与えられない休息。不衛生な生活環境に重労働。入隊した以上、そこに性別は関係ない。たくさんの兵たちが病や疲労に倒れた。働けなくなった者は置き去りにされる。戦ってすらいないのに、命を削られる日々。男でも体に堪える長い行軍を、女のバイオレットがこなしているだけでも信じられないことだ。


 敵の攻撃はなく、俺たちは日が暮れるまで歩き続けた。設営部隊が派遣され、次の野営地に辿り着く。一日中続いた行軍はようやく終わり、兵たちは歩みを止めるなり崩れ落ちるように地面に座り込んだ。

 薄い雑炊が配られ、椀を腕に抱え込む。始めの頃は、食料を奪い合って争いが起きたものだが、そんな余力は誰にも残っていなかった。ただ地面に目を落とし、黙々と口を動かすだけだ。味など感じている余裕はない。

 食事が終わると、地面にうずくまって泥のように眠りに付く。いつもなら目を閉じた途端に眠ってしまうはずなのに、なぜか今晩は目が冴えて、よく眠れなかった。悶々と何度目かの寝返りを打ったとき、ふいにくぐもった人の声と何かを殴打するような音が聞こえてきた。


――ケンカだ。


 止めに入るなど、愚か者のすることだ。他人のいざこざに首を突っ込んで、無駄な体力を消費するべきではない。無視を決め込もうとしたが、どういうわけか後ろ髪を引かれる。ため息をついて体を起こした。知らぬふりをしておけばいいものを、と自分のお人よしぶりに呆れながら、物音がする場所へ歩き出した。


 足を引きずって、いくつかの焚火の燃え跡を回り込んだ。木の陰に隠れるようにして、数人の男が立っている。中心の男は暴れる細い身体つきの人物を抑え込もうと必死になっていた。

 口を塞いでいた男の手がふいに跳ね上がった。どうやら手に噛みつかれたらしい。暴れている人物を見て取って、俺は息を飲む――バイオレットだった。

 何が起きようとしているのか。それは火を見るより明らかだった。唇を強くかみしめた。俺はとっさに立っている男の背後に回り込み、素早くその太い首に腕を回した。声を上げ、もがこうとした男の首をさらに強く抱え込む。何事かと振り返った仲間の顔が、一気に引き攣った。

「暴れるな。首が折れるぞ」

 抵抗しようとしている男の耳元でささやき、俺はバイオレットを抑えていた男に顔を向けた。

「こいつを殺されたくないなら、さっさと戻れ」

 はったりではなかった。街にいた頃の俺は、それなりに有名な体術の使い手だった。しっかりと関節をきめれば首の骨を折ることなど容易くできる。男は引き攣った笑いを浮かべ、かすれた声で言った。

「どうぞ殺しな。罰されるのはおまえだ」

 仲間内での争いは、厳しい粛清の対象だ。首謀者だけではなく、関与したものも連帯責任で罰される。殺しとあらば、鞭打ちでは済まないだろう。男は歪んだ笑いを浮かべて言い募った。

「あんただってそうだろう。こんなカスみたいな世界で生きていくためにはなあ、女でも抱かなきゃ――」

 そこから先は続けられなかった。男の隙を突いて体勢を立て直したバイオレットが、男の顔面を拳で殴りつけたのだ。バイオレットの必死の顔には、抑えきれない怒りと――哀しみが浮かんでいた。

 鼻血を吹いて倒れた男を引きずるようにして、他の男たちが元居た場所へと戻っていく。俺は向きを変え、細かく震えながら立ちすくむバイオレットの腕をつかんだ。


「怪我は」

 バイオレットは俺の手を払い、手の甲で血のにじんだ口元を拭った。

「気にしないで」

 彼女は顔を上げた。細い月光に、大きな瞳だけがぎらぎらと鋭い光を放っている。俺はそうか、と頷いて息を吐いた。

「あの男の言葉じゃないが、本当にこの世界はカスだな」

 バイオレットは何も言わなかった。束の間の沈黙の後、彼女はぽつりと言った。

「あの人たちだって、最初はあんなことをする人じゃなかったのよ」

 一人語りをするように、バイオレットは続けた。

「この世界が、あの人たちを狂わせた。戦争は人を狂わせる。長いこと緊張状態に晒されれば、人の心なんて簡単に壊れる」

 俺は低くつぶやいた。

「どうして君はここに来た」

 バイオレットはかすかにうつむき、そして口を開いた。細く息を吸う音がする。

「……昔から、他の人よりも強かった。小さな町で、規格外の個性で生きていくことなんてできなかったわ。知ってる? 北方連合軍じゃ、自分が犯した女の数を誇りにして叫んでいるのよ。女を犯すことは同志的結束を強固にするんですって。女がそうやって犠牲になることが、”仕方のないこと”として処理されているのよ」

 彼女の瞳に映し出されているのは、怒りと悲鳴と、そして血を吐くような慟哭だった。

「私は、そんな世界が大っ嫌い。だから変えたいの。それが、強く生まれた私の使命だと思うから」

 強い口調でそう言った後、彼女は苦い笑いを唇に張り付かせた。

「だけど、その方法は、北方連合軍を殺すことしかない。私も、この社会の激動の中に放り込まれてあっというまに潰される駒の一つに過ぎなかった」

 俺はうつむいて、そしてふっと息をついた。

「――君一人の力で変えられることは少ないかもしれない。君がたちはだかったところで、向こうから見れば少しの障害にもならないかもしれない。だけど、君みたいな人の思いが積み重なって、いつか世界を変えるんじゃないか? 俺は、そう信じる」

 バイオレットはようやく微笑みを浮かべた。


 あーあ、とつぶやき、どこからかお気に入りらしいギャロップを取り出す。

「吸わなきゃやってられないわ」

 俺も、いかついクロウを取り出し口にくわえた。ライターで火をつけると、そっと煙を吸い込む。長い一日だった。

「……火、くれない?」

 バイオレットがギャロップを指に挟んで言う。

「吸うくせにライターはないのか」

「落としたのよ」

 真偽はどうでもいい。ただ苦笑して、ライターを投げ渡した。彼女も煙草を口にくわえ、あの時のようにライターのフリントをこする。しかし、火はつかなかった。彼女は何度か同じ動作を繰り返したが、やがて肩をすくめて俺に返した。

「ガス切れみたいね」

「親父の形見なんだ。生きて帰れたら、また使えるようにしないとな」

「絶対、生きて帰れるわよ」

 バイオレットはそう言って、いたずらな笑みを浮かべた。

「ね。火、くれないの?」

「ああ? ライターは使えねえって――」

「馬鹿ね。ここにあるじゃない」


 彼女はそう言って、背伸びをした。ぐっと顔が近くなる。バイオレットの煙草の先が、煙を立ち昇らせる俺の煙草の先に触れ合う。しかし、いかんせん身長が違いすぎた。煙草の先はぐらぐらと揺れ、少しも火が付かない。

「何してんだ」

 そう言って顔を引こうとしたその時、バイオレットが俺の顎をつかんで引き寄せた。

「――かがんで」


 火種が移るまでのその時間は、まるで永遠のように思えた。二人の煙が交じり合い、白銀の光の中に溶けていく。長い影が、二人の後ろに伸びていた。

 

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